一方、北部では、1854年にイギリスの探検家リチャード・バートンが初めてハラール高原からソマリア北部に入った。1884年にはイギリスが北部をソマリランド保護領として支配し、西部のフランス、南部のイタリアと、ソマリアを三分した。住民の反抗も激しく、ムハンマド・アブディル・ハッサンMohammed Abdullah Hassan(1864―1920)の率いる反乱は20年間続き、「マッド・ムラー」として恐れられた。1935年のイタリア・エチオピア戦争の結果、イタリアはエチオピア全土を支配し、さらに1940年から第二次世界大戦中までソマリランド保護領を占領した。この間、北ケニアとジブチを除いてソマリアはイタリアの支配下にあった。1941年から1942年にかけての北東アフリカにおけるイタリアの敗退で、イギリスがとってかわり、数年間同様の支配を受け継いだ。1941年5月、アディス・アベバに返り咲いたハイレ・セラシエ皇帝はイタリアの旧植民地の返還を要求したが、ソマリ人の居住するハウドおよびオガデン地方と、その他の保留地区はイギリスの軍政下に置かれたままとなった。1949年、旧ソマリ植民地を10年間イタリアの国連委任統治下に置くことが決定されたが、エチオピア皇帝はソマリ人の民族自決の原則を踏みにじるものと非難した。一方、モガディシオで結成されたソマリ青年同盟は文化的・政治的自由を叫び、その運動はソマリア全土に急速に広がった。
1960年6月、北部はソマリランドとして独立、同年7月、イタリアの信託統治となっていた南部と合体してソマリア共和国となった。初代大統領にはソマリ青年同盟のシェルマルケAbdirashid Ali Shermarke(1919―1969)が選出された。
[赤阪 賢]
政治
独立後ソマリ青年同盟を中心とする連立政権が発足したが、小民族グループを代表する政党が分立し、政情は不安定な状態が続いた。1969年10月、大統領シェルマルケが暗殺されると、軍部が無血クーデターに成功し、軍参謀長モハメド・シアド・バーレMohamed Siad Barre(1919―1995)を議長とする最高革命評議会が権力を握った。国名をソマリア民主共和国と改称、評議会議長バーレは大統領に就任し、憲法を停止して議会を解散した。
独立後,初代大統領に選ばれたアデン・アブドゥラ・オスマンは,大ソマリア主義を標榜して,フランス領ソマリランド(現,ジブチ共和国),エチオピア領東部(オガデン地域),ケニア北部辺境など,他国のソマリ族居住地域を自国領として奪回しようとしたために,ケニア,エチオピア両国としばしば軍事衝突を起こした。またアメリカの軍事的支援を得ていたエチオピアに対抗する必要上,ソ連に接近して,その軍事援助を導入した。67年の選挙でオスマンを破ったアブドゥル・ラシッド・アリ・シェルマルケが第2代大統領に就任すると,先鋭な大ソマリア主義は修正され,近隣諸国との関係改善の方針が打ち出され,西側諸国との友好関係も推進された。しかし国家建設は容易に進まず,大ソマリア主義も一頓挫をきたしたために,国内の不満はしだいに増大し,69年10月シェルマルケ大統領は暗殺された。同月,新大統領がまだ選出されないうちに軍部が無血クーデタを起こし,シアド・バーレ将軍Muḥammad Siad Barre(1919-95)を議長とする最高革命評議会が政権を握った。同評議会は憲法を停止し,国名をソマリ民主共和国と改めた。