改訂新版 世界大百科事典 「クワ」の意味・わかりやすい解説
クワ (桑)
mulberry
Morus
クワ科クワ属の植物の総称。葉はカイコの飼料として用いられるが,果実は食用になる。低~高木性の落葉樹であるが,温暖地では常緑的になる。葉は切葉と丸葉がある。花は雌花と雄花にわかれるが,小花が集まって花穂をつくる。風媒花であり,受精した雌花穂は白色または濃赤色の果実となる。春に伸長した枝は緑色であるが,秋になると灰色,褐色など種類に固有の色となる。根は直根性である。
カイコの飼料として養蚕に利用されるのがクワの最も重要な用途であるが,葉は桑茶を作るのにも用いられる。クワの果実は多汁で甘く,果樹として栽培もされるだけでなく,ブドウと同様に発酵させて,桑実酒が作られる。皮は繊維質で,マレーシアや太平洋域では,たたき延ばしてタパ布を作った。また紙やロープの原料ともなる。材は美しい光沢があり,建築材のほかに椀などの器具の製造に使われた。
分類と分布
植物学的には数種が栽培されている。重要なものには,日本に自生もしているヤマグワ,導入されたマグワ,ロソウ,クロミグワ,アカミグワなどがある。
ヤマグワM.bombycis Koidz.(英名Japanese mulberry)は単にクワ,あるいはノグワともいい,養蚕用に日本で広く栽培されるクワの母種の一つになったもので,自然状態では10mほどの高木になる雌雄異株の落葉樹である。日本全域,さらにサハリンや朝鮮に分布し,地方的,生態的な変異が大きい。海岸型のハマグワvar.maritima Koidz.は葉が厚く,光沢がある。シロエグワ,ムラサキエグワ,オナガグワや,観賞用に栽植されるフイリグワなど栽培の品種も多い。ヤマグワに似て葉がさらに大きいハチジョウグワM.kagayamae Koidz.は八丈島から伊豆七島に分布する。
シマグワM.australis Poir.は,ヤマグワと同様に雌花の花柱が長いものだが,葉はより小さく,光沢がある。九州南部,南西諸島から中国大陸,さらにインド東部まで分布し,養蚕に用いられ,栽植もされる。
マグワM.alba L.(英名white mulberry)はトウグワ,シログワともいい,東アジア(中国,朝鮮)原産のクワで,12世紀ごろにヨーロッパに入り,欧米では並木や果実用に栽植されている。果実は未熟のときは白いことが多い。養蚕用の品種も分化している。漢方では若い枝(径1~1.5cm)を桑枝(そうし),葉を桑葉(そうよう),果実を桑椹子(そうじんし),根の皮を桑白皮(そうはくひ)という。いずれも他の生薬と配合して用いられるが,桑枝はタンニンを含み,リウマチや神経痛などに,桑葉はビタミンB1,カロチンなどを含み,解熱に,桑椹子は滋養,強壮,貧血,養毛に,桑白皮はトリテルペノイド,ステロイド,フラボノイドおよびクマリンを含み,消炎性利尿,鎮咳,高血圧などに用いられる。
クロミグワM.nigra L.(英名black mulberry)はカフカス地方が原産で,果実生食用に欧米で栽植される。アカミグワM.rubra L.(英名red mulberry)もやはり生食用に欧米で栽植されるが,これは北アメリカが原産地である。
ログワM.latifolia Poir.はロソウともいい,中国原産で,葉は広くて大きい。養蚕用の品種が分化し,多く栽培されているが,枝が屈曲するコウテングワは,ヤマグワの変りもののフシマガリグワに似るが,生花材料とされる。
養蚕用の多くの品種は,いくつかの野生種から選抜育成されてきたものであるが,なかにはイチベイM.argutidens Koidz.のように交雑品種と考えられているものもある。
執筆者:堀田 満+新田 あや
クワと養蚕
海外から日本へのクワの導入については,679年に唐からクワ種子が移入されたと伝えられるが,詳細は明らかではない。高松塚古墳の壁画には当時(約1200年前)すでに絹が使われていたことが示されている。養蚕は中国で始まったが,馬王堆漢墓の発掘調査(1971)の結果,中国では約2100年前にすでに絹が服装品として使われていたことが明らかになった。衣料としてのすぐれた特徴をもつ絹は,中近東やヨーロッパ諸国でも珍重され,絹の流通を中心とする東西文化の交流の道としてシルクロードが開かれた。
→絹織物
養蚕用クワの栽培
日本では,古くは山野に自生するクワから養蚕用の葉を摘み取っていたが,江戸時代の中期以降,絹の輸入を抑えるため,国内でも養蚕が奨励されるようになり,畑にクワが栽培されるようになった。また,クワの葉を収穫する労力を少なくするためと,毎年,葉を収穫しても樹勢が衰えないようにするために,仕立収穫法が改良された。クワの栽培にあたっては,一般的に10aあたり1000本前後の苗木を植えつけるが,土壌は深く耕し,酸性土壌の矯正や有機物の補給を行う。葉の収穫は植えつけ後3年目から本格的に行われるが,管理をよくすれば15年から20年は使用できる。収穫は春と秋の2回を基本とするが,最近,カイコの飼育回数が増えてきたので,これに合わせて収穫の回数も増加している。生育期間中の管理としては,施肥,除草,病虫害防除や株直しなどがあるが,近年,固形肥料,除草剤および防除薬剤の散布などは機械によって行われるようになり,また,収穫法も個々の葉を摘む摘葉収穫から枝ごと刈り取る条桑収穫にかわり,管理や収穫に要する時間は著しく短縮された。最近では,苗木の植えつけから収穫までの期間を短縮することと,バインダーによって収穫能率を高めることを目的とした密植機械化桑園の造成が普及するようになった。
病害虫
クワの病気のおもなものには,萎縮病,紫および白紋羽病,縮葉細菌病,枝軟腐病,芽枯病などがある。積雪地帯では胴枯病の被害が大きい。萎縮病の病原については,最近マイコプラズマ様微生物の寄生によることが明らかになったが,薬剤散布による防除法は確立されていない。害虫のおもなものには,葉や新梢を食害するクワシントメタマバエ,クワヒメゾウムシ,クワノメイガ,アメリカシロヒトリなど,枝や幹を食害するキボシカミキリ,クワシロカイガラムシなどがあり,その他,根を食害するクワゾウムシやネコブセンチュウもある。いずれも薬剤散布や土壌消毒などで防除する。
執筆者:間 和夫
日本における栽培の歴史
記紀,《万葉集》《古語拾遺》など8~9世紀の文献は,当時,養蚕,栽桑が広く盛んに行われているようすを伝えているが,中でも《日本書紀》には5世紀後半に諸国にクワの栽植を命じた記事が見える。また,中国の農書《斉民要術》(6世紀半ばころ成立)には高い水準の栽桑技術が記述されており,当時の日本と大陸の往来関係から類推して,大陸に成立した技術の一部が日本に伝えられていたことは十分に推定できよう。下って,8世紀初頭に成立した律令は,百姓の戸ごとにクワとウルシの栽培を義務づけており,養蚕をおおいに奨励したため,養蚕,栽桑の技術は遅くも8世紀後半までには諸国に普及したとみられる。当時の栽桑技術の具体的内容を知るに足る資料はきわめて乏しいが,もとよりクワは家まわり,路傍,畦畔(けいはん),山地などを利用して栽植され,仕立ても自然木に近い形で放置されたものと思われる。奈良,平安の各時代は,貴族社会の発達とそこでの絹織物需要の増大につれて,養蚕はいっそう盛んになったが,その後はしだいに沈滞に赴き,栽桑技術にも顕著な進歩の跡を残していない。江戸時代の初期,各種の作物が栽培の制限を受ける中で,クワの栽培についてはこれを奨励する藩が少なくなかった。しかし,この場合にも依然として本田畑以外の土地を利用した桑林,桑原の造成が奨励されたのであり,仕立ても今日でいう立通し(たてとおし)の立木作りが一般的であった。立通し(枝条の剪定(せんてい)をしない)仕立ては刈桑仕立てにくらべて収桑量が少なく,摘桑にはより多くの労力を要するが,養蚕規模が小さい段階では,このような点での認識よりはむしろクワの寿命が長く,耐寒性に勝る立通しの長所が採用されていたのであろう。17世紀末期の農書《農業全書》には,桑苗の生産技術から根刈仕立ての栽桑法に至る高度の技術が解説され,日本における刈桑仕立てを元禄期(1688-1704)以降とする説に有力な根拠を与えている。さらに,ほぼ同時期に成立した農書《耕稼春秋》には,近在に有力な絹織物の製造地がある北陸の先進的養蚕地帯で,このころすでに桑畑に干鰯(ほしか)を肥料として投入する養蚕家が存在したことを記している。ただし,いずれも必ずしも当時の一般的技術水準を代表するものではない点に注意を要しよう。とくに,寒冷な東北地方にあっては,明治中期に至っても立通しが基本的な仕立法として採用されていた。
幕末開港後の急激な養蚕発展は,養蚕規模の拡大に伴う桑葉量確保というカイコの飼育技術面での要請から,刈桑仕立ての普及に重要な動機を導き出した。このことは同時に,収葉量を増やし,しかも桑樹の疲弊を防止する意味からも,先進地養蚕家の間で購入肥料投入への関心が高まる契機にもなった。開港後の重要輸出品である蚕種の生産地帯として特化した上野,岩代,信濃などの養蚕地帯では,とくに規模の大きな養蚕家を多数輩出し,そのような地方からしだいに専用の桑畑が造成されるようになっていったのである。江戸時代を通じて多数選抜されたクワの優良品種も,その大多数は幕末に選抜されたものであり,桑苗専門の生産者や商人も現れるようになった。さらに,明治初期以降,器械製糸業の興隆とともに,日本の養蚕業は飛躍的な発展期を迎え,明治中期以降には,全国的に専用桑園の造成と普通畑でのクワの栽植が一般化した。また,技術的にも明治期を通じほぼ今日の原形を現出するに至っている。
執筆者:平野 綏
民俗
中国
江蘇・浙江・福建などの中国東南部の農村では,養蚕業との関係からクワの木が多く栽培され,蘇州城外の呉県のように,今でもクワを街路樹とするところもある。しかし,地方によってはこれを門前に植えることを忌む。理由は〈桑〉は〈喪〉と同音で縁起が悪いというのである。華北地方は寒冷で養蚕に適しないため,クワの木は繁茂するに任せ,巨大な老樹になることがある。そこでクワの老樹には狐仙(こせん)などの神が宿るという神樹信仰もあった。殷の湯王の宰相となった伊尹(いいん)は,もと有侁氏の女がクワを摘み,空桑の中から嬰児(えいじ)を得て,その王に献じたのが後の賢相伊尹になったという。有名な蚕馬の古伝説で,殺されたウマの皮が女子を巻きこんでクワの木にとまりカイコに化したというのも,クワが養蚕と密接な関係のあったことを示す。かつ桑畑では婦女が桑摘みをするので,男女密会の場として〈桑中之約〉の語があり,また古楽府《陌上桑》で夫が妻の貞操をためす物語も桑畑を舞台とする。
執筆者:沢田 瑞穂
日本
クワの葉はカイコの飼料であるから,クワとカイコは縁が深い。東北地方の盲目の巫女であるイタコが,カイコの由来を語る〈オシラ祭文〉は,馬娘婚姻譚と呼ばれるものであるが,オシラ様という神を両手でゆすりながら語る。オシラ様はウマと娘をかたどった1尺くらいのクワの木の人形で,オセンダクという布きれが多くかぶされている。中国晋代の《捜神記》にも,同じ話が記されている。6月1日は〈衣脱ぎ朔日(きぬぬぎついたち)〉といわれ,クワの木でヘビや人が脱皮するので,クワの木の下に行ってはならないという地方が多い。長野県小県郡丸子町(現,上田市)東内では,クワは死者のつえにするため,ふだん桑棒をついて歩くのを嫌うが,井原西鶴の《好色一代男》では,逆にクワは長寿を祝うつえとされている。クワは雷除けの木ともされ,雷鳴のときに〈くわばらくわばら〉と唱える風習は広い。この唱え言は,古くは狂言《鳴神》に出てくる。青森県では,雷鳴の際,桑葉を頭にのせたり,家の入口や窓にさすと,雷が落ちないとされている。雷がクワの木に落ちない由来を説いた昔話もあるが,すでに《捜神記》に桑樹のもとで雷をとらえた話が記されており,馬娘婚姻譚同様,中国から伝わったものと考えられている。また,桑弓と蓬矢(ほうし)は邪霊を払う力があるとされ,古代中国では男児が生まれるとこれで天地四方を射る風があったが,これも日本に伝わったらしく,《平家物語》に安徳天皇の生まれたときに〈桑の弓・蓬(よもぎ)の矢〉を射たとある。《太平記》や謡曲《弓八幡》のほか,昔話にも桑弓蓬矢がみえる。群馬県富岡市の貫前(ぬきさき)神社では,正月3日の水的神事にこれで的を射て一年の吉凶を占うという。
クワは古代中国では,太陽ののぼる陽木として神聖視され,桑林で雨乞いしたり,桑林の社を聖地として歌舞や請子(子授け)の祈願がなされたほか,クワの空洞から神々や始祖が生まれたという伝説も多い。
執筆者:飯島 吉晴
クワ科Moraceae
双子葉植物,約60属1500種を有する。木本まれに草本で,熱帯を中心に分布し,クワ,コウゾ,イチジク属の一部などの植物が温帯まで分布する。茎や葉に乳管があり,傷をつけると乳液を出すものもある。葉は単葉であるが,しばしば羽状,掌状に深く切れ込む。托葉は,さまざまな程度に発達する。単性花で,個々の花は目だたないが,クワやコウゾやパンノキなどの球状の雌花序,イチジクの花序など著しい花序をつくるものが多く,全体としては目だつ。雄花は花被とそれに包まれたおしべからなる。おしべの花糸は,多くの種では最初は内曲していて,急に開いて花粉を飛ばす。雌花は花被に包まれて,1本のめしべをもつ。子房は1室で1胚珠が下垂。果実は独特の形の集合果となるものが多い。イラクサ科,ニレ科,アサ科などに近縁である。
果実を食用にするものとしては,クワ,パンノキ,イチジクなど多数あり,その可食部分,食べ方などは多様である。樹皮の繊維を利用するものは,カジノキ,コウゾなどがある。繊維をとり出し,よりをかけて粗い糸にして利用することもあるが,樹皮をくだいて繊維をからませて,紙やタパとして利用することも多い。樹液を利用するものにはゴムノキ,とくにインドゴムノキ,パナマゴムノキがあり,毒として利用するものに東南アジアのウパスがある。生育の速い樹木が多く,材は軽軟であるが,高木になるものは建築,木工などに利用される。
執筆者:岡本 素治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報