イギリスの化学者,物理学者。化学的原子論を唱え,哲学的傾向の強かった原子論を科学に高める。カンバーランド州イーグルスフィールドの半農半工の家の出。同村の学校教師(12歳),ケンダルの寄宿学校助教師(15歳),兄とともに同学校の経営者兼教師(19歳)を経て1792年マンチェスターのニュー・カレッジの数学・哲学教授。1800年からは私塾を開き,クエーカー教徒としてつましい生活を送るかたわら,マンチェスター文芸哲学協会(1800年書記,08年副会長,17年会長)に拠って研究に専念する。色盲に関する研究(ここから色盲を英語でdaltonismという)もあるが,ケンダル時代以後生涯にわたって気象観測およびその理論形成に努める。初期には大気高度,貿易風の原因,雲の安定性,オーロラと地磁気の関係など大気現象に関する創見を発表(1793)するが,しだいに水蒸気,ついで大気組成に関心を移す。1799年露点の決定,降雨-流水-蒸発の水循環論,1801年には同種粒子の反発という仮説に基づく大気の混合気体説および混合気体の圧力は成分気体の圧力の和に等しいという分圧の法則を提唱する。また,シャルルの法則の独立発見もする。02年炭酸ガスの水溶性に注目し,友人W.ヘンリーをして〈ヘンリーの法則〉の発見に導き,みずからは翌年異種気体の溶解度の相違はそれらの〈究極粒子の重量と数とに依存している〉と考え,史上はじめて原子量の測定を企てる。ラボアジエの元素に対応した原子種を想定し,化合物粒子はまず成分元素の原子各1個から形成されるという前提により,マクロの反応量から直接に相対原子量そして分子量を算出した(1803)。翌年これに基づき倍数比例の法則を発見する。円形の原子記号,球状の原子模型も考案した。主著《化学哲学の新体系》(第1巻,1808-10)によって展開されたこの原子論は,一部の根強い批判にもかかわらず,みずから発展すると同時に近代化学の基礎理論となったのである。彼はラボアジエとともに近代化学の父といえよう。
執筆者:肱岡 義人
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イギリスの化学者.北イングランド出身.地元のクェーカー教徒の小学校を出た後は独学で自然科学を修め,後年S. Smilesの名著“西国立志編”に取りあげられるほど傑出した才能を幼年時に披歴する.1781年ケンダルに移り初等学校の経営に従事.盲目の自然哲学者J. Goughに師事し,1787年より気象観測を開始.生涯休むことなく約20万回の観測記録を残す.1793年マンチェスターに移住し,非国教会系高等教育機関マンチェスター・カレッジの数学・自然哲学の教師に就任.オーロラの原因を地磁気に求めた,最初の著作“気象観測および論文集”を刊行.1794年には自ら色盲であることを発見する論文を発表(色盲のことを一名Daltonismという).同年マンチェスター文芸哲学協会会員.諸種の気体に関する実験研究をはじめる.1803年史上はじめて原子量表を記述(雑誌発表は1805年).I. Newton(ニュートン)の自然哲学で前提されていた原子論とA.L. Lavoisier(ラボアジエ)の元素論を統合し,元素の多様性を重量の異なる諸種の原子の存在に求め近代原子論の基礎を築いた.かれの科学的原子論は,1808年刊行の主著“化学哲学の新体系”(第1巻・第1部)で詳細に論じられ,友人T. Thomsonやロンドンで活躍していたH. Davy(デイビー)をはじめとする多くの一線の科学者に衝撃を与えたが,元素の相対的重量(原子量)を決定する原理に不備があったため批判が集中し,一時は原子の存在を仮定しない化学当量を原子量のかわりに用いる傾向が生まれた.その後,原子量確定のための原理的工夫が重ねられ,1860年に開催されたカールスルーエの国際化学者会議でようやく安定した原子量表が得られた.1817年文芸哲学協会会長.1826年ロイヤル・ソサエティ会員.1842年最後の発表論文はオーロラに関するものであった.家庭教師を生業としながら勤勉な実験生活を続け,生涯独身だった.
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…J.L.プルーストは,どのような条件でつくられようとも一つの化合物の元素組成は一定であるという〈定比例の法則〉を発見した(1799)。J.ドルトンは,2種の元素AとBが化合して2種以上の化合物をつくるとき,各化合物で一定量のAと化合するBの重量は簡単な整数比をなすという〈倍数比例の法則〉を発見した(1802)。この二つの経験則は物質がこれ以上分割できない原子からなると考えれば説明できると考えたドルトンは,《化学哲学の新体系》3巻(1808‐27)において彼の原子論を展開した。…
…18世紀末,いわゆる化学革命を実行して,近代的化学の成立に貢献したラボアジエでさえ,原子の概念をまじめに取り扱ったとはいえない。しかしラボアジエの定立した元素の背後に具体的に原子を当てはめ,それらの相対的な重量比を導入し,原子どうしの結合や分離によって,化学反応をとらえるという,ドルトンの新体系(《化学哲学の新体系》)こそ,今日の原子論を基盤にした化学の出発点だったといえる。その後19世紀末に,いわゆる原子がそれ以上分割し得ない究極粒子ではなく,その内部構造を問題にしなければならないことを示す証拠が数多く現れた。…
※「ドルトン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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