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チョーラ朝 チョーラちょう Chola

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

チョーラ朝
チョーラちょう
Chola

古代南インドの王朝 (846頃~1279) 。都はカーベリ川流域のタンジョールアショーカ王刻文によって前3世紀頃チョーラ人が南インドで独立国をつくっていたことがわかるが,チョーラ朝とは一般に9世紀中頃から4世紀あまり存続したタミル人の王朝のことをいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

チョーラちょう【チョーラ朝 Chōḷa】

南インドのタミル地方に古代・中世に栄えた王朝。最古の首都はティルチラパリ近くのウライユールで,のちタンジャーブール(タンジョール),ガンガイコンダチョーラプラムなどにも都を置いた。王国の起源は不明であるが,すでに前3世紀のアショーカ王の磨崖詔勅に南インドの国として〈チョーラ,パーンディヤ,サティヤプタ,ケーララプタ〉と記されている。前3~前1世紀の諸史料にもチョーラ,チェーラ,パーンディヤ3王国の存在が認められる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

チョーラ朝
ちょーらちょう
Chla

南インドの王朝。紀元前3世紀のアショカ王の刻文に半島南部の王朝の一つとしてチェーラ朝パーンディヤ朝などとともにチョーラ朝の名がみえる。紀元後1~3世紀の状態については、シャンガム文学とよばれるタミル文学の古典を通して知ることができるが、カーベリ河畔のウライユールを都に繁栄した。カーベリパトナムその他の海港を通してローマ帝国との貿易も活発に行われた。2世紀末のカリカーラ王は高名で多くの英雄伝説をもっている。
 王朝は4世紀以降姿を消すが、9世紀中葉ビジャヤーラヤによって復活され、やはりカーベリ河畔のタンジャブールを都としてしだいに強力となった。9世紀末には北方のパッラバ朝を倒してその地を手に入れ、10世紀末から11世紀前半にかけてのラージャラージャ1世、ラージェーンドラ1世父子の時代には黄金時代を迎えた。すなわち、ラージャラージャは、半島南端のパーンディヤ朝の地およびケララを征服したのみならず、スリランカの北半をも手中に収め、ラージェーンドラは、さらに海を越えてマレー半島、スマトラにまで遠征隊を送った。北方ではガンジス川流域までチョーラ軍が攻め上り、北西方ではチャールキヤ朝の都カリヤーニをも落としている。1070年東チャールキヤ朝の王が王位につき、クローットゥンガ1世と称したが、これは両親がそれ以前に婚姻を繰り返した結果である。王の内政にはみるべきものがあったが、その時代にスリランカの地が失われ、以後しだいに衰弱し、13世紀にはホイサラ朝の進出を招き、1279年ごろ、北方のカーカティーヤ朝、南方に再興したパーンディヤ朝の挟撃を受けてついに滅亡した。
 9~13世紀のチョーラ朝期には多くのバラモンたちを北方から招き、タミル・ナド各地にバラモン村落がつくられ、またシバ神、ビシュヌ神の寺院が数多く建立された。それによってヒンドゥー教の信仰が広く行き渡り、カースト制度の確立をもみた。首都タンジャブールにあるシバ大寺(ブリハディシュワラ寺院)はチョーラ朝期寺院建築のみごとさを今日に伝えている。[辛島 昇]

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世界大百科事典内のチョーラ朝の言及

【インド】より

…その後もドラビダ人は,北インドから伝わった諸制度を採用しつつ,大小多数の王国を建設してきた。南インドに興亡した諸王朝の中でも,9世紀中ごろタミル地方に興ったチョーラ朝がとくに名高い(~13世紀)。この王朝は,南はスリランカを征服し,北はガンガー川流域にまで兵を送った。…

【インド美術】より

…北インドでは諸王朝の分立が続き,オリッサ地方やカジュラーホに高大な石積み寺院が造られた。南インドではイスラムの影響が北インドに比べて弱かったこともあり,チョーラ朝(9~13世紀),ホイサラ朝(12~14世紀),ビジャヤナガル王国(14~16世紀),ナーヤカの勢力(17世紀)などによってその活動は永く続いた。中世後期はイスラム美術の時代である。…

【インド文学】より

…その時期は,インドの歴史で大きな転換点となっていた。すなわち,政治的には北インドのグプタ朝,ハルシャ・バルダナ王朝,南インドのチョーラ朝のような広い版図をもつ強力な国家が崩壊し,各地方に群小の勢力が割拠するようになる過程にあたる。その後は,南インドの一部を除く地域がムスリム勢力の政治と文化の影響下に繰りこまれる。…

【地主】より

…また,インド北部,西部では17世紀以来,タールクダールと呼ばれる大土地所有者も存在したが,彼らは主としてラージプート族,ジャート,グージャルなどの上位カースト集団であり,パンジャーブ地方,西北部地方では彼ら有力カースト集団による同族的な共同所有村落(地主村落)を形成していた。
[南インド]
 南インドではチョーラ朝時代にすでにバラモンたちによって運営されるブラフマデーヤ村落が形成されていた。この村落内では各地片に個別の所有権が確認されており,売買,移譲,寄進も行われた。…

【チャールキヤ朝】より

…最初,都はラーシュトラクータ朝を引き継いでマーニヤケータMānyakheṭaにあったが,後にカルヤーニに移された。この王朝の主要な政治史は,タミル地方でパッラバ朝に代わって支配を確立したチョーラ朝とのたび重なる抗争である。王朝はチョーラ朝に圧迫されることが多かったが,11世紀後半から12世紀前半の第8代ビクラマーディティヤ6世の治世には勢力が安定し,チョーラ朝の侵攻をよくしのいで,平和で文化が繁栄した。…

【パーンディヤ朝】より

…紀元前から14世紀まで南インド南端部を支配し,チョーラ朝とともに南インドの地方王朝興亡史を典型的に示した王朝。その主領域は首都マドゥライを中心に今日のティルネリベリ,マドゥライ,トラバンコールの諸地域に及ぶ。…

【ラージェーンドラ[1世]】より

…南インドのチョーラ朝の国王。在位1016‐44年。…

【ラージャラージャ[1世]】より

…南インドのチョーラ朝中興の英主。在位985‐1016年。…

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