翻訳|Champagne
フランス北東部,パリ盆地東部を占める旧州または地方名。マルヌ,オート・マルヌ,オーブ,アルデンヌの4県からなる現在の行政地域(レジヨンrégion)の名と同じであるが,旧シャンパーニュ伯領はその周辺をも広く含んでいる。1285年フランス王領へ併合された。主都はトロアTroyes。パリをかなめとする扇のような,同心円状の三つの地帯からなり,内側は〈イル・ド・フランスの急崖〉の丘陵地帯,中央部は〈乾燥(不毛な)シャンパーニュChampagne sèche(pouilleuse)〉の台地,外側は〈湿潤シャンパーニュChampagne humide〉の低地である。この地方はケスタ地形をなしているため,乾燥シャンパーニュと湿潤シャンパーニュの間には,〈シャンパーニュの急崖Côte de Champagne〉があり,湿潤シャンパーニュの外側では,ロレーヌの側を〈ムーズの急崖〉,ブルゴーニュの側を〈バールの急崖〉が切っている。
〈イル・ド・フランスの急崖〉の稜線は森林でおおわれ,急崖に露頭をみせる粘土層に湧水線があり,水はけのよい山麓には有名なシャンパンの原料ともなる〈白の中の白(ブラン・ド・ブラン)〉ブドウ酒の産地が広がっている。ブドウ作りは1ha足らずの零細経営が多いが,19世紀の病虫害とたび重なる戦禍によって大企業の買収も進んだ。シャンパンは17世紀につくられはじめたとされるが,醸造元の名の多くがドイツ系であることからわかるように,ライン地方の資本が開発を進め,零細ブドウ園は仲買人を通じて大企業に従属している。ブドウ酒を最低3年は寝かせねばならぬことなど投下資本の回転が遅く,ランスやエペルネーの大シャンパン工場が市場をほぼ支配し,他方,これに対抗して協同組合も活動している。
〈乾燥シャンパーニュ〉は開けた白亜層の台地で,水がたちまち浸透してしまうため,不毛なサバールsavartとよぶ荒地が多かった。集落はまばらで,河川に沿ったソンムsommesとよばれる泉の近くに立地した。しかし不毛な土地も,19世紀来の植林によって一面の平地林と化し,サバールは軍用地に見られるだけとなった。ついで1950年代から激しい森林伐採が行われ,多量の肥料投下,機械化による大規模農場の急発展が始まった。〈不毛なシャンパーニュ〉という形容は現在も用いられるが,イル・ド・フランス以上に大規模で近代的な農場が成立し,小麦やテンサイを栽培し,牛を飼育する混合農業地帯となっている。農場は機械化が進んで,家族労働による自作農が多く,労働生産性が高い。その風景は広々とした〈豊かな〉シャンパーニュである。
〈湿潤シャンパーニュ〉は,不透水層の粘土層や砂岩が地表近くにあり,沼沢地が点在し,水流も多く,森林や草地に覆われている。農地はボカージュ(畦畔林)で囲まれており,その中に農家が散村状に点在している。まとまった小村には修道院や領主が開いた新田村に起源をもつものもみられる。農場の規模は小さく,肉牛や乳牛などの牧畜を中心としている。近年,この森と沼の自然環境を利用して,パリの上水道の水源地帯として,ダムなどの整備が進められており,森と湖の観光地としても脚光をあびている。
3地帯は南北に延びており,特に乾燥シャンパーニュは南のブルゴーニュ地方と北のフランドルを結ぶ絶好の交通路である。西のイル・ド・フランスや東のロレーヌの側には,急崖が南北に走っているが,これらを切ってセーヌ,その支流のオーブ,マルヌ,エーヌなどの河川が流れ,ポルト(門)とよばれる東西交通路を開いており,パリとライン地方とを結ぶ幹線交通路が走っている。このような交通上の要衝に位置しているため,この地方は古代から商業活動が活発で,フランドルの毛織物,イタリアを経由したオリエントの香料,スペインのなめし革,ドイツの亜麻,フランスのブドウ酒,岩塩などが,〈シャンパーニュの大市foires de Champagne〉で取引された。市は12~13世紀に栄え,トロアとプロバンで毎年2回,バール・シュル・オーブとラニー・シュル・マルヌで毎年1回開かれ,おのおのが6~7週間続いた。ほぼ一年中この4市のどこかで国際的な大市が開かれていたことになる。この大市ではすでにその決済に為替手形が使われていた。これも百年戦争や海路の発達により急速に衰退した。この商業活動は今やパリなどに移って,シャンパーニュ地方は北東フランスの人口稠密地帯に穴があいたような過疎地帯となっている。工場も,ランスのシャンパン,シャロンのビール醸造業など原料をこの地方から得る食品加工業,かつて乾燥シャンパーニュに栄えた牧羊業から始まったトロアの帽子製造業,ロレーヌの鉄鉱石と湿潤シャンパーニュの薪を用いて行われていた製鉄業から発達したトロアの車輪,サン・ディジエの鋳物など小規模なものが多い。
急崖は東からの侵略に対するパリの防衛線であって,しばしば歴史上の有名な戦いがこの地方で行われた。1814年冬にはナポレオンがその少年時代を過ごしたブリエンヌ,モンミライユなどが戦場となった。このほか1870年のスダンの戦,第1次大戦中のシャンパーニュの戦(1915-18)などが有名である。多く点在する慰霊碑は古戦場を示しているが,今なお要塞や軍事施設が置かれている。
執筆者:田辺 裕
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
フランス北東部の歴史的地域名、旧州名。歴史的には現在のアルデンヌ、オート・マルヌ、オーブ、マルヌの4県のほか、エーヌ、セーヌ・エ・マルヌ、ムーズ、ヨンヌ各県の一部が含まれるが、現在は前4県でシャンパーニュ・アルデンヌという行政地域を構成している。地区の面積は2万5606平方キロメートル、人口134万2363(1999)。現在のシャンパーニュ地方の中心都市はシャロン・アン・シャンパーニュで、旧州時代はトロアであった。ブドウの大栽培地域(面積3万5000ヘクタール)で、年間1億5000万本のぶどう酒を生産する。人口密度は1平方キロメートル当り約50人と低く、フランス全体の半分にすぎない。しかし第二次世界大戦後、人口は約25%増加した。小麦、大麦、トウモロコシ、オート麦の穀物栽培を主とし、大量の肥料を使用する機械化経営が卓越する。ぶどう園は面積的には広くはないが、農業収入に占める割合は高い。牧畜はオート・マルヌ県、アルデンヌ県などの湿潤な地域において卓越する。工業は、鉱山資源やエネルギー資源が乏しいため盛んではなく、織物、精錬業がある程度である。ランス、エペルネ、シャロン・アン・シャンパーニュを結ぶ三角形が発展の中心であり、鉄道、道路の要衝をなす。マルヌ県の東西を東部高速道路が通過し、発展に寄与している。
[大嶽幸彦]
ローマのカエサルのガリア征服当時、この地方にはベルガエ系とケルト系の諸部族が居住していた。ローマ帝政時代には道路網が発達してガリアの交通の要衝となり、帝政後期にはランス、サンスが重要な行政中心地となった。フランク人の征服後、この地域は分王国によって繰り返し分割された。6世紀末にはランスを中心にシャンパーニュ公領がつくられたが、8世紀には消滅する。教会組織においても、この地域はランス、サンスの両大司教管区に分かれており、行政的統一は存在しなかった。フランク王国の分裂とともに大部分は西フランク王国に帰属し、10世紀にはランス、ランを中心とした地域は末期カロリング朝の拠点となった。この時期にまずベルマンドア伯家がカロリング家と争いつつ、この地方に勢力を伸ばした。ついでブロア伯家が進出し、11世紀初めにモー、トロア両伯領を獲得して南方に勢力を拡大する。その支配圏が11世紀末にはシャンパーニュ伯領とよばれるに至り、後のシャンパーニュ州の原型となった。
伯はブロア、シャルトル地方をあわせもつ強大な封建諸侯であり、11、12世紀にはカペー朝をしばしば脅かした。すでに10、11世紀において、トロア、プロバン、ラニー(現ラニー・シュル・マルヌ)などの都市に大市が存在したが、12世紀にはこれらの大市が歴代の伯によって整理統合され、綿密に組織されたシャンパーニュの大市が成立した。ここでは毛織物をはじめとする北方物産と、イタリア都市が仲介する東方物産、地中海物産とが取引され、さらに金融市場の機能をも兼ね備えてヨーロッパ各地から商人を集め、14世紀初めまで繁栄を続けた。1274年、相続者が後のフィリップ4世と結婚することにより伯領はカペー家に帰属し、1361年には制度的にも王領に統合された。アンシャン・レジーム期には州を構成していたが、州三部会も高等法院も存在せず、政治的まとまりは弱かった。西部の農業生産は17世紀に衰退したが、ぶどう酒のみはその後に国際的評価を受けるに至った。
[江川 温]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
フランス東北部の旧州名。首府トロワ。平坦な地勢から第一次世界大戦などの戦場となる。854年,世襲伯領としてフランクから独立。同地方の大市は中世商業の中心として12~13世紀に繁栄したが,フランス王領に併合(1284年)後,衰えた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報
…また第2の鐘が鳴り終わるとすぐ灯火を消し,居酒屋も閉じられた。 中世における市の機能は,シャンパーニュの市に代表されるような遠隔地商人のための仲立市場と,市民自身の商業取引の場とに分けることができる。前者はイタリア,プロバンスからフランドルにいたる大商業路にそって成立しており,シャンパーニュとブリーの歳市がその代表的なものであった。…
…高価な奢侈品交易の背後には,日常生活に必要な商品の交易網がひろがっていた。やがて12世紀にはシャンパーニュの市によって北と南の両商業地帯が結びつくようになる。各地の商人はキャラバンを組んでシャンパーニュを訪れ,香料,毛織物,皮革などを取引した。…
※「シャンパーニュ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新