ナス科(APG分類:ナス科)タバコ属Nicotianaの多年草。栽培上は一年草として扱われる。喫煙用として世界に広く栽培される。
[田中正武]
茎は高さ2メートルになり、長さ約60センチメートルの葉を互生する。葉の形は長紡錘形、長心臓形など品種により異なるが、1本の茎に30枚ほどつき、茎の中部から上部の十数枚ないし20枚が収穫され、利用される。また、葉身の基部が発達せず葉柄があるようにみえる品種群と、葉身の基部が発達して無柄にみえる品種群とがある。花は筒状の合弁花で、花色は白色、桃色、赤に近い桃色などがある。雄しべ5本、雌しべ1本、花冠の先端は5裂する。種子は長径0.7~0.8ミリメートル、短径0.5~0.6ミリメートルと小さく、赤褐色ないし黒褐色のやや平たい卵形で、表面に波状の凹凸がある。葉を乾燥させ、紙巻きたばこや葉巻たばこ、パイプやキセル用の刻みたばこなどをつくる。
[田中正武]
タバコ属植物はいくつかの栽培種のほか、野生種も知られている。本種以外の栽培種としては、主としてニコチン採取用とするマルバタバコN. rustica L.のほか、観賞用とするオオタバコN. tomentosa Ruiz et Pav.やハナタバコ(ニコチアナ)N. × sanderae W.Watson、キダチタバコN. glauca Grahamなどがある。マルバタバコは黄色みを帯びて、葉には長い葉柄があり、先端は名のごとく、タバコに比べて丸く、とがらない。品質はタバコに劣るが、早熟性なので、かつてメキシコを中心として南アメリカの高地や寒冷地、およびドイツ、スイスなどで栽培されたが、現在は喫煙用としての利用はほとんどない。葉のニコチン含量がタバコに比べて高く、ニコチン採取用として栽培される。オオタバコやハナタバコは花の美しい種類で、欧米では品種改良も行われて花壇などに利用されている。またキダチタバコは観葉植物として利用される。
なお、観賞用の品種の栽培は自由であるが、喫煙用のものは日本では「たばこ事業法」(昭和59年法律68号)によって、日本たばこ産業株式会社と契約した者だけが栽培することができる。
[田中正武]
タバコ属の野生種には二倍種、四倍種ほか、異数性も含む約60種がある。シルベストリス種N. sylvestris Speg. et Comes.、トメントーサ群(トメントーサ種N. tomentosa Ruiz. et Pavon、トメントシフォルミス種N. tomentosiformis Goodsp.、オトフォラ種N. otophora Grisebach)、パニキュラータ種N. paniculata L.、ウンジュラータ種N. undulata Ruiz. et Pavonは二倍種であるが、栽培種のタバコやマルバタバコは四倍種である。
タバコは、シルベストリス種とトメントーサ群の1種との自然雑種がまず生じ、引き続きおこった染色体倍加によって成立したものである。シルベストリス種とトメントーサ群のそれぞれとの交雑による人為合成種を育成した場合、種子稔性(ねんせい)を示すのはオトフォラ種のみで、しかもオトフォラ種はシルベストリス種と共通した分布域をもっている。したがって、トメントーサ群のなかでも、オトフォラ種がもう一つの祖先種である可能性が高い。その起源地は、両祖先種の共通分布地域であるアルゼンチン北部のサルタ地域とそれに接するボリビア南部地域である。しかしこれの野生種は発見されていない。もう一つの栽培種マルバタバコはパニキュラータ種とウンジュラータ種との二倍種間の自然雑種が生じ、引き続きおこった染色体倍加によって起源された四倍種である。その起源地は、両祖先種の共通分布地域と推定されるので、ペルー、ボリビアの中央アンデス地帯3000メートルの高原、しかも太平洋側の西斜面と推定される。これの野生種は、エクアドル南西部の標高2300~2800メートル、ペルーとボリビアの国境地帯のアンデスの西側の標高2000~3600メートルの乾燥地帯で発見されている。
この二つの栽培種のうち、マルバタバコがまず成立し、北方のメキシコ、北アメリカ南西部、東部から北東部、カナダ南部まで広がった。その後、今日喫煙用に栽培されるタバコが起源され、マルバタバコにとってかわった。これが南北両アメリカ大陸に広がり、コロンブスによる「新大陸発見」(1492)当時、北アメリカ北部と南アメリカ南端を除く9割以上の地域で栽培され、喫煙の風習があった。ヨーロッパへは1518年にスペインに導入されたのが最初である。その他のヨーロッパ諸国へは16世紀後半に次々に導入された。トルコへは1850年にエクアドル、コロンビアから導入され、トルコ葉の成立をみた。
アジアへは1571年にスペイン人がキューバからフィリピンに導入したのが最初である。今日、フィリピンで栽培される品種はマニラ葉と称され、優秀品種の一つとなっている。中国大陸へは台湾経由で1600年に福建に入り、その後大陸南部、中部に伝えられ、ビルマ(ミャンマー)へと伝播(でんぱ)した。インドへはポルトガル人が1605年にブラジルから導入し、1610年にセイロン島へ伝えられた。日本へは慶長(けいちょう)年間(1596~1614)に薩摩(さつま)(鹿児島県)の指宿(いぶすき)港に入り、長崎に伝えられ、さらに宝暦(ほうれき)年間(1751~1764)に浦賀(うらが)港に入り、全国に栽培が普及した。その後品種が増え、1897年(明治30)の専売制移行当時の品種は170種に及んだ。
[田中正武]
タバコは品種によって葉の香りと喫煙の味(香喫味という)、弾性、燃焼性などが違い、これに応じて用途も異なる。また種類によって栽培適地がほぼ決まっており、栽培から収穫したあとの葉の処理に至るまで、それぞれ違った栽培法や調製法が行われる。品種は黄色種、バーレー種、在来種、それに日本での栽培はないが葉巻種、オリエント種に大別される。
〔1〕黄色種は、収穫した葉を乾燥室内に吊(つ)って乾燥させ、鮮明な橙(だいだい)色ないし淡黄色に仕上げる品種である。北アメリカ原産で、世界的にもっとも広く栽培される。日本へは明治以降に導入され、昭和に入ってから本格的な栽培が行われ、関東地方以西、沖縄まで広く栽培される。日本の黄色種の品種は、第1黄色種から第4黄色種に4大別され、現在は第1、第2、第3、第4黄色種が栽培されている。第1黄色種は紙巻きたばこの準香味料品種(香喫味の主役ではないが、それに準ずる品種)である。瀬戸内と九州地方を中心に栽培される。第2黄色種は低ニコチン品種で、紙巻きたばこの緩和料品種(緩和補充料ともよばれ、製品の火もちをよくし、製品に張りを与えるもので、それ自身の味と香りは淡泊で、くせのない品種)である。北陸地方、中国・四国地方、鹿児島県、沖縄県で栽培される。第3黄色種はかつての標準品種で、紙巻きたばこの香味料品種(香喫味が優れ、またそれがかなり濃厚な品種)である。九州地方で栽培される。第4黄色種は関東で栽培される。
〔2〕バーレー種は元来アメリカの在来種から突然変異で生じたもので、葉緑素が少ない品種である。香喫味が優れ、特有の味をもち、いわゆるアメリカタイプの紙巻きたばこの香味料品種である。日本で本格的栽培が始まったのは1938年(昭和13)からで、東北地方が栽培の中心である。
〔3〕在来種は、明治以前から日本の各地で栽培されていた品種、およびそれらをもとに改良された品種の総称である。江戸時代から栽培され、多くの品種があり、第1在来種から第5在来種の5群に分けられる。そのうち第2、第3および第5在来種が経済栽培されているが、第1在来種と第4在来種は現在は栽培されていない。第2在来種の品種松川(まつかわ)は、紙巻きたばこの緩和料品種で、在来種のうち栽培面積がもっとも多い。主産地は福島県である。第3在来種には、栃木県が主産地のだるま、徳島県が主産地の阿波(あわ)、静岡県が主産地の遠州(えんしゅう)の3品種が含まれる。いずれも紙巻きたばこの緩和料品種である。第5在来種の品種白遠州は、バーレー種と在来種との交雑によって育成されたもので、草姿や栽培、調製法はバーレー種とほぼ同じで、在来種の香喫味をもった多収性品種である。紙巻きたばこの緩和料品種で、各地で栽培される。なお、第1在来種には水府(すいふ)や国分(こくぶ)などの品種があり、香喫味がとくに豊かなので刻みたばこに用いられたが、刻みたばこの需要の減少に伴って栽培がなくなった。第4在来種の品種に南部(なんぶ)があり、葉巻用とされ、岩手県が主産地であったが、現在は栽培されていない。
〔4〕葉巻種は葉巻たばこ用の品種で、原料を強く発酵させることが特徴である。葉巻の需要はヨーロッパを中心として多く、主産地はカリブ海地域のキューバ、ドミニカからアメリカ合衆国のフロリダ州などのほか、ウィスコンシン州、それにスマトラ島、フィリピンなどである。
〔5〕オリエント種はギリシア、トルコなど地中海性気候に生育する品種で、独特の芳香をもつ。日本のような多湿地帯では栽培はむずかしい。
[星川清親]
タバコの種子はきわめて細かいので、水播(みずまき)法といって水に浮かべた種子を如露で水とともに苗床に散布する。タバコの種子は好光性なので、覆土をせず種子がわずかに隠れる程度に堆肥(たいひ)粉をかける。播種(はしゅ)期は2~3月。苗床の温度は20~25℃に保つ。播種後5~7日で発芽する。本葉3、4枚のときに別の苗床に仮植えする。苗が8、9葉まで育った4月ころ、ビニルフィルムで土壌面を覆った本畑に定植する。7月ころまでには草丈が2メートルほどに育ち、茎頂に花をつけ始める。開花の初期ないし中期に茎の芯(しん)を摘み取る(摘芯という)。摘芯の深浅によってニコチンやその他の葉内成分の蓄積量が左右されるので、タバコ栽培上重要な作業である。すなわち、浅くすると葉のニコチンが少なくなり、深くすると多くなる。また、分枝の芽が伸びると芯止めの効果がなくなるので、葉の付け根から出る分枝の芽もすべて取り除く。この芽を出さないようにマレイン酸ヒドラジドなど成長調節物質も利用される。摘芯の済んだ直後、普通は7月中旬から収穫が開始され、1回に2枚程度ずつ、5~7日置きに下葉から順次収穫する。中位葉まで収穫が進むと、それより上位の葉はほぼ同時に成熟するので、黄色種では5、6ないし7、8枚が一時に収穫できる。またバーレー種や在来種では、それより上位の葉7、8ないし10~15枚を茎ごと刈り取る。
収穫した葉は、乾燥の過程を経て流通過程にのせられる。乾燥の間に、葉中のタンパク質やデンプンなどの高分子化合物の分解がおこり、たばこの香喫味成分の生成がおこるので、葉たばこの乾燥は単に乾かすということ以上の意味をもった加工過程といえる。タバコの種類によってそれに適した乾燥方法があり、大別して二つの方式が行われる。黄色種の乾燥には、もっぱらバルク乾燥法が行われる。これは、葉を吊るした乾燥室に、灯油やプロパンガスによる熱風を強制循環させる方法で、初めは36~38℃から最終は70℃を上限とし、段階的に温度を上げながら全工程120時間程度で乾燥させる。バーレー種と在来種では空気乾燥法(自然乾燥法ともよばれる)が行われ、葉を自然の温度、湿度、通風で3~4週間かけてゆっくり乾燥させる。
タバコの病害には立枯病やタバコモザイク病がある。立枯病はとくに黄色種の主要病害となっているが、抵抗性品種の栽培やクロルピクリンによる土壌消毒によって防除する。また、タバコモザイク病はタバコモザイクウイルスによるもので、かつて大きな被害を与えたが、ウイルス抵抗性がある近縁種のN. glutinosa L.との種間交雑によって、日本で栽培されるバーレー21や白遠州など、現在の品種では被害をみないようになった。
[星川清親]
日本での生産状況(1984)をみると、総作付面積5万3400ヘクタール、収穫量13万5500トンである。主産地は福島県が6420ヘクタールでもっとも多い。岩手県4680ヘクタール、熊本県3930ヘクタール、茨城県3810ヘクタール、鹿児島県3600ヘクタール、宮崎県2720ヘクタール、青森県2610ヘクタール、新潟県2200ヘクタールなどである。品種では黄色種が全体の60%を占めている。
国内生産のほかに輸入もあるが、1984年度の輸入は約7万トン、980億円である。また紙巻きたばこの輸入は70億2400万本、305億円である。
世界の生産状況(1984)は、作付面積415万5000ヘクタール、収穫量620万5000トンである。国別では中国が77万9000ヘクタール、152万6000トン、アメリカが32万3000ヘクタール、79万1000トン、インドが44万ヘクタール、49万7000トン、以下ブラジル28万5000ヘクタール、41万5000トン、旧ソ連18万ヘクタール、35万トンとなっている。日本はトルコに次ぎ世界第7位の栽培国となっている。
[星川清親]
2000年代に入ってから、健康意識の高まりや喫煙者の高齢化などにより、タバコの需要が減少している状況に応じて、2004年と2012年に葉タバコの生産調整が行われた。また、耕作者の高齢化および後継者不足による廃作も増えた。そのため耕作面積と生産量は著しく減少している。JT(日本たばこ産業株式会社)への販売実績からみる2018年の耕作面積は7065ヘクタール、生産量は1万6998トンである。主産地は、熊本県1034ヘクタール、青森県821ヘクタール、岩手県768ヘクタール、福島県262ヘクタール、秋田県240ヘクタールである。品種では黄色種が全体の69%を占めている。東北地方ではバーレー種、西日本では黄色品種、関東と北越では両品種が栽培されている。在来種は2015年以降生産されていない。
2017年度のタバコ全体の輸入は約12万5887トン、5297億円で、そのうち製造たばこは4980億円である。製造たばこのうち、紙巻たばこは597億本、2930億円を占め、残りはたばこの葉を使用した加熱式たばこが占めており、その割合は増加傾向にある。
世界の生産状況(2017)は、作付面積352万8500ヘクタール、収穫量650万1600トンである。国別では中国108万1400ヘクタール、239万2100トン、インドが46万7600ヘクタール、80万トン、ブラジルが39万8000ヘクタール、88万トン、インドネシアが18万5700ヘクタール、15万2300トン、ジンバブエが15万ヘクタール、18万1600トン、アメリカが13万ヘクタール、32万2100トンとなっている。日本は7600ヘクタール、1万9000トンである。
[編集部]
人間が煙を吸うようになったのは火を利用してからのことで、草木のなかには燃やすと心地よい香りを漂わせるものもあり、この香りのよい煙は人間に清新な活力や気力をもたらすばかりか、神の精霊が宿ると信じられた。この信仰は世界各国に共通してみられ、宗教的行事で香を焚(た)くことは重要な儀礼であるとともに、幻想的精神作用をおこすことから呪術(じゅじゅつ)にも必要とされた。さらに病気治療の薬用にも使われてきた。紀元前3000年のエジプトでは、神殿で香を焚くとその煙は天の神に達し、王の願いがかなえられると信じられた。また前700年ごろのギリシアでは、アポロ神殿で巫女(みこ)が大量に香煙をくゆらせて吸い込み、やがて気を失って言ったうわごとが神のことばと信じられた。このように煙が神殿に立ちこめて神秘的な雰囲気を醸し出すことは、信仰を高めるために効果があった。ギリシアの医学者ヒポクラテス(前460ころ―前375ころ)は、婦人病の治療に香煙を吸入すると効果があるとし、哲学者プルタルコス(46ころ―120ころ)も、大麻の実を焼いたその煙を嗅(か)いで歓喜の状態に陥ったという。ローマ時代の自然科学者プリニウス(23ころ―79ころ)は、乾燥させたヒイラギをいぶした煙は喘息(ぜんそく)の治療に役だつとし、すでに吸煙用のパイプについて述べていた。また前4世紀ごろに中欧と西欧で勢力を振るっていたケルト人は、青銅や鋳鉄などで携帯用パイプをつくり、芳香性のある香煙を吸った。ヨーロッパでは、たばこの吸煙以前に草木をくゆらせて吸煙する風習があったのである。
[田中冨吉]
たばこは紀元前から南アメリカ、中央アメリカの南部、西インド諸島に喫煙によい優良種の学名ニコチアナ・タバカム(Nicotiana tabacum L.)種が、また葉形が小さく喫煙には刺激の強い学名ニコチアナ・ルスチカ(N. rustica L.)種が前記以外に北アメリカのミシシッピ川流域にまで裁培されていた。マヤ人は、紀元前から栄えて紀元500~600年ごろまで最盛期を迎えていたが、天文、暦、象形文字などの特殊な文化が発達した知的な民族で、太陽と農耕神を崇拝する宗教的信仰をもち、独自の様式による石彫りを主とした神殿の遺跡や素焼の食器、また彼らの生活の指針となる「コデックス」(絵文書)を残している。そしてそれらには、人間の姿で象徴される神々がたばこを喫煙している絵画や石彫りが残されている。マヤ人は喫煙で得られる香気と陶酔から、たばこの葉には神の精霊が宿ると信じ、宗教的行事にたばこの葉を神聖なものとして使用し、神殿にその香煙を供えた。喫煙は神官の特権となり、大量喫煙による昏睡(こんすい)状態でいううわごとは神の予言と信じられ、神官が吐く煙は精霊の力によって人間から悪魔を払い、病気を治癒すると信じた。この風習はやがて呪術の方法となり、また葉の成分が薬用に使用された。マヤの文化は1520年以後、つまりスペインがこの地域を制圧してからしだいに明らかにされたが、制圧当時マヤはすでに衰えており、かわって北方のトルテカが、続いてアステカが主権を握っていた。
儀式の方法は民族により異なるが、各民族ともたばこは神への重要な供え物であり、戦いが始まればたばこを神殿に供えて敵を呪(のろ)い、戦いが終われば手柄をたてた勇士にたばこが与えられて、公共の場でたばこを吸う栄誉を得た。敵の捕虜にもたばこは与えられ、捕虜が神の生贄(いけにえ)にされるときも同様に与えられた。女性が妊娠すると祝いの宴で来会者にたばこを贈り、父母は胎児の無事を祈ってたばこを体に貼(は)る。貴人が亡くなるとたばこの煙で別れを告げ、葬儀が終わると宴を催してたばこを吸って楽しむなど生死の際のほか、神殿の建築や土木工事の完成のときにもたばこが用いられていた。また、貴人、戦士、武装商人が公式旅行をするときも出発と帰還には、送迎の人々にたばこが配られた。しかしたばこの喫煙には一般に制限があり、貴人、戦士、老人に特例があるほか、祝宴と行事に許される以外は嗜好(しこう)用喫煙の自由はなかった。薬用としては外傷、腫瘍(しゅよう)、潰瘍(かいよう)、梅毒、咳(せき)、感冒、扁桃腺炎(へんとうせんえん)、喘息、頭痛、歯痛、リウマチ、胃病、消化不良、そのほか子宮や脾臓(ひぞう)の腫(は)れなどには粉末や煎(せん)じ薬、ゆでた葉のしぼり汁、軟膏(なんこう)、膏薬が使われ、坐薬(ざやく)用にはほかのものを混ぜたり、アルコール分を添加して用いていた。また蚊(か)、ノミの駆除用、毒蛇、毒虫、サソリなどの咬傷(こうしょう)と予防用にも用いられていた。
[田中冨吉]
1492年8月2日、スペイン王室の援助を得たコロンブスは黄金と香料を求めて大西洋を西に向かって航海し、10月12日バハマ諸島のサン・サルバドル島に上陸した。島民への友好のしるしにガラス玉などを贈ると、その返礼として島の物産を受けた。そのなかに乾燥した大きな葉が数葉あり、数日後サンタ・マリア島でも同じ葉をもらった。部下の報告では、キューバ島の島民が火のついた棒(葉巻たばこ)と薫香(くんこう)に使う草(葉たばこ)を手にしていたとあり、これはヨーロッパ人がたばこを知る最初のできごとであった。コロンブスの第2回探検隊やその後の探検隊に加わった修道士、技術者、医者などの調査により、西インド諸島住民の風習やたばこの医薬としての効果などその実態がしだいに明らかにされた。さらにスペインは1513年にアメリカ大陸のフロリダに植民地をつくり、先住民のパイプ喫煙を発見したが、1519年には中央アメリカのユカタン半島に達し、1521年にアステカを滅ぼした。首都では国王が銀製のパイプで優雅に喫煙する姿を、商店街では葉たばこと彩色した土製のパイプ、たばこ用の香料を売っている姿を見た。またスペインの植民地拡大政策が進むとともに、その地域によってたばこの呼称が違うことがわかり、キューバではタバコtobacco、ハイチではコハバkohaba、メキシコではイェトルyetl、ブラジルではペツムpetumといわれていたという。タバコの栽培は1535年にキューバ島で開始され、1550年代には本国の海沿いの町や公園で観賞用植物として栽培された。植民地では葉巻喫煙地帯が多いことから、スペインでは原始的な葉巻が喫煙風習となったが、他国へはこの風習をあまり伝えていない。
ポルトガルは、当時もっとも繁栄した大航海の時代で、1499年に喜望峰を迂回(うかい)してインドに至る航路を発見するなど、ヨーロッパでは通商が東洋にまで及ぶ貿易国であった。1500年西インド諸島方面に向かった船団は、途中暴風に襲われてブラジル沿岸に漂着し、その地方一帯を植民地とした。そのおり、先住民の風習について、呪術師がヒョウタンでつくった奇妙なパイプで喫煙し、呪術を行っていたとの報告がある。1540年代には同地方の植民者が他の国と交易していたが、そのなかにたばこが含まれていたと伝えている。ポルトガルとたばこの出会いはスペインほど華々しくはないが、フランス、イタリア、東洋方面にたばこを伝えている。
フランスは、1533年から二度にわたって黄金獲得を目的に、カナダのセント・ローレンス湾を経てモントリオールの山岳地帯を探検したが、その記録に先住民のパイプ喫煙があった。その後、1559年にフランスの駐ポルトガル大使ジャン・ニコJean Nicotが、新しい医薬としてタバコの種子と葉たばこを本国の王室に献上し、カトリーヌ女王がこれを頭痛に用いたことから注目され始めた。フランスで喫煙が始まった時期は明らかではないが、16世紀の終わりごろにはパイプ喫煙が普及していた。ルイ13世(在位1610~1643)が王位につくと、貴族、高官が鼻から煙を吐くのは見苦しいといいだしたので、上流社会ではもっぱら嗅(か)ぎたばこが用いられ、貴婦人は優雅な手つきでこれを使用するのが上品とされた。一方庶民はパイプを愛用し、スモーキング・タバン(スモーキング・クラブ)が町のあちこちにあって自由に喫煙できた。1624年、政府は喫煙の流行に対し高額の課税政策を進めて王室財政を豊かにしたが、薬品以外のたばこ販売を禁止したため国の税収に大きく影響を及ぼし、やがてこの禁止条項を撤廃した。長年にわたる高いたばこ税に不満をもっていた国民は、1789年のフランス革命によりたばこ税から解放されるが、政情不安による供給不安定からかえって価格が高騰し、国民議会は国家収入が減少して悩んでいた。1810年ナポレオンは大陸作戦の戦費調達の必要から、ふたたびたばこの専売制を採用し、これが現在にまで至っている。
イギリスの海外進出は遅れ、1560年代にホーキンズ提督の率いる艦隊が、西アフリカのポルトガル領を襲って奴隷商人から黒人奴隷を略奪し、これをアメリカ大陸のスペイン植民者に売り渡す行動から始まった。次にフロリダ沿岸のフランス植民地を襲い、そこで先住民のパイプ喫煙を知り、葉たばことその種子を携えてきた。ドレーク提督は1570年代に航行中のスペイン船をしばしば襲って積み荷を略奪していたが、そのなかに葉たばこも含まれており、当時すでに喫煙が知られていた。1580年代にサー・ウォーター・ローリーは北アメリカ南東部に植民地をつくる命令を船長たちに下し、バージニア地方を占領した。船長は現地人を伴って帰還したが、彼らが持参したたばこでローリーに喫煙を伝え、ローリーはたばこが商品として将来有望であることを早くも知った。彼のパイプ喫煙により、ロンドン社交界ではダンス、乗馬、狩猟、かるたとともに、優雅にパイプをくゆらすのが紳士の条件とされ、その姿が挿画などに風刺的に取り上げられていた。イギリスはパイプ喫煙地域を植民地に得たため、喫煙といえばパイプに限られていた。やがてクレー・パイプの製造も始まり、銀製、木彫りからクルミの殻を利用したものまで現れ、銀のパイプでの朝の一服は頭痛、歯痛をいやして感冒の悪化を防ぐといわれた。また労働者でも酒場に入ってすぐ「酒」というやぼな人はなく、まず「たばこ」と注文したという。スモーキング・クラブが繁盛し、会員は1回の着席にクレー・パイプで3本以上喫煙すること、また他人に煙を吹きかけないなどの厳しい会則が設けられていたという。たばこは最初スペインから輸入していたので、その代金の支払いが高額となると、政府は喫煙に反対し、国王ジェームス1世は有名な『たばこ排撃論』(1604)を書いた。しかしバージニアの植民地からたばこを直接輸入するようになると、この輸入税で国庫は豊かになった。一方バージニアの植民地は、たばこの生産と輸出によって経済上の独立を可能にし、アメリカ建国の基礎を築いた。
イタリアは、1561年にローマ法王庁の使節がリスボンでタバコの種子を得、これを法王に献上してバチカンの庭園に植えたことから始まる。このほか、トスカナ州の州都サン・セポルクロの司教がパリ駐在中にたばこの医療的効果を知り、本国へ報告とともに種子を送ったのが始まりで、1610年にクレシェンチナ大僧正がイギリスで覚えた喫煙を貴族と教会の牧師たちに伝えた。以来、上流階級と牧師の間には喫煙と嗅ぎたばこが広まり、神聖な教会はたばこの煙と吸い殻で汚された。また、ミサを司祭中の牧師が聖餐(せいさん)後嗅ぎたばこを用いたら、突然くしゃみが出て聖餐を吐き、聖壇を汚すなどの不祥事が起こって、たばこの乱用に憤慨する会衆が多くなった。そこで法王はたばこを禁止し、教会でたばこを使用する者は破門するという教書を発した。しかし禁煙令は教会内部だけで庶民には及ばなかった。それのみならず、1627年にはたばこに課税して国の収入増を計画した。その方法は、個人に契約金を納めさせて1年間たばこの一手販売を許可するという独占販売法で、1659年にはベネチア共和国が、たばこの輸入と製造を含む販売独占権を個人に与えるという「たばこ契約」によって専売制方式をとった。
中央ヨーロッパ方面へたばこを伝えたのは1618~1648年の三十年戦争である。中央ヨーロッパが主戦場となったが、そのとき英仏軍が進駐した村々に喫煙の習慣を残して去り、その後入ってきたプロイセン軍がそれを倣う、さらにプロイセン軍を破って入ってきたデンマーク、スウェーデン、ノルウェー軍がまたそこで喫煙を見習うというように、30年の間に全ヨーロッパに喫煙が普及した。プロイセンの村々の娘たちは、粋(いき)なスタイルでパイプをくゆらす英仏軍の兵士に好意を寄せ、やぼなプロイセン軍もパイプを手にせざるをえなくなり、かくてたばこはプロシアからしだいにオーストリア、ハンガリーへと伝わった。医者はセンセーションを起こし、賛成側は病気の治療に効果を認めて万能の霊薬と賛辞を贈れば、反対側は脳に有害で薬剤的効果は期待できないと批判した。また宗教家は、神をないがしろにすると激しく反対した。世論の高まりに対し、小さな侯国が分立していたプロイセンでは、最高諸侯であるケルン侯が喫煙事情を調査して、この悪習を禁止するとともにこれを犯す者は厳罰に処すとの勅令を発した。しかし禁煙令は守られず、諸侯をはじめ庶民はたばこを離さなかった。1701年プロイセン王になったフリードリヒ1世は、重臣会議にパイプたばこを使用する、いわゆる「たばこ会議」を催した。次の王ウィルヘルム1世は、固苦しい会議ではなくクラブ形式をとり、宮殿か庭園、ときには離宮に将軍や参謀、のちには学者、他国の大使、遊び友達、道化役者までよんで自由な公式の宴にした。卓上にはワインや食事とともにたばこを籠(かご)に盛り、クレー・パイプを添え、火皿へ真っ赤に燃えた泥炭を置き、パイプの点火用にした。王はたばこの販売に課税していたが、1719年各国の例に倣ってたばこの製造権を商人に譲り、毎年権利金を徴収しては軍事費にあてていた。
[田中冨吉]
たばこは海路と陸路を経て世界の各国に伝わったが、その経路はポルトガルがアフリカ、アラビア、インドを経て東洋と日本へ伝え、イギリスはオランダ、北海からバルト海沿岸、地中海を経てトルコへ、また太平洋方面ではオーストラリアとニュージーランドへ、プロイセンとポーランドは北部ロシア、トルコは南部ロシアヘ、ロシアはシベリアへ、中国は広大な内陸とシベリアへと伝播(でんぱ)した。ここで海路と陸路のたばこが一つになり、シベリアから海を越えて極北のエスキモーへ、また一部はカナダ方面から極北へもたらされて、たばこは1世紀の間に世界を一周した。朝鮮へは日本が伝えたが、喫煙具は地理的関係で中国の影響を多く受けている。
たばこが伝えられた国では、主権者が国民の喫煙に反対して刑罰を課す国もあった。たとえばトルコでは、コーランの教義に反するとして、鼻の両方の穴へパイプを突き刺し、ロバに乗せて市中を引き回した。喫煙者は死刑と同時に全財産を没収されるが、この処刑はやがて王室の財産増加を目的に行われるようになった。刑罰は自国民に限らず、他国の大使館員にまで及び、絞殺または鼻と唇をそぎ、傷口へ送り状を釘(くぎ)で打って、国外へ追放するという暴挙を行った。兵士の喫煙の場合には、その場で首をはねて胴体四つ切りの蛮行をした。ペルシアでは、禁煙令の違反者を捕らえると、溶解した鉛をのどの中に注ぎ込み、ロシアでは鼻の穴を縦裂きにして笞(むち)打ち刑にした。それでも改心しない者は、シベリアへ追放して全財産を没収した。なお、ロシアの喫煙をやめない原因には厳冬があり、これは喫煙による身体のぬくもりと陶酔作用が安眠を促すためである。
中国へたばこを伝えたのは、東洋に進出したポルトガルではなかった。ポルトガルは1557年にマカオに居住権を得て基地としたが、中国人に排斥されてたばこを伝えるには至らず、1565年スペインがフィリピン群島を占領して同島にたばこを栽培したのを、中国の福建省人が本国へ紹介したと伝えている。中国でも喫煙の初期には禁煙令が出て、違反者は処罰され、所持していたたばこは没収された。禁煙令は軍隊にも及んだが、没収されたたばこは国境守備軍の悪疫予防用に回されていた。喫煙は奥地にまで広がり、たばこの輸送とともにほかの商取引も活発になって、いつしか禁煙令の効力も失せた。「人ついに酒に代え茶に代え終日喫煙するも飽きず」と文人たちもたばこを礼賛した。薬用から返魂草(はんごんそう)、喫味を賞して相思草(そうしそう)などと、たばこの異名は数十種もあり、とくに中国ではたばこに対する美辞麗句が多く、いかに愛用されていたかがわかる。
[田中冨吉]
香りのよい嗅ぎたばこはフランスの上流階級で用いられていたが、やがて各国にも伝わり、ロンドンのカフェではこれ以外のたばこが嫌われて、パイプでたばこを吸うと軽蔑(けいべつ)の眼(め)を向けられるようになった。流行を追う青年は、嗅ぎたばこを自製するためのおろし金など10種ぐらいの道具を持ち歩き、気どったポーズで使っていた。ローマ教皇も嗅ぎたばこを用いたが、プロイセンのフリードリヒ大王(在位1740~1786)の顔と衣服はいつも嗅ぎたばこで汚れていたという。また嗅ぎたばこの美しい容器を携帯したり、贈り物にする習慣が盛んで、当時贈賄が常識となっていた官界では、贈る嗅ぎたばこ容器の数によって官吏の格づけ相場がつけられていた。豪華な銀の容器に自分の肖像を彫刻したり、ダイヤモンドでイニシアルをちりばめるのが習わしとなり、王侯貴族はその収集に熱心であった。嗅ぎたばこは当時のファッションとなり、貴賤(きせん)貧富や男女の差なく流行した。フランスのナポレオン1世(在位1804~1815)は喫煙しなかったが、嗅ぎたばこを好み、遠征の陣中にまで愛妻ジョゼフィーヌの肖像入り容器を携帯していたという。
東洋へはポルトガルが伝え、インド、中国、チベットでおもに用いられたが、とくに中国で盛んとなった。1715年フランスのイエズス会宣教師の清(しん)の皇帝への贈呈品のなかに、嗅ぎたばこと容器が含まれており、感冒、歯痛、喘息そのほかの病気の治療に効果があると信じられて、全国的に広まった。容器は金銀、玉石、象牙(ぞうげ)、磁器そのほか山海のあらゆる物質でつくられ、鼻煙壺(びえんこ)と名づけられた。日本へは1869年(明治2)、イギリスの当時のエジンバラ公が明治天皇にダイヤモンドをちりばめた豪華な嗅ぎたばこ入れを献上したが、日本ではついに流行しなかった。
[田中冨吉]
1700年代の後半、アメリカのスペイン領から、原始的な葉巻を改良した新型葉巻がヨーロッパへ伝えられた。喫煙といえばパイプに限られていたが、パイプ不用の葉巻にはすぐなじみ、フランスはスペインに倣って葉巻工場をつくった。1788年にはドイツでもハンブルクに葉巻工場ができた。1795~1814年のナポレオン戦争のある時期、スペインを戦場としてイギリスと戦った時、同地の葉巻喫煙の風習を身につけたフランス軍の兵士が、新しい戦場へ移動するごとに葉巻喫煙を伝え、ヨーロッパには葉巻工場が各所にできた。葉巻喫煙者は増加し、イギリスでは新しい喫煙方式を歓迎して国会議員が吸い始め、議事堂に喫煙室を設けた。フランスも喫煙は自由だが、葉巻の屋外喫煙が増加し、パリでは街路に捨てられた葉巻の吸い殻を集める市場が開設され、卸売業者に売り渡されていた。ドイツは最後まで残った禁煙令国で、道路での喫煙を禁止し、違反者には罰金を課した。葉巻の喫煙は自由思想の表現とする民衆と、取締りの警官との抗争が絶えず繰り返された。
[田中冨吉]
たばこの日本伝来時期について、文献の多くは元亀(げんき)・天正(てんしょう)年間(1570~1592)、あるいは天正末年か文禄(ぶんろく)年間(1592~1595)などとあるが、この説を裏づける資料はない。しかし、古文献によると、たばこを伝えたのは南蛮船(ポルトガル船)の乗組員で、彼らは初め葉を巻いて吸っていたが、やがて吸管を持参して吸うようになった。その名をきせるといって、日本もこれに倣い銅鉄でつくるようになった。1615年(元和1)「キセルの中間に竹を用う、この竹をラウという」とある。日本で必要な物資と、日本から東南アジア向け物資を貿易していた南蛮船は、インドのゴアを基点に、マラッカ、マカオを経て長崎へ入港していた。きせるがカンボジア語、ラウはラオス語で、葉たばこはマカオがフィリピンから輸入していたので、この方面で得たものを日本へ伝えたのであろう。種子の伝来に慶長(けいちょう)初年以来諸説があるが、1601年(慶長6)フランシスコ会の司祭ジェロニモが、伏見で徳川家康に面会し、フィリピン産の種子を献上したのが確実な記録である。徳川家康は東南アジア方面との貿易を進めて朱印船を渡航させたが、フィリピン群島からの帰航船のなかにはたばこを輸入する荷主もあって、1605年には近畿方面でにわかに喫煙が流行し始めた。取締り当局は「諸病平癒のためといいながら反(かえ)って悶絶(もんぜつ)す」「キセルというもので煙を吹くが無益である」などと禁煙令をしばしば発したが、ついに守られなかった。たばこは初め輸入品で高価であったため、喫煙は武士と裕福な町人に限られていた。しかし大量輸入と国内でタバコの栽培が始まると、まもなく庶民にまで及んだ。
タバコの種子は1600~1605年(慶長5~10)ごろ、平戸、長崎、指宿(いぶすき)に伝えられたという説もあり、この地方に旅をした武士、町人、修験(しゅげん)僧などによって慶長~寛永(かんえい)年間(1596~1644)にかけ全国的に伝えられた。喫煙の普及により、幕藩体制の基礎となる貢租の減少を憂えた幕府は、タバコを栽培する作付面積の半減令を毎年布告したが、8代将軍吉宗(よしむね)の殖産奨励政策によって終止符を打つ。幕末には農家の保護を目的に葉たばこを藩の専売にする地方もあった。刻みたばこの製造販売は、明暦(めいれき)(1655~1658)ごろに旅人の多い街道筋で、近在の葉タバコを仕入れては店先で刻みながら売るという小さな店から始まった。都市のたばこ店は、繁盛すると刻みを下請けに出したり、店に刻み職人を置いたりするようになり、あるいは売り子が町々に出売りをするようになった。また寛政(かんせい)(1789~1801)ごろには、木製の刻み機ができて大量生産が可能になり、葉タバコの産地では包装した商品を他国へ移出した。都市では、地方から集まる風味の異なる葉を巧みに組み合わせてその店独特の風味のものや、価格差をつけた製品を製造した。たばこは嗜好品となり、喜怒哀楽の多い生活のなかで人々に潤いを与えるとともに、人々をもてなす接待用としても、各家庭をはじめ、商店の店先、旅宿、社交場、遊廓(ゆうかく)などで必需品となっていった。
幕末に横浜などが開港されると、外交上の折衝などで幕府の役人が最初に葉巻を吸ったが、維新後も役人が最初に紙巻きたばこを好んだ。1872年(明治5)土田安五郎(つちだやすごろう)が最初に紙巻きたばこを製造し、紙巻きたばこは文明開化のシンボルとなって、時計、香水とともに流行し始めた。岩谷商会は「天狗煙草(てんぐたばこ)」を発売し、口付き紙巻きを大衆に普及すれば、村井兄弟商会は両切り紙巻きの「サンライス」「ヒーロー」を発売し、両者の宣伝合戦が明治たばこ民営時代を代表していた。1876年政府はたばこに課税したが、脱税が多く、1898年に葉たばこを専売とし、1904年(明治37)には、日露戦争の戦費調達の必要と、村井兄弟商会が外国たばこ資本と合同して日本のたばこ市場を独占するおそれがあったことから、たばこの製造販売を政府の企業とし、利益を国庫の収入とする専売制を公布して、煙草専売局を創設した。1949年(昭和24)専売局は公共企業体の日本専売公社と改組され、さらに1985年民営の日本たばこ産業株式会社となった。
[田中冨吉]
現代のたばこ製品のおもな種類には、紙巻き、葉巻、パイプ用刻みがあり、このほかに嗅(か)ぎたばこ、噛(か)みたばこ、特殊なもので民族的需要からフーカー(水パイプ)用、ビディ(インドでみられる、たばこを植物の薄い皮で巻いたもの)などが少量ある。しかし消費量としては、世界的にも断然紙巻きたばこが多い。1520年にスペインが現在のメキシコを占領したとき、アステカ人は粗い粒状のたばこを植物質の薄い皮(おそらくトウモロコシ)に包んで喫煙していたと伝えられるが、これは喫煙方法としては現代の紙巻きと同じものである。1600年代になると、在留するスペイン人がこれを薄紙にかえて喫煙し、1765年にはスペインが同地にたばこの専売制を施行した。そのため大量の紙巻き用紙が違反物件として没収された記録があるという。このころからスペイン本国では紙巻きたばこを吸う風習があったが、ほかのヨーロッパ諸国へは、1800年代の初めにピレネー山脈を越えてフランスへ、また海路よりイタリアとトルコ、南部ロシアへ伝えられた。1840年代にはフランスとロシアで工場生産が始まり、続いて1850年代にドイツとオーストリアで製造が始められたが、いずれも手巻き作業であった。口付きは、先につくっておいた紙筒のなかへ、刻んだ葉たばこを詰めた金属管を挿入し、たばこだけを押し込んで金属管を抜き出し、さらに別に口紙を挿入する。両切りは、木製の台の上にたばこと同じ寸法の長さと太さの溝を彫り、その溝に巻紙を押し込んで刻みたばこを詰め、布でなでてから巻き上がった紙の端を糊(のり)付けする。紙巻きたばこが、1832年にエジプトとトルコの間で起こった戦争の陣中で兵士がつくったのが始まりというのは一つのエピソードである。
イギリスも1850年代にたばこの製造を始め、それがアメリカへ伝えられた。たばこ産業の盛んなアメリカでは、1860年代に葉タバコ截刻機(さいこくき)の機械化が進められ、1880年代にボンサック式両切り巻上機、1889年に突き出し式小箱(現在の「ピース」や「ホープ」の箱)の包装機を完成し、両切り紙巻きの製造の完全な機械化に成功した。その後、口付き紙巻きの製造も機械化されたが、1950年代に吸い口として両切りにフィルターを接続したフィルター付きが発売されて以来、これが紙巻きたばこの主流となった。日本では現在97%がフィルター付きになっている。西欧の各国でも紙巻きたばこが製造されたが、パイプ用刻みと葉巻がなお多く用いられていた。しかし喫煙の便利さでは紙巻きが優れ、第一次世界大戦後は急速に需要が伸びた。日本ではきせるで吸う刻みたばこの価格が安かったため、紙巻きは贅沢視(ぜいたくし)されていたが、それでも第一次世界大戦後は紙巻きの需要が増えて、1923年(大正12)には紙巻きの製造量が刻みを超えた。さらに1930年(昭和5)には両切りが口付きを超え、1970年(昭和45)にはフィルター付きが両切りの製造量を超した。
日本の紙巻きたばこは口付きから始まった。明治の民営時代に有名だった「天狗煙草(てんぐたばこ)」「牡丹(ぼたん)煙草」なども口付き製品が多く、専売制になって、大正期の全盛時にも、口付きが10種ぐらい発売されていた。日本の名葉で知られる国分(こくぶ)葉、水府(すいふ)葉、秦野(はたの)葉そのほかの葉でつくられた「国華(こっか)」「敷島(しきしま)」「朝日(あさひ)」のほか、婦人用の「やよい」などの製品があり、紙巻きたばこ独特の風味が愛用されていた。しかし、嗜好(しこう)の変化に伴い廃止される製品が多くなり、1976年(昭和51)、最後の「朝日」が廃止されると口付き紙巻きは市場から姿を消した。外国では両切りの需要が多かったため、口付きは早くからなくなり、わずかに旧ソ連で製造されていたにすぎない。これは、冬期手袋をしたまま喫煙するのに、紙巻きたばこに長さが必要であるためといわれている。
[田中冨吉]
種類によって使用する原料葉とその配合が異なり、それぞれ喫味が違う。
〔1〕バージニア・ブレンド アメリカ産の黄色葉を主原料とする。この葉は鉄管火力で急速に乾燥するため、葉に含まれる糖分が分解せずに残るので、舌ざわりに甘さがあるうえ、うま味とこくもある。また、裁断した切り口の鮮やかな黄金色が美しく、あらゆる製品に配合されて喫煙たばこに欠かせない葉である。各国でこの黄色葉の種子を栽培して製品に配合しているが、これは香料を加工しないのが特色である。イギリスでは葉タバコの栽培を国内で行わず、バージニア産の葉でストレート巻きの高級両切り紙巻きたばこの製造を行っている。日本でもかつてはこのブレンドが多かった。
〔2〕オリエント・ブレンド オリエント葉はトルコをはじめとする東ヨーロッパ産の特殊な葉で、味は濃厚だが柔らかみがあり、喫煙すると周囲に芳香を漂わす特長がある。第一次世界大戦までは、日本へもトルコ、ギリシア、エジプト製が大量に輸入されたほか専売局製もあり、吸い口に金紙、銀紙、またはコルクを巻いた高級品なども社交用として上流階級に需要が多かった。
〔3〕アメリカン・ブレンド 1913年、アメリカ・タバコ・トラストが解散すると、そこから独立したレイノルズ社が新しい葉組みの紙巻き「キャメル」を開発した。それまでは、黄色葉やオリエント葉などの単種による葉組みであったが、これは黄色葉を主体にバーレー葉、オリエント葉、それにメリーランド葉などを配合し、香料を加工して味覚を柔らかくしたもので風味が軽く、両切り紙巻きに新しい時代をつくった。この軽い味を望む嗜好は、現在紙巻きたばこの主流となり、日本の製品の大部分がこのタイプである。またアメリカン・ブレンドには、原料葉かフィルターにメンソール(はっか)を加工した涼味のある喫味のメンソール・シガレットもある。
〔4〕ダーク・ブレンド 各国の風土や栽培法、あるいは交配などによって長い年月の間に変化した、それぞれの国産葉を主としている。これには、一名黒色たばことよばれる特殊な風味の紙巻きたばこがあり、フランスの「ゴロワーズ」などはその代表であるが、イタリア、スペイン、旧ソ地域連、南アメリカなどでも慣れ親しまれている。しかし、しだいにアメリカン・ブレンドに嗜好が移ってきている。
[田中冨吉]
紙巻きたばこの吸い口に、ニコチンとタールを吸収するフィルターを接着した製品は、1940年にアメリカで発売されたが、第二次世界大戦で一時製造が中止され、戦後の1950年にふたたび発売された。ちょうどこのころ喫煙と健康問題についての論議が始められたため、1952年には市場でわずか1.4%のシェアしかなかったのが、5年後の1957年には一挙に40%を占めるまでに至った。巻きの長さは国により多少の差があり、両切りは70ミリメートルが標準になっていたが、フィルター付きになると、70ミリメートルのほかにロングサイズ=80ミリメートル、キングサイズ=85ミリメートル、インペリアルサイズ=90ミリメートル、スーパー・キングサイズ=100ミリメートル、アメリカには120ミリメートルもあり、しだいに長さを増していった。逆に、イギリスにはミニサイズという66ミリメートルのフィルター付きもある。フィルターの長さは製品により異なり、12ミリメートルを最小に、15、17、20、25ミリメートルがある。太さは円周で計り、スリムタイプが22.5~24ミリメートル、標準は25ミリメートルである。紙巻きたばこの葉の充填(じゅうてん)量は、1本で0.9~1.2グラム内外である。
フィルターに使用する繊維の原料は何種類もあるが、日本ではたばこの喫味に調和させて3種類を使用している。(1)アセテート・フィルター=アセテート繊維の束を棒状に巻き上げたもので、1本の中に繊維が約1万0750本ある。(2)ネオ・フィルター=日本独自の製品で、パルプを短繊維状にほぐしたものを加工し、柔らかなシート状に成型して棒状に巻き上げる。ニコチンとタールの吸収率がよく、喫味を軽くする。(3)チャコール・フィルター=ヤシの実を炭化した粒状の活性炭をフィルター内部に混入したもの、混入しないが二重フィルターにしたもの、さらに、混入しないでフィルターを二分し、その中間に活性炭を挿入した三重フィルターのものがある。
活性炭は煙中に含む微量の刺激性蒸気成分を吸着し、喫味を軽くする効果がある。巻紙の製紙原料はアサとパルプで、高級品にはアサ、中級品以下にはアサとパルプの混合品を使用している。巻紙は普通抄紙(しょうし)を用いる。本来抄紙は多孔質であるが、全紙を多孔化するには、抄紙中に機械的または電気の火花によって多孔化する方法と、フィルター・チップに開孔する方法があり、空気の流入によって喫味を柔らかくしたり、煙中のニコチンとタールの量を低減している。
[田中冨吉]
製品の種類によって原料葉の選択と処理、加香方法にそれぞれ違いがあるが、現在日本での標準的な製造方法はスレッシング方式といって、原料の処理と製造が分離した工場で行われている。原料工場では葉の種類別に従い、(1)葉たばこに水分を与える原料調和を行う、(2)異物混合検査機で異物を除く、(3)葉をそろえて葉先を裁断する、(4)葉たばこをスレッシャー機にかけて数回たたき、葉片と中骨(ちゅうこつ)(葉脈)に分離する、(5)風選機で葉片と中骨を選別する、(6)葉片と中骨を別々に乾燥させたのち樽(たる)に詰め、製造工場へ送る。
製造工場では、(1)製品別に定められた葉を配合する、(2)調和装置で熱と水分を与え、葉を柔らかくする、(3)基本的な第1加香を行い、薄い層にして堆積(たいせき)サイロへ積み上げる、(4)電磁分離機で異物を除く、(5)原料混合機で葉たばこの配合をよくする、(6)高速回転式截刻機へ送る。截刻幅は製品により異なり、0.5~1.1ミリメートル幅がある。中骨は別工程で調和機、加湿機を経て圧展機で平たくされ、異物を除いて截刻される。中骨を配合する製品は、ここで先に刻んだ葉と定められた比率により配合される。(7)ふたたび乾燥する、(8)第2加香で芳香性香料を添加する、(9)3層からなるサイロに積むと、3層が同時に落下して各種葉の配合が完全となり、巻き上げ工程へ送られる。
巻上機では、刻んだ葉たばこが銘柄を印刷されながら連続して出てくるライスペーパー(巻取紙)の上に落ち、高速巻上機で自動的に1本の長い紙巻きたばこができあがる。そして回転するナイフで毎分4000本が一定の長さに切断される。両切りたばこはこの工程で終わるが、フィルター付きは、接続するフィルター・チップ・アタッチメント機で自動的にフィルターがつけられる。巻き上げ品は厳重な検査ののちに包装機へ供給され、自動的に20本入りは7、6、7本ずつの3段に、また10本入りは5本ずつの2段にそれぞれそろえられる。さらにアルミ箔(はく)で中包みし、包装用紙あるいは小箱に詰めて、防湿用セロファン上包機で包装し、オープニング・テープで巻かれる。現在巻き上げと包装が直結するマイクロ・コンピュータ採用の巻包機が開発され、この工程の高速化が進んでいる。
[田中冨吉]
突き出し式小箱包装機が出現して以来、両切りたばこは小箱入りが多かったが、1913年に「キャメル」がカップ・シェイプド型薄紙包装(「キャビン」型包装)の20本入りで発売されて以来、この包装が多く使用された。しかし1954年にアメリカのフィリップ・モリス社が、片手で箱の蓋(ふた)を開ける厚紙のスナップ・オープン・パック(「峰」型包装)を発売してからは、この2種が主流になっている。
いつからたばこの包装にデザインを用いたのか明らかではないが、フランス専売局(1810創立)は、嗅ぎたばこの徴税のため、角形包装品へ唐草模様のある帯封を用いた。さらに1864年、紙巻きたばこの規格を定め、製品に番号をつけて区別したが、1876年には消費者に魅力ある固有名詞をそれぞれの製品に用いた。最初包装は簡単な紙包みや、裸のままの製品に帯封をしていたが、やがて葉巻は木箱、紙巻きは紙箱に詰めるようになり、ラベルが貼(は)られるようになった。デザインはルネッサンス風の唐草模様やそのほかのモチーフを用いた輪郭デザインが多かった。またマッチの発明と社会の発展は、携帯に便利な紙巻きたばこの需要を促し、一方、突き出し式小箱ができるようになると、ほかの製品と区別するため、ブランドのイメージを表現する特別なデザインを使用するようになった。各国民の趣向をよく表したデザイン、つまりその国の国民に親しまれる人物や文様、動物、植物、乗り物、風景、器具などを写実的に描いたり、製造業者の家紋を主とするものもあった。日本では初め外国を模倣して唐草模様の輪郭式から始まったが、やがて固有の文様や日本趣味の風景などに移り、1900年代の初めごろにはフランスでアール・ヌーボー様式のデザインが取り入れられると、日本でもその影響を受けたりした。
第一次世界大戦後、形態は機能に従うというバウハウスのデザイン思想や、デザイン様式の単純化などの影響から、たばこ包装デザインも変貌(へんぼう)してきた。第二次世界大戦後、アメリカでは同じ品質の製品が市場で販売される場合、人目につくデザインのよしあしによって直観的に商品が選ばれるという経験から、情調というよりも単純明快なデザインが、また銘柄名を引き立たせるデザインと色彩が重視されるようになった。それが現代的な新しいデザインとされ、アメリカたばこの世界進出とともに各国がその影響を受けざるをえなくなり、デザインの国際的類似が目だっている。こうした傾向のなかでは、長年売り込んできた製品のデザインも市場価値が薄くなり、なかにはデザインを新しく変更するものも出てくる。たとえばフランスで有名な「ゴロワーズ」は、伝統ある古代の羽根のついた冑(かぶと)のデザインから現代的なトラックとかわっている。一方新製品のデザインはファッション性が強く打ち出され、イギリス系統は高級品としてのイメージアップから、デコレーター・パックといわれるメーカーの紋章と銘柄名だけのデザインが多い。アメリカ系統ではストライプ・スタイルが多く、この例では日本の「キャビン」「テンダー」がこれに属す。しかし、デザインの国際的類似の傾向のなかにも各民族のそれぞれ異なる感覚が現れているのは、文化に対する意識の差である。国家的事業や祝典を記念して、各国で特別な製品が新しいデザインで発売されるが、日本でも全国的に、また地方的記念行事などに発売地域を限定して記念たばこが発売されている。
[田中冨吉]
たばこは民族の移動によって、移動された国も移動した国も互いの喫煙風習に影響を与えていった。そのもっとも著しいのは戦争で、ヨーロッパの三十年戦争(1618~1648)は各国にパイプ喫煙を、またナポレオン戦争は葉巻を伝え、クリミア戦争は参加国に紙巻きたばこを流行させた。第一次世界大戦ではヨーロッパの戦線においてパイプと葉巻よりもずっと軽便な紙巻きたばこが用いられ、機械による高速大量生産が戦時中の需要を満たし、紙巻きたばこが喫煙の大勢を占めるまでに至った。さらに第二次世界大戦は、アメリカン・ブレンドたばこを世界的に進出させる機会となった。たばこの喫味は各国国民の嗜好によりそれぞれ差があり、これまではおもにバージニア・ブレンドやオリエント・ブレンド、それに各国産地葉によるダーク・ブレンドの特殊な喫味などがあったが、国民多数の嗜好がその国で製造する喫味になっていた。それがアメリカン・ブレンドの各国進出と、喫煙の健康問題上からフィルター付きが発売されると、一般にニコチンとタールの少ない軽い味覚のたばこが求められるようになった。喫煙年代層の交代や、嗜好の多様性を求める傾向もあり、世界市場の様相を大きく変えている。
アメリカは世界の工業国であるとともに農業国でもあり、建国の歴史はタバコの栽培から始まったが、現代でもたばこ産業は重要で、葉タバコの輸出量は世界1位である。企業の系列化では多国籍企業の会社をもつイギリスに次いで2位にあり、紙巻きたばこの販売数量はトップの2社だけで1986年現在世界市場のシェアの30.2%(日本は国内だけで世界市場の約13.5%)を占めている。また1971年、EC(ヨーロッパ共同体)の強い要請により、EC区域内で製造された製品の市場が開放されたため、ヨーロッパと世界各地における系列会社の数は圧倒的に多い。イギリスのBATインダストリーズ社の世界進出の歴史は20世紀初頭からであるが、アメリカのフィリップ・モリス社の進出が目覚ましく、そのほかのイギリスとアメリカのメーカーも他社の株の取得または提携により紙巻きたばこの大消費国を目標に国外進出を行い、さらに未開拓国にまで進出する姿勢をみせている。このほか、たばこ産業の先進国は、他国メーカーとライセンス契約を締結し、外国製たばこを国内で製造したり、輸入税を省いて廉価に提供する方法がとられている。日本では1973年(昭和48)以後、アメリカとヨーロッパ諸国で国内製品の一部を製造販売する一方、対象国の製品の一部を逆に国内で製造販売しており、フィリピン、東欧諸国の一部とアンダー・ライセンス契約を結び、国内製品の一部を彼地において製造販売している。嗜好の多様化傾向につれてしだいに各国とも製品数が増加しているが、たばこ市場でもっとも競争の激しいアメリカではブランドを重視し、そのなかで嗜好と製品形態(巻きの長さと包装)の多様性に応じている。したがって同一ブランドには、喫味ならスタンダードと軽い味のライト、それにメンソール入りがあり、巻きの長さにはキング・サイズと100ミリメートルサイズ、包装にはソフト・パックとハード・パックの別がある。こうした製品はメーカーにより2種から8種に及ぶほど発売されているが、1ブランド1種というのではなく、ブランド・ファミリーを形成している。日本では1985年現在、紙巻きたばこのフィルター付きが47種、両切りが3種、パイプ用が7種、葉巻が7種、また1986年には手巻用たばこも製造販売されている。紙巻きたばこの嗜好は、一般に多様化のなかで軽い味覚へと向かい、各国とも低タール製品を製造している。アメリカでは六大メーカー製品117種のうち48種がライト製品で(41%)、タール含有量の低下を競っている。一般にタール含有量が1本当り15ミリグラム以下を低タールとし、5ミリグラム以下を超低タールとするが、最近は0.1ミリグラムから0.01ミリグラムと公称する製品を新たに発売している。しかし、低タールになるほどたばこの味覚からは遠ざかり、また各社製品の特色が薄れるため、メーカーにはこの問題の解決が残されている。日本では現在「ジャスト」8ミリグラム、「テンダー」6ミリグラムが低タール製品である。
[田中冨吉]
たばこは嗜好品であるため、各国で高額の税を課し、国の重要な財源にしている。このなかには徴税の確実な方法として専売制を採用している国があり、専売国はアジアでは韓国、台湾、タイ。中近東ではトルコ、イラン、イラク、レバノン、シリア。ヨーロッパではフランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、アイスランド、オーストリアなど。アフリカではアルジェリア、チュニジア、モロッコ、リビア、エチオピア、ギニア、ソマリアなどがある。専売の管理には国の直営のほか、フランスでは公共企業体が、オーストリアとスペインでは国の出資する単一の株式会社(特殊法人)もある。課税は消費税制度が多く、日本では1876年(明治9)に初めて行われ、製品に煙草(たばこ)印紙を貼付(ちょうふ)させた。1898年に葉タバコが政府の専売となり、1904年(明治37)には製造販売を専売として益金を全額国庫に納付していたが、1949年(昭和24)に公共企業体の日本専売公社となり、1954年になると地方税法の改正により、都道府県と市町村にたばこ消費税を納付することになった。1985年には組織を民営とし、日本たばこ産業株式会社となった。販売は各国とも卸商または直営の支所、配給会社を経て小売店に卸される。日本たばこ産業株式会社では、支社が18、営業支所が270か所あり(合理化により将来は減少)、直接小売店に配給しているが、大都市では配給会社に委託しているところもある。このほか会社が直接消費者と接触する場所であるたばこ・サービスセンターが、主要都市に29か所ある。たばこ小売店は全国(沖縄県を除く)に約25万軒あるが、小売店の週休制の普及と、早朝、深夜営業の時間短縮、また店舗の設置場所の困難な事情などから、自動販売機を備えるところが多くなり、1986年度には約37万台を数える。
[田中冨吉]
喫煙は、日常生活において気分を静め、緊張をほぐすという鎮静作用と、反対に心気を高める刺激の両方の心理的効果があり、香りと味覚は嗜好品として愛用されてきた。しかし、1928年にイギリスで紙巻きたばこの喫煙が肺癌(がん)の原因になるという論文が発表されると、その後各国でこの問題について研究が行われた。1952年アメリカ・癌協会が調査の中間報告で、喫煙と肺癌の関係に警告を発し、続いて1964年にアメリカ公衆衛生総監の報告書により、さらにこの問題が注目されるようになった。1970年WHO(世界保健機関)総会でもこの問題を取り上げた。WHOは全加盟国に対し、喫煙への注意を喚起するよう通知した。アメリカでは1965年に、紙巻きたばこの包装に喫煙者の注意を促す表示が義務づけられたが、各国もこれに倣い、日本でも当時の日本専売公社がこの問題につき1971年から医学上の研究を外部委託し、紙巻きたばこ煙中のニコチンとタール量の公表、包装には「健康のため吸いすぎに注意しましょう」と表示をした。喫煙と肺癌との関連は、たばこの煙の粒子相に含まれるタールの中に極微量のベンゾピレン(ベンツピレン)という成分があり、これが体内の酵素によって形を変え、遺伝物質に作用し、発癌するものといわれている。しかしすべての人々にその作用を及ぼすものではないともいわれている。またベンツピレンなどの発癌物質そのものも、たばこの煙の中だけに含まれるのではなく、魚、肉、野菜などの焼け焦げや、汚染された大気などにも含まれている。それでも肺癌患者は紙巻きたばこの喫煙者に多いという統計上の結果から、人命に関する重大な問題として、日本では、肺癌関係のみならず、喫煙による呼吸器、心臓、血管、生理、薬理、妊婦と胎児などへの影響、また受動喫煙による影響など約50に及ぶ研究課題についてそれぞれ専門の医学者に研究を委託し、その結果を学術専門誌に発表している。
また、たばこの煙を嫌う人のため、喫煙時のマナーの指導、吸い殻の始末に、街頭に吸い殻入れの設置や、ポケット吸い殻入れの配付を行っている。そして、20歳未満の者の喫煙には、1900年(明治33)に制定された「未成年者喫煙禁止法」(2022年〈令和4〉「二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律」に法律名を変更)に基づき、指導している。
喫煙と健康問題に対する研究は具体的には、ニコチンとタールの少ない葉たばこの栽培、製造途中でのニコチンとタールの減少処理、あるいはそれらの含有が少ないシート・たばこの製造、フィルターの改良など、すでに製品には実施されてはいるが、葉たばこを使用しない新しい喫煙素材の研究も行われている。イギリスとアメリカでは植物パルプを原料としたセルロース系と、植物そのものを原料として香料で加工したノン・タバコ・シガレットが市場に出ており、逆にこれらの原料をたばこに配合した製品もある。これにはニコチンが含まれず、タールも葉たばこよりは少ないが、喫味に不満が残るため需要が伸びていない。メーカーはこの喫煙用新原料に対し、将来への研究課題としている。
[田中冨吉]
たばこは、煙草、烟草、丹波粉などの字をあてるほか、糸煙(しえん)、相思草(そうしそう)、返魂草(はんごんそう)などともよんだ。南西諸島では、忘れ草、思い草などともいい、憂さを忘れさせてくれるたばこが、古くからの忘れ草の名に結び付いている。一般に、たばこの煙を深く吸い込んで、一種の陶酔を味わおうとしたのである。日本に渡来すると急速に全国に広がり、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)には奥州にまで広がった。このころは各地で階層を超えた老若男女の喫煙風景がみられたが、江戸幕府によりたびたび禁煙令が出された。しかし効果はほとんどなく、江戸中期にはたばこを運上金や冥加金(みょうがきん)の名目で課税の対象とするようになり、タバコの栽培を奨励する方向へと変化した。こうした幕府の政策の変化に伴い、たばこは人々の生活のなかに溶け込み、日本独特のたばこ文化といえるものもできあがっていった。
伝来当初から、日本では刻みたばこが用いられ、初めは細かに刻んだたばこを竹筒に詰めて吸っていたが、のちに真鍮(しんちゅう)の吸い口と雁首(がんくび)を竹の羅宇(らお)でつないだきせるが一般化した。このため、すげ替えを商売とする羅宇屋が生まれたり、社交と結び付いた喫煙作法のようなものも生まれた。きせるは、遊女の「客曳(きゃくびき)ぎせる」として遊廓(ゆうかく)の風俗となったり、ときにはけんか道具となり、また一家の主人の威厳を示すものともなった。
江戸初期から中期にかけては、たばこを持ち歩くという風習はなく、もっぱら屋内での喫煙のみであった。客が訪れるとその家の主人のたばこを使用したが、その際には「たばこの請取(うけとり)渡しの礼」という一定の作法があった。主人がまず客にたばこを勧め、客は遠慮する、そうしたやりとりを二、三度繰り返したのち、主人は懐紙(かいし)できせるの吸い口を拭(ふ)いて客にきせるを差し出す。客はこのきせるを借りて吸い、たばこの味を褒める。一服、二服吸って自分の前に置き、いとまごいをして座を立つ前に、懐紙できせるの吸い口を拭いてたばこ盆に戻す。また、目上の人や年上の人と同席した場合は、それらの人々より先に吸わないのが礼儀とされた。こうした喫煙の作法も、江戸後期には懐中たばこの発達によってだんだん廃れていった。しかし反面、懐中たばこの普及は屋外での喫煙習俗をつくりだし、くわえきせるを卑しむとか、仕事の合間の小休止を「たばこ」「一服」などというようにもなり、それに伴う食事をもさすようになった。
たばこの煙には邪気を払う力があると考えられた。狐(きつね)や狸(たぬき)に化かされたときにはたばこを一服すればよいといわれ、また化け物はたばこの脂(やに)を嫌うともいわれた。たばこが生活のなかに深く根を下ろすと、昔話や伝説にも多く語られるようになり、たばこの由来を語る話も生み出された。一人娘を亡くした母親が、娘の墓から生えた草を用いてその悲しみの気慰めにしたのがたばこのおこりだとか、亡き妻が夫の夢枕(ゆめまくら)に立って墓に生えた草を育てて吸うまでの方法を教えたのが始まりだとかいうもので、似たような話は、奄美(あまみ)、沖縄などの南西諸島を中心に、徳島、兵庫、福島各県などにも伝えられている。さらに奄美地方には、たばこを主題にした民謡も伝えられている。また、鹿児島県には、冠岳(かんむりだけ)の煙草神社をはじめとして「たばこ神社」が7か所も祀(まつ)られ、たばこ耕作者の信仰を集めているなど、各地で信仰の対象になっている。このほか福岡県杷木(はき)町(現朝倉(あさくら)市)などでは、祭りにたばこが用いられた。
たばこは1904年(明治37)に専売制が施行されるまで、自由な小売りがなされていた。たばこ屋の店先には、赤行灯(あんどん)か柿(かき)色の暖簾(のれん)が掛けられて目印とされた。店を構えた小売りのほかに、寛保(かんぽう)年間(1741~1744)には、薬箪笥(たんす)のような箱に引き出しをつけ、そこに仕切りをして刻みたばこを入れ、蕨手(わらびで)の環を片掛けにしてカチャカチャ鳴らしながら売って歩くたばこ売りも現れ、人々は「カチャカチャ煙草」とよんだ。「たばこのまぬ女と精進する出家は稀(まれ)」といわれるほどたばこは庶民の生活に溶け込んだが、紙巻きたばこが普及すると、女性はしだいに口にしなくなった。
[倉石忠彦]
『田中冨吉著『たばこの本』(1976・住宅新報社)』▽『G・P・エーシュトルフ著、新井靖一訳『紳士はタバコがお好き』(1979・TBSブリタニカ)』▽『宮城音弥著『タバコ』(1983・講談社現代新書)』▽『『現代のエスプリ204 たばこの文化』(1984・至文堂)』▽『大川俊博著『たばこに続く道』(1991・有斐閣)』▽『日本たばこ産業株式会社編『タバコ属植物図鑑』(1994・誠文堂新光社)』▽『宇賀田為吉著『タバコの歴史』(岩波新書)』
ブルガリアの作家D・ディモフの2巻からなる長編小説。1951年刊。作者は、ブルガリアの資本主義的経営の典型であるタバコ工場を舞台に、共産主義者や労働者の対資本家闘争、ブルガリアのブルジョアジーが背負った歴史的運命、その罪と不道徳性などを描きつつ、個人が集団のなかで孤独になる問題を扱い、ブルガリア文学では未知の、資本主義社会における心理的迷路に立ち入ってみせた。発表されるや大きな反響をよび、ディミトロフ賞を受賞したが、作者は翌52年、作家、批評家、読者による討議の結論を入れて補足改訂した。以来ベストセラーを続け、61年にはN・コラボフにより映画化もされた。十数か国語に訳されている。
[真木三三子]
『松永緑弥訳『タバコ』全二冊(1976、77・恒文社)』
ナス科タバコ属Nicotianaの植物で,通常一年草。タバコ属は現在65種が発見され,多くはニコチン,アナバシンなど数種類のアルカロイドを含んでいる。現在栽培されているのはそれらのうちニコチンを主アルカロイドとするタバコN.tabacum L.(英名tobacco)とマルバタバコN.rustica L.(英名Aztec tobacco)である。後者は旧ソ連など限られた地域にしか栽培されておらず,栽培タバコのほとんどは前者である。なお,両種以外の種をタバコ野生種と呼んで区別している。
タバコの種子は,ごく小さく赤褐色~黒褐色を呈し,多少平たい卵形で,長径0.7~0.8mm,短径0.5~0.6mm,1g中に1万2000~1万4000粒含まれる。発芽適温は25℃内外で,発芽に光を要するものが多い。草丈は1~3mで,直立し分枝が少なく,30~40枚の葉をつける。葉は長さ60cm内外の楕円ないしハート形で互生し,腺毛を密生して樹脂を分泌する。花は白色~淡紅色,漏斗状の筒状花で頂部は5裂する。長さは3cm内外でおしべ5本,めしべ1本。子房は2室に分かれ,多数の種子をつける。自殖性が強く通常95%以上の自殖率を示す。
タバコ属は南・北アメリカ大陸,オーストラリアならびに南太平洋の島々に広く分布している。そのうち南アメリカの北部から中部にかけての地域に,多くの種と変種が自生しており,その辺りがタバコ属の分化の地と考えられている。栽培タバコであるN.tabacum L.は複二倍体(ゲノム構成SSTT)と考えられ,体細胞は48本の染色体を有している。親となった野生二倍体はニコチアナ・シルベストリスN.sylvestris Spreng.(2n=24,ゲノム構成SS)とニコチアナ・トメントシフォルミスN.tomentosiformis Goodsp.(2n=24,ゲノム構成TT)で,両種の雑種倍数体化起源と考えられている。また,ニコチアナ・オトフォラN.otophora Griseb.が父方の祖先種ではないかとの説もあるが,最近の研究ではN.sylvestrisを母とし,N.tomentosiformisを父として成立したことが確認されている。いずれにしてもこれらの分布状態から,南アメリカのボリビア南部からアルゼンチン北部にかけてのアンデス山脈東側の地帯が栽培タバコの発生の地と推定されている。
タバコの喫煙は紀元前から中央アメリカのインディオに始まるといわれ,5世紀ごろのマヤ民族の遺跡には,神官が煙をふかしているレリーフが残っている。タバコは旧世界には15世紀末にコロンブス一行により伝えられた。当初,薬草として植えられていたが,やがて嗜好(しこう)品としてヨーロッパ各国に広まった。東洋への伝播(でんぱ)は,ポルトガル,スペインの東洋進出と軌を一にして,アフリカ,アジアの各地に伝えられた。日本へは南蛮船により,まず商品としてのタバコがもたらされ,喫煙習慣の端緒が開かれたのが天正年間(1573-92)といわれている。種子の初伝来については諸説あるが,それよりおくれて慶長年間(1596-1615)の初めごろ,指宿(いぶすき),長崎,平戸辺りに,それぞれ独立にもたらされたと考えられている(世界各地への伝播については,後述の[喫煙習俗の伝播]を参照)。
日本伝来後,喫煙の習慣やタバコの栽培は急速に広まった。当初,幕府は冗費節約,火災予防などの名目で,禁煙令を相次いで出し,タバコの栽培にも制限が加えられたりしたが,寛永年間(1624-44)には広く各層に喫煙習慣が定着し,それとともに各藩ともタバコの栽培を奨励しはじめた。元禄年間(1688-1704)には各地に刻みタバコの銘葉産地が形成された。薩摩伝来の種子から国分葉,指宿葉などが,また水戸に伝えられ水府葉などが生じた。このほか,長崎伝来のものに由来する阿波葉,達磨(だるま)葉などがあげられる。これらの品種は気候,風土に馴化(じゆんか)して細刻み原料として成立し,1898年の葉タバコ専売移行時には全国で70種以上を数え,総括して在来種と呼ばれている。その後,嗜好の変化により紙巻タバコ(シガレット)原料用として黄色種がアメリカから輸入され,1897年の試作ののち瀬戸内沿岸を中心に広まった。さらにバーレー種を1933年にアメリカより輸入し,1938年から栽培が始められた。
以下,日本におけるタバコの栽培について述べる。タバコの一生は播種(はしゆ)から収穫まで約160日内外を要し,乾燥期間を入れると180日程度となる。播種,育苗は種子が微細であるので入念に行う。まず2~3月の低温期に保温された親床に播種して25~30日間育て,ついで子床に仮植する。子床での育苗期間は20~25日程度で,子葉を入れて9~11枚の葉数になった苗を本畑に移植する。移植は3~4月に行うが,まだ地温が低いためポリエチレンフィルムで土壌面を被覆して初期生育を促進し,品質,収量の安定と病災害の回避をはかる。移植は畝に深さ10cmほどの穴をつくり,そこに定植する方式が多い。最近では移植機による機械化が進展している。10a当りの植付本数は在来種で3000~4500本,黄色種で2000~2200本,バーレー種で2500本内外で,10a当り収量は葉タバコとして260kg前後である。畑は排水,通風,日照がよく,病害虫発生の少ないことが必要である。とくにタバコは多湿条件には不適であって,高畝栽培や深耕,耕盤破砕を行うとともに,良質堆肥を施用して適度の肥沃度を保ち,土壌の物理性を改善することが肝要である。
定植後60~65日,通常5~6月に開花するが,開花後5日間くらいで花枝部を切除する(心止め)。これは収穫対象である葉に養分を蓄積し,葉の充実と成熟を促すためである。葉は下位より黄緑色~淡緑色となり,適熟となったものを2~3枚ずつ順次収穫する。収穫葉は縄またはハンガーに連編み(れんあみ)または籠詰めにして乾燥室につり込む。黄色種では専用乾燥室で循環熱風による火力乾燥(フルーキュアリングflue-curing)を行う。在来種やバーレー種では木造もしくはビニル利用乾燥室において空気乾燥(エアキュアリングair-curing)を行う。黄色種では当初37~38℃,湿度は100%に近い状態で黄変を促し,経時的に昇温,排湿をはかり,葉色が鮮黄色となった段階で,68℃くらいで乾固させる。黄色乾燥の目的は,葉中のデンプン,タンパク質などの高分子化合物を分解し,タバコの香喫味に関与する糖やアミノ酸類を生成させ,独特の甘い芳香をもった葉タバコに仕上げることにある。在来種やバーレー種では自然条件下で長時間かけて葉色を褐変させ,飢餓代謝により内容成分をほとんど分解し,特有の香りや淡泊でマイルドな味をもたせる。このように乾燥を完了したタバコ葉を葉タバコと呼び,売買の対象とする。
なお,ニコチンは根の分裂組織で生成され,地上部へ移動,蓄積される。心止め後に多く生成され,葉乾物の1~5%を占める。葉の着生位置が高いほどニコチン含有率が高くなる。また肥料,とくに窒素の施用量が多いと,ニコチン含有率が高くなり,同時に葉タンパク質含量も大きくなってひじょうな辛みとなるので,適正量の施肥が肥培管理上とくに重要である。
世界各地で栽培されているタバコの種類は次のように分けられる。
(1)黄色種 鮮黄色を呈し,甘い芳香を有する火力乾燥種で,紙巻タバコの主原料である。アメリカ(大西洋沿岸および南西部の各州),ブラジル,アフリカ(ジンバブウェなど),中国,インド,タイ,日本などがおもな産地である。排水のよい土壌と日照豊富な気象条件が望ましい。
(2)オリエント種 葉型が小さく,特有の芳香をもつ空気乾燥種で,シガレットのブレンドに香味を付加する原料として必要である。ギリシア,トルコ,ブルガリアなどの地中海性気候の乾燥地帯に主要産地があって,多日照と極端な寡雨が特有の香味を生み出す。多雨地帯である日本では生産されていない。
(3)バーレー種 アメリカで発見された葉巻用品種から突然変異でできたものといわれる。葉緑素が少なく白みを帯びている。空気乾燥種で,香料の吸着性が高い。シガレットのアメリカン・ブレンド製品に欠かせない種類となっている。アメリカ(ケンタッキー州,テネシー州),アフリカ(マラウィなど),南米(ブラジル,アルゼンチンなど),イタリア,韓国,メキシコ,日本などで生産されている。
(4)葉巻種 葉巻用の種類で高温,多湿で地力の高い地方で栽培される。葉が薄く,乾燥終了ののち発酵処理を行い,特有の香りを生み出す。アメリカ(コネティカット州,フロリダ州),キューバ,インドネシア,フィリピンなどで産し,スマトラ葉,ハバナ葉,マニラ葉などが銘葉として有名である。
(5)在来種 古くからそれぞれの国や地方で独自に栽培されてきたもので,空気乾燥を行い,葉色は黄褐色~黒褐色。世界各地で栽培されており,日本の松川,アメリカのメリーランド,ブラジルのガルボンなどが知られている。シガレットの補充原料として使われる。葉が薄く,味が軽いものが多い。そのほか国によりパイプ用や葉巻用として使われることもある。
葉タバコは世界のほとんどの国(統計上118ヵ国)で生産されており,作付面積は約430万ha,総生産量は約720万tとなっている(1996)。生産量の第1位は中国で,総量の40%を占め,次いでアメリカ,インド,ブラジル,トルコと続く。種類別に見ると黄色種が約64%,オリエント種が8%,バーレー種が12%で,残りが在来種や葉巻種である。日本では約2万6000ha作付けされ(1997),約7万tの生産がある。北海道,東京,神奈川,大阪を除く各県で生産されているが,東北および九州地方に多い。黄色種が約65%を占め,沖縄県より北関東地方に至るまで分布するが,主として西南暖地に多い。これは黄色種の栽培に豊富な日照と温暖な気候を要するためである。在来種は約2%産し,おもに関東・東北地方で作られている。在来種は古くから刻みタバコの原料として広く全国各地で栽培されていたが,シガレットへの嗜好の移り変りと,栽培,乾燥に多くの労働を要することなどから,黄色種などへの品種転換が進んだ。バーレー種は東北地方で生産され,アメリカン・ブレンド製品の原料となっている。
日本の葉タバコ生産は,1898年より葉タバコ専売制度のもとにおかれていたが,1985年4月より専売制度が廃止され,特殊会社(日本たばこ産業(株))と契約して栽培することとなった。国際競争時代に向けて今後の課題として,労働時間の短縮と規模拡大による低コスト生産,および主産地形成,品質の向上が叫ばれている。
執筆者:黒田 昭太郎
葉タバコを原料として加工したタバコ製品は,〈シガレット〉〈葉巻〉〈刻みタバコ〉〈嚙(か)みタバコ〉〈嗅(か)ぎタバコ〉の五つに分類される。15世紀末にタバコがヨーロッパへ伝えられて以来,ヨーロッパでは葉巻と刻みタバコが,上流社会では嗅ぎタバコが普及していったが,19世紀後半にシガレットの製造が工業化されて以来,シガレットの需要が年々伸びて,現在では,全世界の葉タバコ生産量の8割以上がシガレットとして消費されている。
(1)シガレットcigarette 0.5から1.2mm程度に細かく刻んだタバコを,麻を主原料とする薄い紙(ライスペーパー)で棒状に包んで成形したもの。製品形態としては,両切り,口付き,フィルター付きがあるが,現在はフィルター付きが圧倒的な割合を占めている。製品形態以外に,使用する原料葉タバコや加工処理法の違いにより,多種類の香喫味が出るが,大別すると以下の三つになる。(a)アメリカン・ブレンド 黄色種40%前後,オリエント葉15%前後に30%前後のバーレー種を配合し(そのほか葉脈部分を15%加える),バーレー種に多量の香料を加えて,特別な加熱加工処理をした製品で,バーレー加工葉の特有の香喫味をもつ。1913年アメリカで発売された〈キャメル〉が起源である。54年アメリカのR.J.レーノルズ・インダストリーズ社(〈アメリカン・ブランズ〉の項を参照)が発売したフィルター付きタバコの〈ウィンストン〉が大ヒットして,フィルター付きタバコの時代を迎えるとともに,アメリカン・ブレンドは世界中にその需要を伸ばしている(日本では〈チェリー〉〈マイルドセブン〉〈キャビン〉など)。(b)バージニア・ブレンド 黄色種を主原料とし,アメリカ産黄色種のもつ香りと甘みのある喫味を生かしたもので,イギリスで発達した。このタイプの製品には糖類などの添加物は使っていない(〈ピース〉がこれに近い)。(c)トルコ巻 オリエント種を主原料とし,その特有の芳香とマイルドな味を特徴とする。このタイプには楕円形に巻いたものがある。(d)このほかに,暗色タバコを堆積発酵させた原料を使用して,独特のにおいをもつフランスの黒タバコや,オリエント葉を20~25%配合したマイルドで香りの高いジャーマン・ブレンドなどがある。
シガレットの太さは外周で表し,17~28mmの範囲であるが,世界的には25mmが主流である。また長さによって,ミニサイズ(70mm未満),レギュラーサイズ(70mm),ロングサイズ(80mm),キングサイズ(85mm),スーパーキングサイズ(100mm以上)に区分され,日本ではキングサイズが主流である。しかし,1960年代になって喫煙と健康に関する社会的関心が高まり,タバコの喫味のマイルド化(低ニコチン・低タール化)に拍車がかかり,フィルター付きタバコの割合は主要国では圧倒的な比率を占めている(ほとんどの国が八十数%~九十数%。1996)。アメリカでは煙中タールが15mg以下の紙巻タバコが約6割(1995)で,低タール製品が主流である。
(2)葉巻cigar キューバ産のハバナ葉巻とフィリピンのマニラ葉巻が有名。製造法からは手巻,形巻,機械巻に分けられるが,いずれも香味の主体となる塡充(てんじゆう)葉(中南米,フィリピンが主産地)を,中巻葉で巻いて所定の形とし,さらに外巻葉(キューバ,アメリカ,インドネシア,フィリピンが主産地)で外観をととのえる。従来からある葉巻は,近年の嗜好の変化により需要は減退している。この傾向に歯止めをかけようと1960年代より,中巻き,上巻きにシートタバコ(葉タバコを原料として人工的に紙状に成形した模造タバコ)を使った機械巻,あるいはシガリロまたはリトルシガーと呼ぶ小型で低廉な葉巻が発売されている。
(3)刻みタバコ パイプやきせる用のものと手巻用とに分けられる。パイプタバコには,黄色種を主体としたイギリス・タイプと,バーレー種を主体とするアメリカ・タイプがある。(a)スモーキング・ミクスチュア 黄色種に,ペリキュー葉(アメリカのルイジアナ州産,生葉を強制発酵させた黒色の葉)やラタキア葉(シリア産,薫煙乾燥し,薫臭をともなう芳香をもつ)を配合した荒刻みの製品。(b)フレークカット 黄色種を主原料とし,高温,高圧で処理して喫味をマイルドにして,多量の香料を加えた製品。(c)手巻用刻みタバコ 欧米で根強い需要があり,香料を多用したパイプタバコに類似し,刻み幅は紙巻タバコより細く,自分でライスペーパーに巻いて吸う。(d)細刻みタバコ 日本の各地でできる在来種を多種類一定の順序で積み重ね,約0.1mmの幅に細かく刻んだもので,きせるにつめて吸う。手触りがふっくらと柔らかく繊細であり,日本各地の銘葉の芳香を生かした喫味であったが,現在は製造していない。
農家の手で生産された葉タバコは,買い付けられ集荷されて,原料工場で第1次の加工処理をして一定の形状(樽,ケース,ベールなど)に詰められた後,1年以上貯蔵,熟成されてから,タバコ工場でシガレットに加工される。黄色種やバーレー種など葉形の大きい葉タバコは,葉肉部と葉の主脈(中骨(ちゆうこつ)と呼ぶ)の物理・化学的性質に大差があり,太い中骨が刻みに混じると製品の品質上好ましくない。そこで原料工場では,農家から買い入れた葉タバコを用途区分ごとにまとめて加温調湿したのち,除骨機と分離機を通すことにより葉肉部と中骨に分離し,それぞれ別々に貯蔵,熟成に最適な水分をもつように乾燥する。この加工処理により,葉タバコの良化と均質化がはかられ,原料の種類に応じた梱包密度で一定の形状に詰められる。ケース等に詰められた葉タバコは倉庫で貯蔵,熟成するとともに,原料葉タバコとして国際的に取引される。熟成期間は原料葉タバコの種類,用途により一定しないが,1年以上蔵置される。熟成することにより,黄色種,バーレー種など品種本来の芳香と香味が発現する。それぞれの銘柄特性は,葉組とそれに加える香料ソース類と使用材料品,そしてタバコ工場での加工処理によって決まる。各銘柄の品質設計として,銘柄ごとに葉組配合標準,香料標準,材料品規格がある。タバコ工場ではこれらの規準に基づいて製品を製造するしくみになっている。
シガレットの製造工程をみると,原料葉タバコを刻みまで加工する原料加工工程と,刻みを紙巻タバコに成形して包装する製品工程からできている。原料加工工程は以下の6工程からなる。(1)熟成ずみの各種原料は樽,ケース等から取り出され,その銘柄に必要な量を加工処理の順序どおりに分割し,積み上げる。(2)分割供給機により,原料は一定流量で調和加香機に入り,熱と水分を加えられ,解除展開しながら香料を添加し,原料を改質するとともに銘柄特有の喫味を付与し,合わせて刻むときに粉砕されにくい水分含量になるように調湿する。1葉組を構成する30~40口座の原料は,薄い層に展開しながら,堆積サイロで幾層にも積層することによりブレンドされる。(3)アメリカン・ブレンドの製品については,バーレー系の原料に加香ソース(ココア,砂糖,多価アルコール,甘草エキスなど)を加え,加熱処理しながら原料によく浸透させたのち,前述の堆積サイロに積層する。(4)堆積サイロから取り出した原料は,回転式裁刻機で0.5~1.0mmの幅に刻む。一方,(5)原料工場で分離した中骨については,樽やケース等から取り出して加湿加温したのち,中骨の組織が柔軟になるまで一定時間サイロに蔵置する。この中骨をローラーで圧展し,回転式裁刻機で0.2mm程度に刻み,加熱加香したのち,除骨葉の刻みと同程度の水分になるまで乾燥して,中骨刻みサイロに積層する。(6)除骨葉刻みと中骨刻みは定比率配合装置で一定の割合で配合したのち,12%程度の水分になるように乾燥,冷却し,香料(それぞれの銘柄に最終的な特徴と個性をもたせる芳香性の香料)を加えて刻みサイロに蔵置する。
次に製品工程は次の3工程からなる。(1)刻みサイロから刻み供給機で風送された刻みは,巻上機によってライスペーパーで棒状に成形され,一定の長さに切断されてフィルター付け機でフィルターが付けられる。(2)フィルター素材はそのほとんどがアセテート繊維であり,一部に紙フィルター等がある。形態としては,単一構造(プレーン),異質のろ過材の2層構造(デュアル),3層構造(トリプル)等があり,〈マイルドセブン〉は活性炭を配合したデュアルフィルターを使用している。巻上機とフィルター付け機は連結されており,その能力は1分間に4000~8000本であるが,世界には1万4000本/minの新鋭機が登場しつつある。これらの巻上機には刻み重量の自動制御装置や,製品を1本ずつ検査する品質検査機構が装備されている。(3)包装機ではおもに10本または20本ずつ整列してアルミ箔で中包みし,外包みした上に防湿効果をもつフィルム(セロファンまたはポリプロピレン)で包む。外包みの種類は包裹(ほうか)(ソフトパック)と小箱(ハードパック)に大別される。アメリカや日本ではソフトパックが,イギリスではハードパックが主流である。包装機の能力は1分間に250~700個である。10本,20本詰した包裹詰品は,10個または20個単位で中間包装し,検査工程を経て段ボールに詰められ,市場に出荷される。
全世界で製造されるシガレットは,マクスウェルMaxwellの統計によれば5兆5790億本(1995)である。タバコ製造業は世界的に企業集中が進んでおり,上位5社(フィリップ・モリス,B.A.T.インダストリーズ,R.J.レーノルズ,JT,ロスマンズ)で全世界消費量の40%,約2240億本を占めている。残る60%はその他民間企業と国有専売企業によって占められているが,その割合は減少している。世界のたばこ消費上位3国は,中国,アメリカ,日本である。アメリカにおいては,フィリップ・モリス,B.A.T.インダストリーズ,R.J.レーノルズでシェアの約9割を占めているが,近年の喫煙をめぐる訴訟や喫煙環境の悪化を受けて,海外進出をさらに積極的に進めている。
日本のタバコに対する課税は1876年に始まったが,収入確保の面から難点があり,98年から葉タバコについて専売制をとることとなった。しかし,諸般の事情により所期の収入が得られなかったので,日露戦争の戦費調達のため,政府はタバコの生産,製造,販売におよぶ完全専売制を1904年から実施した。第2次大戦後,事業の企業性を生かすために,タバコ専売は大蔵省専売局から49年6月に日本専売公社に塩およびショウノウの専売事業とともに移管された(ショウノウ専売は1962年に廃止。塩専売は,日本たばこ産業(株)に引き継がれた後,97年4月に廃止)。その後,専売制度改革により,80余年にわたるタバコ専売制度に終止符が打たれ,1985年4月に日本たばこ産業(株)が設立され現在に至っている。
日本においては,タバコが伝来してから明治初年に至る長い間,日本の各地で栽培された在来種のタバコを,細刻みにしてきせるで吸う〈刻みタバコ〉しか発達しなかった。明治30年代には,産地を代表する120種以上の在来種の名称があったが,なかでも水府葉(茨城県),国分葉,出水葉,垂水葉(以上鹿児島県),秦野葉(神奈川県)などが銘葉といわれた。刻みタバコは家内工業や手内職程度の零細な業者でつくられ,仲買人の手で流通した。数ある刻みタバコの中で,〈薩摩刻み〉や〈水府刻み〉は評判が高かった。
明治維新以後,殖産興業と文明開化の波にのって,欧米からの輸入タバコが流行し始めた。なかでもきせるのいらない紙巻タバコに人気が集まった。この風潮をいち早く先どりして,1872年東京の土田安五郎が国産の紙巻タバコを製造したといわれているが,国内一般に口付きタバコを広めたのは岩谷松平で,84年に東京の銀座に岩谷商店を開設,世間の人を驚かすはでな宣伝広告で〈天狗印〉を売り出した。同じく東京の千葉商店がその翌年に〈牡丹印〉を世に出した。90年には京都の村井吉兵衛が日本最初の両切タバコ〈サンライス〉を発売し,村井兄弟商会の名を広めるとともに,渡米してタバコの製造法を学び,アメリカから輸入した葉タバコを使った新製品〈ヒーロー〉を94年に売り出した。この〈ヒーロー〉はその味が輸入タバコに似ており,景品付き販売やユニークな広告宣伝も功を奏し,タバコ民営時代の大ヒット銘柄となった。タバコ産業の揺籃(ようらん)期に起こった日清戦争(1894-95)は,軍用によって紙巻タバコを普及させるとともに,日本のタバコ製品を朝鮮や中国へ進出させた。1904年には,日本の民営タバコの輸出総額は年間270万円に達した。
1890年アメリカの5社で組織したアメリカン・タバコ会社は,世界的なタバコ・トラストとして名をはせていたが,日本ならびに東洋へ進出する方策として,日本の有力業者の村井兄弟商会と提携を図り,99年日米が半額ずつの出資で,資本金1000万円の(株)村井兄弟商会が設立された。これを機として東西の両雄の岩谷と村井は,これまでの対抗意識をさらに燃やして激しい広告・宣伝合戦をくり広げた。愛国心を売物にした岩谷に比して,機械による量産化,新製品の開発投入,新機軸な販売促進策など,タバコ産業の近代化を積極的におし進めた村井兄弟商会は一段と優位に立った。村井と手を握ったアメリカン・タバコ会社は,その資本力と技術,そして村井の販売ルートを利用して,短時日のうちに日本の市場を制圧する勢いを示すにいたった。専売制になる直前には,きわめて少数の巨大製造業者(村井兄弟商会,岩谷商店,千葉商店)と,5000をこす零細業者という二極に分化した状況であった。
民営時代のタバコ輸出入業者を中核として,政府の指導のもとに1906年東亜煙草会社が設立された。この新会社は専売局製造のタバコの輸出と,現地での製造販売にとり組み,約半世紀の間ブリティッシュ・アメリカン・タバコ会社(アメリカン・タバコ会社の後継会社で,現在のB.A.T. インダストリーズ社)と中国市場で激烈な競争を続けた。
1904年タバコ専売法により,タバコの製造を含めた完全専売制となり,大蔵省専売局が所管した。専売局時代のタバコは,時代を追って,刻みタバコの時代(明治),口付きタバコの時代(大正),両切りタバコの時代(昭和)と変遷した。
(1)刻みタバコ 専売制の発足時から17年ころまで,タバコの総需要のうち70%以上を占めており,2万5000t(紙巻タバコ換算250億本)前後の売上げがあった。その後43年の2万tの水準まで漸減するが,ほぼ一定の根強い需要があった。刻みタバコには上級品の〈福寿草〉〈白梅〉以下〈さつき〉〈あやめ〉〈はぎ〉〈なでしこ〉などの銘柄があったが,販売数量では1919年までの15年間は下級品の〈はぎ〉が第1位を占め,〈あやめ〉〈なでしこ〉が続いた。(2)口付きタバコ 1916年ころまでは50億本程度の需要であったが,第1次大戦による好景気で急速に需要が高まり,24年には230億本のピークに達した。1920年から25年までは中級品の〈敷島〉が,26年より29年までは〈朝日〉が,刻み,口付きを含め販売1位銘柄となった。(3)両切りタバコ 第1次大戦後,不況の慢性化とともにタバコには低価格品への需要の転移が激化した。手軽で安価な両切りタバコの下級品,なかでも〈ゴールデンバット〉の売行きが著しく伸長した。販売数量も,両切りタバコは30年に口付きタバコを追い抜き,34年には刻みタバコをしのぎ,両切りタバコ時代を確立した。日本の国力が充実した35-37年ころ,上級品には〈コハク〉〈ホープ〉,中級品に〈チェリー〉〈光〉,下級品に〈ゴールデンバット〉〈ほまれ〉,トースト処理をした〈暁〉などがあった。第2次大戦前の両切りタバコの代表は,戦前,戦中の15年間販売1位の座を占めた〈ゴールデンバット〉といえよう。43年にはタバコの製造数量は戦前のピーク810億本を記録した。そのうち両切りタバコは474億本であった。
1945年,敗戦により戦争は終わったが,タバコ工場33工場のうち14工場が戦災をうけて,タバコ製造能力の55%を喪失した。推定需要量800億本に対して,45年の製造数量は357億本まで落ち込んだ。戦後数年間のタバコ不足はきわめて深刻で,やみタバコが横行した。タバコは1944年より割当配給制が続いていたが,46年に値段は高いが自由に買える自由販売品の〈ピース〉〈コロナ〉が発売された。戦災工場の復旧と製造能力の増強に全力が傾注され,その結果50年には,戦前の製造能力まで回復したので,タバコの割当配給制はその年の4月に廃止され,全製品が自由販売されるようになった。
1949年6月公共企業体として日本専売公社が発足した。専売公社が国からの委任をうけて,タバコ事業を進めることになった。59年のタバコの販売状況を戦前の1936年と対比すると,(1)1人当りのタバコ消費量が約5割増加した。(2)両切りタバコが97%の圧倒的シェアを占め,刻みタバコ(2%強)と口付きタバコ(0.3%)は見る影もなくなった。(3)戦前は下級品のタバコが8割を占めていたが,戦後は上・中級品の伸長が著しい。すなわち,上級品の大衆化が進んだことなどがわかる。戦後の原料不足は国産葉タバコの増産で解消し,50年からは外国産タバコの輸入も再開された。〈ピース〉〈光〉〈いこい〉〈しんせい〉〈ゴールデンバット〉などの銘柄が,公社発足以来昭和30年代までの両切りタバコ全盛時代を支えた。量的には〈しんせい〉が11年間トップの座を占めた。
日本経済が高度成長期に入るのとほぼ時を同じくして,日本のタバコ事業は急速に近代化を進め,一大飛躍をとげた。60年のフィルター付きタバコ〈ハイライト〉の登場が,タバコの消費革命をひき起こした。除骨葉方式と高速巻上機に代表される技術革新は,タバコの製造工程を一新するとともに,タバコ工場の合理化をおし進めた。〈ハイライト〉は従来になくユニークな新製品で,両切りタバコに比べると一段とニコチン・タールの少ないマイルドな味であった。〈ハイライト〉が発売された60年度の販売総数量は1265億本で,フィルター付きタバコのシェアはわずかに3%であったが,70年度には販売総数量は2227億本,フィルター付きタバコのシェアは90%となった。この10年間で,タバコの消費量は1000億本近く増加するとともに,日本のタバコ市場の9割はフィルター付きタバコになった。このタバコ市場革命の立役者が〈ハイライト〉で,1965年から10年間販売1位の座を占め,味のマイルド化を推進した。
消費者の嗜好の変化と多様化に対処して,68年にはチャコール・フィルター(活性炭を仕込んだフィルター)を付けた〈セブンスター〉,69年にはアメリカン・ブレンド・タイプの〈らん〉〈チェリー〉が発売された。1962年にイギリスで,翌々年にアメリカで公表された〈喫煙と健康の報告書〉を発端として,喫煙と健康に関する関心は日本でもしだいに広がりを見るようになった。消費者の嗜好は〈ハイライト〉より煙中タール・ニコチンの少ない,味のマイルドな〈セブンスター〉のほうへ急速に傾斜していった。発売されて7年目の75年には〈セブンスター〉はトップ銘柄となった。世界のタバコ市場では,アメリカン・ブレンド・タイプの製品が消費を拡大しつつあるが,〈ハイライト〉〈セブンスター〉は日本独自のタイプの製品である。食生活の洋風化に同期して,アメリカン・ブレンド・タイプで,〈セブンスター〉より味をマイルドにした〈マイルドセブン〉が77年に発売され,世界的なタバコの味のマイルド化の潮流に乗って,発売2年目の78年度にはトップ銘柄となった。〈マイルドセブン〉は成長をつづけ,83年度には販売構成比42%,1280億本の巨大な銘柄となった。
日本のタバコ消費量は,1975年まで順調に拡大して総数量は2900億本に達したが,75年の小売価格の値上げを機として,需要の伸びは低迷している。75年を転換期として,成熟度の高い低成長のタバコ市場に構造的に変化したと認識せざるをえない。84年8月に〈専売改革関連法案〉が公布され,85年に日本たばこ産業(株)が設立された。また85年のタバコ輸入自由化ならびに87年の関税の無税化により,外国タバコメーカーは日本国内において日本たばこ産業と同等の条件で流通・販売活動が行えるようになり,急速にシェアを伸ばした(1996年度の外国タバコシェアは22.3%)。日本におけるタバコ市場は96年度で年間約3483億本,小売価格で約4兆円の規模となっている。
執筆者:矢田 尚
パイプで植物の葉をくゆらして煙を吸う風習は,すでに前800年ころのヨーロッパや古代エジプトにみられた。しかしこれはヒイラギなどの芳香性の葉を用いたもので,タバコの葉を用いる喫煙は,その原産地である熱帯アメリカのマヤ族に起源をもつ。彼らは太陽の崇拝者で,火や煙を神聖視し,パイプでタバコの葉をくゆらして,その煙を病人の身体に吹きかけ病気を治療した。彼らは葉巻タバコや葉を粉末にした嗅ぎタバコも用い,ときにはこの粉末をこねてだんご(団子)にしたものを病人に食わせ,吐きけをもよおさせて病毒を体外に出させることもおこなわれていた。旅行中の空腹時にはタバコの粉を丸めてのんだとも伝えられている。このような習俗はアステカ族に受け継がれ広められた。
1492年コロンブスの一行はサン・サルバドル島に上陸し,初めて喫煙の儀礼を受け,一部の水夫は喫煙の風習に染まった。だが大部分の者はタバコを薬草,珍草としてスペインへ持ち帰り,同時に現地人がパイプの名として用いていた語をタバコの名として旧世界に伝えた。新世界の探検はその後も続き,喫煙などの珍しい風習が人々に知られるようになったが,敬虔(けいけん)なカトリック教徒の多いヨーロッパでは,喫煙は異教徒の風習とされ,容易に根づかなかった。
ヨーロッパにおける最初のタバコ栽培は,ゴジエが1558年にフロリダから種子(ルスチカ種)を持ち帰り,ポルトガルのリスボンの王宮の庭にまいたことに始まる。当時,ポルトガル駐在のフランス大使であったジャン・ニコJean Nicotはこの種子を譲り受けて,59年母国の皇太后カトリーヌ・ド・メディシスに頭痛薬として送った。彼女がそれを嗅ぎタバコとして用いたことにより,パイプタバコを紳士の体面をけがすものと排斥していたフランスの宮廷でも,ようやく嗅ぎタバコが流行するようになる。タバコぎらいのルイ14世は,1674年タバコを専売にして国庫の増収をはかった。イタリアでも1561年にポルトガルからタバコが薬草として伝えられ,17世紀にはカトリックの僧の間でもパイプタバコが広まった。なおタバコ属をニコチアナというのは,ジャン・ニコにちなんだもので,1670年に発行された農書に載っている(またニコチンという名は1828年にポッセルトW.H.PosseltとライマンK.L.Reimannが葉タバコから分離抽出した有毒物質につけたもの)。
16世紀後半にはイギリスへ新世界のバージニア植民地から最初のタバコがもたらされた。初めは精力剤とされたが,まもなくパイプタバコが流行し,これがイギリス紳士のシンボルとなって,17世紀初めにはロンドンにも数千軒のタバコ店が出現するにいたった。この喫煙の流行に貢献をしたのがW.ローリーである。
しかしその当時輸入タバコの値段が高かったため,国外へ多額の金が流出するにいたったので,政府は高率の関税を課してその輸入を抑えたが,成功しなかった。タバコぎらいで,王権神授説の主張者であったジェームズ1世(在位1603-25)は,1604年に〈タバコへの挑戦〉と題する有名な抗議書を出して,喫煙を蛮人の汚れた行為としてひどく非難した。これに対して医師やその他の市民の間でタバコに対する賛否論がやかましくなり,ついに翌05年,オックスフォード大学で王の臨席のもとにタバコ討論がひらかれたが,王の力をもってしても庶民のあいだの喫煙を禁ずることはできなかった。そこで彼は輸入タバコに高税をかけ,その販売を独占した。
次の王チャールズ1世(在位1625-49)はさらに喫煙を弾圧して専売を強化したが,彼の圧政によって内乱が起こり,彼はついに首をはねられ,人民の勝利によって喫煙はよりいっそう増加した。さらに65年の疫病流行のとき,当時フランスから伝わった嗅ぎタバコが流行病に対する予防効果をもつという理由で,女や子どものあいだにも大流行し,同時に船員から伝わった嚙みタバコも同じ目的で流行した。その結果,政府はタバコに対する弾圧政策をやめ,輸入税によって国庫の増収をはかる方針を強化した。そのころコーヒーや紅茶も輸入されて,ロンドンでは喫茶店や喫煙所が生まれ,それらの場所が市民の社交や歓談の中心地となった。
さらに,19世紀に入るとマッチが発明されて,喫煙家にも愛用されるようになり,やがてヨーロッパ大陸へも伝えられた。さらにナポレオン戦争(1808-14)の際にはスペインから葉巻が,クリミア戦争(1853-56)ではフランス兵やトルコ兵と接触したイギリス兵を通じて紙巻タバコが伝えられ,イギリスの上流社会で歓迎され,紙巻タバコはやがて庶民の間に広まった。
タバコはドイツでも16世紀には薬用,観賞用とされていた。しかし三十年戦争(1618-48)でドイツ兵の中に喫煙が広がり,17世紀半ばペストの流行を機に予防薬として急速に庶民の間にタバコが広まった。ドイツの諸侯国では喫煙が火災の原因となり,またタバコによる国民の奢侈(しやし)を抑えるため,喫煙やタバコ販売を禁止したが,効果がなかったため専売制をしいた。17世紀末にはフランスから嗅ぎタバコが移入され,18世紀初め以降は上流社会ではそれがパイプタバコを駆逐した。しかし庶民の間ではパイプタバコの流行が根強く,とくに1848年の三月革命では,大衆は封建領主に対する反抗のシンボルとして,パイプタバコを吸って戦った。
17世紀初めポーランドやトルコやイギリスの船員を経てロシアに入った喫煙は,農民や都市民衆に盛んに受け入れられたが,ここでも奢侈と火災のため教会や政府から弾圧を受けた。禁煙令をやぶったものは流刑,財産没収,鼻そぎなどのきびしい罰則が適用されたが,それでも効果はあがらず,ついにピョートル1世は1698年イギリス人にタバコの国内販売を許可することとし,多額の納付金を納めさせて国庫の収入を増大させた。
トルコ人は16世紀末にベネチアの船員や商人を経てタバコを知った。しかし同国でも喫煙は弾圧を受け,17世紀前半ムラト4世は禁煙に反対する民衆の首2万~3万をはねたという。17世紀後半には禁令も解け,上流社会ではパイプタバコや嗅ぎタバコ,民衆の間では水ぎせるによる喫煙が好まれた。タバコの栽培も盛んとなり,同国は有数の輸出国となる。
17世紀初めにラテン・アメリカからスペイン人の手で直接フィリピンへ伝えられたタバコは,まもなく福建省を経て中国に入った。最初はここでも薬用,ことに軍隊のマラリア予防剤とされ,まもなく皇帝らによる弾圧の目をかすめて大衆の間に喫煙が広まった。初めはフィリピン人から知った粘土パイプを用いたが,後には木で丸い火皿を作り,それに竹軸を差し込んで喫煙した。奥地では葉巻もみられた。また17世紀中ごろにポルトガル人から嗅ぎタバコが伝わり,上流社会に流行し,りっぱな容器が工芸品として作られた。
中国の商人は17世紀末に満州からさらに東部シベリアに商業的な進出をこころみて,この地方にタバコを広めたが,ちょうどこのころにはロシア政府からシベリア地方におけるタバコの専売権を得たイギリスの商人がこの地方へ進出していたので,両者はタバコ販売合戦を演じ,ついに1701年中国商人はシベリアにおけるタバコの販売を禁止された。しかしこの事件は西回りした新世界のタバコと東回りしたタバコが出会ったことを意味する。コロンブスがアメリカを発見して以来,わずか200年にしてタバコは世界を一周したのである。
日本には1543年(天文12)ポルトガル人により種子島(たねがしま)へ鉄砲とともに伝えられたというが確証はない。記録によると永禄~天正(1558-92)のころ南蛮船により九州に伝えられ,本州に広まったようである。そして文禄・慶長の役(1592-98)のとき喫煙は日本から朝鮮に伝えられ,また従軍兵士が帰国後それを全国に広めた。慶長年間(1596-1615)にはすでに各地で女性や子どもがタバコをふかす姿がみられ,長崎ではタバコが栽培されていた。喫煙具がぜいたくになり,またタバコ火による火災が続発したため,江戸幕府は1609年に最初の禁煙令を出し,違反者を厳重に処罰した。
当時はタバコの葉を刻んで紙にはり,巻いて葉巻のようにして吸った。のちにはパイプをまねて竹の節で火皿を作り,それに竹軸を差し込んで吸い,この竹パイプをきせると呼んだ。火皿はやがて小さいシンチュウ製になるが,これは刻みタバコを使用したからで,当時のタバコは質がよく,うまかったという。一般に煙草,丹波粉,淡婆姑などの字をあて,糸煙,相思草,返魂(はんごん)草などとも呼んだ。
日本でもたびたび禁煙令が出たが効果はなく,ついには遊郭や幕府大奥にまで喫煙が普及し,庶民も喫煙具に贅(ぜい)を競った。しかし嗅ぎタバコ,葉巻,紙巻タバコや水ぎせるはついに普及することなく,明治時代まで刻みタバコが中心であった。また幕府は諸外国のようにタバコの専売制をとることができなかったが,明治政府は種々のタバコ税を課し,1904年,日露戦争の最中にタバコ専売制を実施した。以後,その専売益金は国家財源の重要な支柱となった。
→パイプ
執筆者:加茂 儀一
コロンブスがアメリカ大陸を〈発見〉したころには,原住民のインディオはタバコを栽培し,利用していた。インディオにとってタバコは単なる嗜好品ではなく,超自然的な力をもった植物で,とくにその煙は神々や精霊への捧げ物として,宗教的な儀式には欠かせないものであった。タバコの煙は戦争の神への勝利祈願の際の捧げ物であると同時に,休戦協定の調印のしるしでもあった。タバコの煙は,神々の怒りの表現としての自然的災害を鎮めるための捧げ物としても使われた。タバコ,とくにその煙には病気を治し,傷を化膿させない特別な力があると信じられており,さまざまな形で病気の治療に使われた。病人をタバコの煙でいぶすことは,南アメリカのインディオの標準的な病気治療法の一つで,現代においても民間治療者によってよく利用される。その際,タバコの煙自体が病気を追い出す力をもつと考えられている場合もあるが,タバコの煙は,病人の体内に入りこんだ〈病気の精霊〉を追い出すために,治療者の霊あるいは治療者を助ける精霊を送りこむ媒体であると考えられている場合もある。
タバコは1518年ころ,スペイン人によって初めてヨーロッパにもたらされ(この年代については別の説もある),1550年代から60年代に急速に広まり,栽培されるようになった。栽培地域が急速に拡大したのは,タバコが新しい万能薬として紹介され,インディオが健康でヨーロッパ人を悩ましていた病気を知らないのは,このタバコの効によると信じられたからである。タバコは,ペストをはじめ,さまざまの病気の治療にヨーロッパじゅうで使われたが,17世紀以降しだいに嗜好品として定着するようになった。
アメリカ大陸原住民のタバコ使用法には地域的な差があり,大別すれば,北アメリカでは喫煙(パイプ,葉巻),中央アメリカでは嚙みタバコ,南アメリカでは嗅ぎタバコが主であったと考えられている。ヨーロッパでは最初パイプによる喫煙法が普及したが,18世紀には,香りを楽しむ嗅ぎタバコがフランス上流階級を先頭にしてひじょうに流行し,喫煙の時代は終わったとさえいわれたほどであった。しかし,19世紀にはアメリカで改良されていた葉巻が,パイプを使用しない簡便さから,ナポレオン戦争でスペインに従軍した軍人たちの間でもてはやされ,流行するようになった。紙巻タバコ(シガレット)は1842年にフランスで商品化されたが,その利用が急速に増大したのは第1次世界大戦のころからである。こうした流行とは別に,嚙みタバコも喫煙できない場所でのタバコの楽しみ方として受け入れられてきたし,またパイプは世界各地でさまざまな意匠を凝らして発展した。最も贅をつくし,洗練されたパイプは水パイプであるといわれ,中近東から中国にかけて普及している。水パイプは,一度水中をくぐることによって冷却され,〈清浄化〉された煙を吸えるように考案されたといわれている。
日本へのタバコの渡来は,記録によると,1570年代にポルトガル人によって長崎へもたらされたものが最初とされるが,1600年ころにはタバコの種子が輸入され,栽培が始まっている。喫煙法としてはきせるが普及し,17世紀以後喫煙道具であるきせる,タバコ入れ,タバコ盆などが工芸品として発展した。国産の紙巻タバコは1872年に登場した。16世紀から17世紀にかけて,ヨーロッパでは喫煙が異教徒の蛮習,病気の原因,異臭などを理由に禁じられたり,タバコに重税が課されたりしたが,日本でもタバコへの作付転換による稲の作付減少をおもな理由として,数度のタバコに対する禁令が出されている。こうした障害にもかかわらず,喫煙は大衆文化として生きのびてきたが,現代においては肺癌の元凶として,再び喫煙の禁止を求める声が高まりつつある。
執筆者:武井 秀夫
タバコ喫煙者では,非喫煙者に比べて,慢性気管支炎や肺気腫などの呼吸器病をはじめとして,肺,口腔,喉頭,食道の癌,狭心症や心筋梗塞あるいは脳血管の障害の発生率の高いことが知られている。また,喫煙妊婦では死産の危険が高いことや,出生児の体重が低いことも報告されている。タバコの煙には数千種にも及ぶ物質が存在しているが,タバコ葉の主成分であるニコチンと,燃焼によって生じる一酸化炭素とタールが,健康への影響の点からは重要である。ニコチンは急性症状としては,自律神経系への作用が主であり,投与当初の脳,感覚器,末梢神経系,筋肉の興奮に引き続いて,逆に抑制,麻痺が生ずるという特異的な薬理効果をもっている。しかし,習慣性のタバコ喫煙の場合のニコチンと病気との関連は必ずしも明確でなく,むしろ喫煙習慣・嗜癖の形成や,禁煙時の禁断症状と関係が深いとされている。高濃度の一酸化炭素ガスによって,一酸化炭素ヘモグロビンが血中に増加することが,心血管系の障害や胎児発育の遅延をもたらし,タール中の発癌物質が,タバコ葉中に混在しているニッケルなどとともに,喫煙による癌の多発とかかわり合っている。また,窒素酸化物や各種のアルデヒド,フェノール類が呼吸器疾患の発生に関与している。
執筆者:竹本 泰一郎 通常の喫煙が自発的・能動的喫煙であるのに対し,非喫煙者がみずからの意志に反して余儀なくタバコ煙にさらされ,吸煙を強いられている状態は受動的喫煙と呼ばれている。世界保健機関(WHO)は,喫煙による健康障害に対処するための加盟各国への勧告の中に,〈タバコ煙に汚染されない大気を非喫煙者が享受する権利を擁護すること〉という1項をとくに加えている。近年,日本でも嫌煙権ということばが日常語として定着しつつあるが,非喫煙者の場合,それが受動的であるとはいえ,健康に対する影響を示唆する研究結果が出されている。この意味で,現在,喫煙と健康の問題は,個人衛生の域を脱して,公衆衛生の次元で検討されねばならぬ時期にきているということができよう。
執筆者:編集部
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西半球の先住民族の間に普及していたタバコの喫煙が,ヨーロッパ人の西半球進出とともに,ヨーロッパに伝えられ,アジアにも広まった。タバコの栽培はヴァージニアおよびその近隣の植民地の主要な生産物となり,独立前には年間1億ポンド以上がイギリス経由で海外に輸出されていた。タバコは刻みタバコ,噛みタバコ,嗅ぎタバコなどに加工されて用いられた。巻きタバコ(シガレット)が主流になるのは20世紀になってからである。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…獣医学を専攻,専門の著書・論文も多いが,むしろ作家として有名である。《ベンツ中尉》(1938)で作家としての地位を確立したが,第2次大戦後の文学の代表作《タバコ》(1951)は,ブルガリアの主要産業タバコをめぐる資本家と労働者の対立を軸に,世界大恐慌のころからナチス・ドイツ降伏までの十数年を,さまざまなエピソードを織り込みつつ描いた作品で,邦訳も含め多くの外国語訳がある。【松永 綠彌】。…
…西南戦争で店を焼かれた後上京し,1878年薩摩名産品を商う〈薩摩屋〉を開店。その後岩谷商会を設立,84年ごろ薩摩名産の国府葉を原料にした口付き紙巻きタバコ〈天狗煙草〉の製造販売を開始した。彼は宣伝のために銀座の店舗を屋根から壁まで真っ赤に塗り,自身も赤い洋服,赤い帽子で赤塗りの馬車に乗って人目を引いた。…
…肝臓癌は東南アジアやアフリカにも多いが,この場合は,肝炎ウイルスとともにアフラトキシンによる食物の汚染も重要視されている。インドなど,タバコやビンロウの実や葉をかむ習慣のある地方では口腔癌が多発している。エジプトやイラクに膀胱癌が多いのは,エジプトジュウケツキュウチュウ(住血吸虫)症がその誘因をなしている。…
…煙は一般に物質の不完全燃焼によって発生するが,その発生機構および成分は非常に複雑である。たとえばタバコの煙は,主として巻紙の炭化部分より少し後方で起こる蒸発・熱分解過程で発生した成分が空気中で急冷され凝縮の結果生じる。1cm3中に1010個程度の煙粒子を含み,粒径は0.2μm前後である。…
…不幸にも本書は大量に売れ残り,出版者は扉のみ1621年と刷り直した偽装再版を作って残部をさばこうとした。なおリスボン滞在中ニコは新大陸渡来のタバコを入手して王母カトリーヌ・ド・メディシスに献上し,世上フランスにタバコを初めてもたらしたのは彼とされた。自らの辞典にもその名をもとにニコティアーヌnicotianeの名で説明があり,またニコチンの名も後に彼にちなんでつけられたものである。…
…タバコNicotiana tabacumに含まれるアルカロイドで,C10H14N2,分子量162.23。タバコ葉中ではリンゴ酸塩またはクエン酸塩として存在し,乾燥含量は1~8%。…
※「タバコ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
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