シベリア開発(読み)シベリアかいはつ

改訂新版 世界大百科事典 「シベリア開発」の意味・わかりやすい解説

シベリア開発 (シベリアかいはつ)

ロシアではすでに12~13世紀にノブゴロドの商人が,交易のためウラル山脈を越えて西シベリアに達した。16世紀の半ばになると,今度はモスクワの商人たちが毛皮を求めて,遠くエニセイ川の河口まで行った。1558年富裕な商人グリゴリー・ストロガノフはツァーリ,イワン4世から西シベリア開発の許可を得たが,そのねらいは毛皮をはじめとする魚,塩,銅,銀などの豊富なシベリアの資源であった。ストロガノフ家エルマークを長とするコサック隊をシベリア遠征に派遣したが,彼らは82年にシビル・ハーン国の本営を陥れ,次いでその主都カシリクKashlykを占領した。この後86年には今日石油で有名なチュメニが,翌年にはトボリスクが建設され,シベリア先住民にはヤサークと呼ばれる毛皮税が課せられた。毛皮貿易が衰えると,18世紀から鉱山の開発が行われるようになり,これには流刑囚も使用された。18世紀末から19世紀初めにかけてネルチンスクの銀山が,19世紀に入るとレナ川流域の金山の開発が始まった。一方,農奴制の圧迫を逃れてシベリアの自由の地に移住した農民は,西シベリアを中心に農業を発展させ,19世紀の後半になると西シベリアは穀倉地帯となり,外国へも穀物が輸出されるようになった。1861年の農奴解放によって,中央ロシアや南ロシアで人口が増加し,土地が不足するようになると,農民の移住は一段と増加した。これに60年代の後半から加速的になった鉄道建設による輸送力の増強が拍車をかけた。シベリア移民の輸送という点により決定的役割を果たしたのは91年から始まったシベリア鉄道の建設で,1881年には年間10万人だった移住者が99年には22万人に達した。シベリアの開発は人口の増加によく表れている。1727年には登録農民数16万9868(男子のみ)が1850年には91万8355に増えている。この1850年のシベリアの全人口は約217万であったが,97年には490万に達した(このうち非スラブ系の先住民は約75万)。極東地方へは,黒海からウラジオストクまでの定期船がウクライナからの移民を運んだ。
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十月革命後,シベリアの開発は,ソビエト政権が誕生すると直ちに速いテンポで進められたわけではない。シベリア・極東地方は反革命軍の拠点でもあったし,日本をはじめとする外国干渉軍の爪跡を癒すのに若いソビエト政権はたいへんな年月を必要とした。シベリア開発が具体的にとり上げられるようになったのは,第1次五ヵ年計画(1928-32)のなかの〈ウラル・クズバス・コンビナート建設〉以降である。東部開発は1937年,第3次五ヵ年計画(1938-42年の予定が,41年に戦争で中断)のなかで初めて重点課題となり,BAM(バム)(バイカル・アムール鉄道)の建設も策定された。

 第2次大戦中にヨーロッパ・ロシアの工業諸施設をウラル以東に移したのは,ナチス・ドイツの軍事的脅威に備えたものでもあった。スターリンは第3次五ヵ年計画において社会主義の達成を宣言したが,ロシアの国民は契約・納期・品質管理など資本主義の基本も習得していなかったし,このことが後にソ連型社会主義の崩壊につながる課題として残されていた。

 第2次大戦が終結し,ヤルタ体制が確立したが,両大戦間の半世紀足らずの間にソ連は英・仏などを追い越し,国際政治の場で一,二を競うまでに国力を増大させた。しかし,ナチス軍を制圧するために国の経済力を限界に近くまで投入し,〈戦後復興五ヵ年計画〉と呼ばれる第4次五ヵ年計画(1946-50)に立ち向かった。復興の基軸となるべきシベリア開発には日本軍捕虜を労働力として利用した(シベリア抑留)。1953年スターリンの死後,56年2月の第20回党大会でのフルシチョフ報告から非スターリン化の諸施策が展開される。国民経済を工業,しかも重工業中心で推し進めてきた中で農業部門の著しい立遅れに注目したフルシチョフは,穀物生産の増大を緊急課題とする処女地開拓カンパニアを行い,西シベリアなども国の食糧生産基地になった。20年間中断されていたBAMの建設工事も再開され,開拓地域も北方に拡大された。南ヤクートの石炭,鉄鉱,西シベリアの石油,天然ガスの開発などのエネルギー生産は依然として花形で,さらにウドカンの銅鉱,ビリュイ河畔の天然ガスなどがその埋蔵量の点で注目された。

 シベリア開発の特色の一つは学術・文化面の事績である。1957年オビ川のほとりの森の中にソビエト連邦科学アカデミー・シベリア支部のアカデム・ゴロドク(学術都市の意)をつくり,基礎研究を重視する約30の研究所に当初約7000人の第一線研究者を送り込んだが,やがて国の内外に誇る学術中心となった。また近くのノボシビルスクに国内最大の印刷所や劇場をつくった。

 鉱工業資源や森林資源の開発が進む一方では,自然破壊や環境汚染の問題が表面化しており,バイカル湖の汚染やノリリスクのような鉱業都市での大気汚染も深刻である。とくにトナカイ遊牧を生業とする先住民たちは,生態系の破壊により危機にさらされている。

 18年に及ぶブレジネフの停滞期の後,ゴルバチョフが登場しペレストロイカを進めたが,それ以後モスクワ政府の政策はヨーロッパ・ロシアに集中し,ウラル以東の東部開発はまったく放置された感がある。エリツィン政権下でもその流れは変わらず,物流システムについてのロシア人の不慣れの虚をついてグルジア人,アルメニア人などのマフィアがシベリア,極東地方にもはびこり,所得格差が急速に増大した。物流システムも官僚主義に毒され,建設工事は進まず,まるで瀕死の状態にある。シベリアの天然資源も仮死状態にあるが,枯渇したわけではない。依然として日ロ経済関係のモティーフたりつづけるであろう。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シベリア開発」の意味・わかりやすい解説

シベリア開発
シベリアかいはつ

ロシアのシベリア地方の経済建設。 1891~1905年のシベリア鉄道開設に象徴されるように,ロシアのシベリア進出は 20世紀初頭に本格化したが,経済開発が進みだしたのは第2次世界大戦前後である。 56年,ソ連共産党の第 20回党大会において,ウラル以西の重工業の発展促進と,ウラル以東シベリア,極東方面の豊富な資源の開発とこの地域の重工業化をはかる開発計画が公表された。しかしシベリア開発の総合計画に関しては具体的には示されず,地域別計画として部分的に具体化しているにすぎなかった。ブラーツク,クラスノヤルスクなどの水力発電所,バイカル湖付近のパルプ工場,アルミニウム工場,ウランゲリ港などが完成または着手されており,石油,ガス,非鉄金属など地下資源の調査,開発も進められている。チュメニ州の石油はバクーに代りソ連工業の原動力となるとともに,東欧への輸出,外貨獲得源としても大きな力となってきた。しかし,東西の交通の不十分,人口と労働力の不足,気候風土の不良,莫大な機械設備を東に送るためのウラル以西工業力の余裕不足,労働者定着施策の不十分などが問題となっていた。 87年ソ連は 2000年までの極東発展計画を採択し,この地域の開発に積極的に取組む姿勢を見せ,木材加工,漁業などで日本などとの合弁企業もできつつある。ソ連崩壊後地域主義が強まり,旧ソ連沿海州と日本の日本海側諸地域との協力関係が注目されるようになった。

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