コダイ

百科事典マイペディア 「コダイ」の意味・わかりやすい解説

コダイ

ハンガリー作曲家,民族音楽学者,教育家。幼少期から鉄道官吏の父とともにハンガリー各地に移り住み,多様な音楽文化に接する。ブタペストのリスト音楽院に学び,1905年ハンガリー民謡の収集を開始。翌年発表した研究論文はバルトークに深い示唆を与え,以後行動を共にした。1907年のパリ旅行でドビュッシーの音楽を知り,同年,母校教授に就任。以後,《無伴奏チェロソナタ》(1915年),《弦楽四重奏曲第2番》(1916年−1918年),テノール合唱管弦楽のための《ハンガリー詩篇》(1923年)などの代表作が相次いで誕生した。その後は音楽教育にも力を入れ,ハンガリー音楽界の尊敬一身に集めた。ほかに,管弦楽組曲ハーリ・ヤーノシュ》(1927年),管弦楽曲《ガランタ舞曲》(1933年),独唱と合唱,管弦楽のための《ミサ・ブレビス》(1944年)などが広く知られる。→ドホナーニ
→関連項目印象主義オラトリオシュタルケルダルシマートゥビンドラティ

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改訂新版 世界大百科事典 「コダイ」の意味・わかりやすい解説

コダイ
Kodály Zoltán
生没年:1882-1967

ハンガリーの作曲家,民族音楽学者,音楽教育家。1900年にブダペストのウトボシュ・ローラント大学に入学,哲学科に籍を置くかたわら,02年からリスト音楽院で作曲をリストの弟子であったJ.ケスラーに師事する。05年から同僚のバルトークと共に始めたハンガリー民謡の研究と,07年のパリ旅行でのドビュッシーの音楽との出会いは,彼の作風に大きく影響する。特にハンガリー民謡は,当時のハンガリー・オーストリア二重帝国下における,政治的・文化的抑圧に抗する民族主義者コダイにとって,民族一体化の拠りどころであり,また彼の創作の直接的な素材でもあった。1907年から母校リスト音楽院で作曲,理論の教師となり,19年には副校長要職にもたずさわっているが,この間はおもに《バイオリンとチェロのための二重奏曲》(1914),《無伴奏チェロ・ソナタ》(1915)等,室内楽曲を作曲している。23年,ブダペスト市統合50周年記念式典のための《ハンガリー詩篇》は彼の名を一躍国際的なものにするが,この曲以後,オペラ《ハーリ・ヤーノシュ》(1926),《ガランタ舞曲》(1933),《孔雀主題による変奏曲》(1939),《ミサ・ブレビス》(1944)等の大規模な作品が書かれるようになる。一方,25年以後子どものための多くの合唱曲を書いた。これらの曲に示された,子どもたちの心を音楽によって豊かにしようという熱意は,今日〈コダイ・システム〉と称されて世界的に普及している〈わらべ歌や民謡に基づく音楽教育〉の基になっている。ブダペストにおいて,数々の国家的栄誉に包まれて84歳の生涯を閉じた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コダイ」の意味・わかりやすい解説

コダイ
こだい / 小鯛

硬骨魚綱スズキ目タイ科のキダイの地方名で、主として高知(体長10~36センチメートルのもの)、宮崎、鹿児島県地方での呼び名である。このほかに、大阪のようにタイ科のマダイ、キダイ、チダイの幼魚をさす地方もある。また、イサキ科のコショウダイの高知、宮崎県地方の呼び名でもある。

[赤崎正人・尼岡邦夫 2017年7月19日]

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世界大百科事典(旧版)内のコダイの言及

【チダイ(血鯛)】より

…日本各地,朝鮮半島,東シナ海に分布しているが,南方に多い。地方名も多く,壱岐,対馬でヒダイ,高知県,新潟県でコダイと呼ばれる。また,雄の成魚では前額部が突出してくるので東京都でオオッパナ,銚子でハナダイと呼ばれる。…

【音楽教育】より

音楽学校【山住 正己】。。…

【ハーリ・ヤーノシュ】より

…【小沢 俊夫】。。…

【バルトーク】より

…【谷本 一之】。。…

【ハンガリー】より

…【家田 修】。。…

※「コダイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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