ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チャールズ2世」の意味・わかりやすい解説
チャールズ2世
チャールズにせい
Charles II
[没]1685.2.6. ロンドン
イギリス,スチュアート朝のイングランド王 (在位 1660~85) 。チャールズ1世の子。清教徒革命により 1646年亡命。父王の処刑後,スコットランド王と宣言され,50年同地におもむいたが,ダンバーの戦い (50.9.) とウースターの戦い (51.9.) に敗れ,再度亡命。 60年ブレダ宣言を発して帰国し,王政復古を成就。 62年ポルトガル王女カサリンと結婚。治世初期はクラレンドン (伯)が国政を指導し,騎士議会は非国教徒弾圧のクラレンドン法典を発した。 65年第2次イギリス=オランダ戦争を開始。オランダ艦隊の来襲,大疫病 (65) ,ロンドン大火 (66) と続いたため,67年講和し,クラレンドンは失脚した。以後カバルが国政を担当。 70年フランス王ルイ 14世とドーバー条約を結んで旧教復活を約し,72年イギリス=オランダ戦争を再開,信仰自由宣言を発して旧教徒の処罰を停止した。これに対抗して議会は翌年審査法を制定するとともに軍費を認めなかったので,やむをえずオランダと講和 (74) 。 78年教皇派陰謀事件を機に議会との対立が深まり,翌年騎士議会は解散された。新議会の一部は初代シャフツベリー (伯)を中心に,王弟ジェームズに対する王位継承排除法案の通過をはかったが失敗。この王位継承権をめぐる激しい対立のなかで,ジェームズを排除しようとする反政府派と,王位世襲の原則を尊重してこの動きに批判的であった宮廷派は,ホイッグ,トーリーで呼合うようになり,ここにのちの二大政党の基礎が形成された。その後,チャールズはフランスからの援助金を獲得したため,81年以降は議会を開かず専制化の傾向を強め,名誉革命の一因をつくった。
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