ヘンリー7世(在位1485-1509)に始まり,17世紀初頭に至るイギリスの王朝。ウェールズ系のリッチモンド伯ヘンリー・チューダーは,その母がエドワード3世(在位1327-77)の子ジョン・オブ・ゴーントの末裔であったために,ランカスター派の王位継承者とみなされ,ばら戦争最後の戦闘ボズワースの戦でリチャード3世を破ってヘンリー7世として即位。翌86年ヨーク家のエリザベス(エドワード4世の娘)と結婚し,ヨーク,ランカスター両家の対立に終止符を打つとともに,王位の安全性を確かなものとした。その長子アーサーの夭折によって王位は次子ヘンリー8世(在位1509-47)に移り,その死後はヘンリー8世の子どもたち,エドワード6世(在位1547-53),メアリー1世(在位1553-58),エリザベス1世(在位1558-1603)によって継承された。
ヘンリー7世は反国王派貴族を鎮圧し,国家統一・王権強化を進め,対外的にはスペインと結ぶことによって小国イギリスの生きるべき道を求めた。ヘンリー8世も当初はこの対外政策を継続し,親スペイン・反フランス外交路線を展開したが,二大強国間のかけひきによってイギリスは翻弄され,やがて大国依存外交を捨て,中立政策へと転じた。この外交上の自立化は同時に宗教上の自立化へと進み,1533年の上訴禁止法によって主権国家の宣言が行われ,ローマ教皇との絶縁,つまり宗教改革を成立させることになった。エドワード6世期になると,まずサマセット公が摂政となり,ついでノーサンバーランド公がその支配をほしいままにして,エドワードの死後自分の息子の妻ジェーン・グレー(ヘンリー7世の曾孫)を女王としたが支持されず,王位はメアリー1世のものとなり,〈九日女王〉ジェーンはロンドン塔で処刑された。このエドワード6世時代にいっそうプロテスタント化した英国国教会がメアリー1世の時代にローマ・カトリックに復帰したこと,さらに彼女がフェリペ2世(1556年からスペイン国王)と結婚したことは,ヘンリー8世以来の主権国家イギリスの進路を逆転させることになった。しかしエリザベス1世はイギリスの教会をヘンリー8世時代の国教会に戻し,エドワード第2祈禱書を改正した新祈禱書を採用し,カトリシズムとプロテスタンティズムとの中道的国教会を確立した。またバビングトン事件によってスコットランド前女王メアリー・スチュアート(ヘンリー7世の曾孫)を処刑し(1587),スペイン無敵艦隊をも撃滅して(1588),国家の独立性を維持した。エリザベスには結婚の機会もあったが,政治的・宗教的配慮から独身を通し,死後王位はメアリー・スチュアートの子で,スコットランド国王ジェームズ6世(イギリス国王としてはジェームズ1世)によって継承された。
チューダー朝時代は絶対王政期とみなされているが,大陸諸国と異なって,議会(貴族院,庶民院)が存続し,課税審議機関・立法府として重視された。庶民院は全国民を完全に代表するものではなかったが,有給地方官僚制と常備陸軍を保持しえなかった国王・政府は,州選挙区のみならず都市選挙区からも多く選出されたジェントリー(地主層)議員を用いて国政を進めざるをえず,議会の存続・成長を促進させることになった。この場合,議会は国王・政府によって操縦され,絶対王政によって利用されるという側面とともに,庶民院の地位の向上,議事手続の改善,委員会制度の出現など議会制度,ひいては立憲主義それ自体の発達をもたらすという側面をも併せもった。ところでジェントリーの中にはたんに農村における地代取得者の地位にとどまらず,実業界・官界に進出して上昇の道をたどったものもあり,19世紀に至る地主支配体制の出発点がここに認められる。このジェントリーに次ぐ階層がヨーマンと呼ばれる比較的富裕な農民層であったが,トマス・モアの《ユートピア》の中で〈羊が人間を食う〉で知られる囲込み(エンクロージャー)によって農地を失った農民も現れるなど,農民層の分解も進みつつあった。経済政策としては重商主義が採用され,冒険商人組合(マーチャント・アドベンチャラーズ)や特権的貿易会社による毛織物輸出が注目されるが,16世紀後半は慢性的な不況期で物価は上昇した。文化面では15世紀後半以来ルネサンス人文主義が開花し,エラスムスの来英,トマス・モアの活動期を経て,宗教改革期以後も人文主義は発達し,学校も増加し,ジェントリーへの教育の必要が叫ばれた。すぐれた教会音楽も発達し,マドリガルもその盛期を迎え,シェークスピアも出現する。
この時代のイギリスはヨーロッパ大陸の一端にある小島国にすぎず,当初は政治的にはフランス,スペインの動静をうかがい,経済・文化面でもイタリア,ネーデルラントの後塵を拝した後進国であった。しかし宗教改革との関連で主権国家への道が準備され,議会もしだいに成長し,また国民経済の展開が図られるなど,チューダー期のイギリスは近代イギリスの基点として位置づけられる。
執筆者:栗山 義信
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絶対主義の成立期および極盛期に君臨したイギリス王朝。ヘンリー7世(在位1485~1509)に始まり、ヘンリー8世(在位1509~1547)、エドワード6世(在位1547~1553)、メアリー1世(在位1553~1558)を経て、エリザベス1世(在位1558~1603)に至る。したがって、ヘンリー7世がボスワースの野でリチャード3世を破って王冠を獲得した1485年から、エリザベスの死去した1603年に及ぶ、120年近くの支配であった。本来はウェールズの領主、オーエン・チューダーOwen Tudorのときからランカスター王家と緊密な関係を生じ、ばら戦争では同王家のために戦う。さらにその孫のヘンリー・チューダーはジョン・オブ・ゴーント(エドワード3世の第4子)の曽孫(そうそん)を母としたから、ヨーク家に対し王位継承権を主張しえた。内乱の平定によって成立した王朝であったため、王位の尊厳を維持し王権を強化することにはとくに意を用い、またそれに成功している。だが大陸風の絶対主義とは異なって議会の招集が継続されており、むしろ「議会における国王」が最高の統治者とみなされる。ヘンリー8世のごときは、議会の成長を促進した王である。社会の主勢力はジェントリで、貴族の勢力はやや衰えたとみられる。この王朝の成就(じょうじゅ)した大事業は、イギリス国教会の成立と、それに伴う修道院の解散である。重商主義政策をとって商工業を奨励、また海外発展を支援し、新航路の探検にも関心を示した。16世紀の後半には強国スペインと対抗してたじろがず、1588年にはアルマダ(無敵艦隊)を破る。イギリスのルネサンス期にあたり文運の興隆がみられたが、王朝はその推進者であった。
[植村雅彦]
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…百年戦争の敗戦後王位をめぐる内乱ばら戦争が勃発,その間に王位はヨーク家に移ったが,1485年ランカスターの陣営に属するチューダー家のヘンリーがヨーク家の王リチャード3世をボズワースの野に撃破して,ヘンリー7世として即位した。このチューダー朝ヘンリー7世の登位をもってイギリス中世の終りとする。 中世後期のイギリスでは,11,12世紀以来交換経済が大いに発達し,都市の発達や羊毛輸出を中心とする外国貿易の展開を促した。…
…チューダー朝初代のイングランド王。在位1485‐1509年。…
※「チューダー朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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