第2次大戦とそれに関連する特定の行為に対し,ナチス・ドイツの指導者たちの責任を追及するために行われた裁判。裁判がドイツのニュルンベルクで行われたので,この名があるが,正式名称は国際軍事裁判という。日本の指導者たちの同種の責任を追及した東京裁判と並んで,国際法上いくつかの重要な問題を提起した。
第2次大戦の戦勝国となった連合国側はすでに大戦中から,ドイツ軍の占領地における残虐行為等の処罰を戦争目的の一つとする旨をしばしば声明し,とくに1943年11月のモスクワ宣言で,アメリカ,イギリス,ソ連の3国は〈地域的に限定し難い犯罪〉の主要な責任者の追及問題に触れていた。ドイツの無条件降伏後,45年6月から8月にかけて開かれたロンドン会議で,これにフランスを加えた4国の代表は〈欧州枢軸諸国の主要戦争犯罪人の訴追の処罰に関する協定〉に署名し,同協定の一部をなす国際軍事裁判所条例に基づいて,裁判を行うことに合意した。なお同協定にはその後19の連合国が加入し,計23ヵ国の名において起訴状が提出されることになった。
国際軍事裁判所はアメリカ,イギリス,フランス,ソ連の各国の任命する計4名の裁判官で構成され,F.ビドル,G.ロレンス(裁判長),H.D.deバーブル,I.T.ニキチェンコがその任についた。首席検察官も同じ4国から1名ずつ,R.H.ジャクソン,H.ショークロス,F.ド・マントン,R.A.ルデンコがそれぞれ任命された。起訴状はH.ゲーリング,J.vonリッベントロップなど24名のナチス・ドイツの指導者個人のほかに,ドイツ政府,ナチス党指導者群,親衛隊,秘密警察,突撃隊,参謀本部,最高司令部をも〈犯罪的団体〉として,被告に指名した。これらの被告は各自の希望に従い,資格のあるドイツ人弁護人を選定した。
公判廷は45年11月20日の起訴状朗読に始まり,翌46年10月1日の判決言渡し終了まで403回を数え,審理には英語,フランス語,ロシア語,ドイツ語の4公用語が用いられた。この間,19名の被告以外に200名を超える証人が証言台に立ち,多数の証拠書類が法廷に提出された。
判決は,ナチス党指導者群,親衛隊,秘密警察を犯罪的団体と認定したほか,22名の個人被告に対して表のとおり有罪を宣告し,刑罰を課した。起訴された24名のうち,M.ボルマンは行方不明のため欠席裁判となり,R.ライは拘禁中に自殺し,またG.クルップは病気のため審理延期(のち1950年死亡)となった。
判決によれば,22名の個人被告中,8名が訴因1の〈共同謀議〉,12名が訴因2の〈平和に対する罪〉,16名が訴因3の〈戦争犯罪〉,同じく16名が訴因4の〈人道に対する罪〉について,それぞれ有罪を宣告された。すべての訴因について有罪とされた者と,一部の訴因についてのみ有罪とされた者とがある。これを東京裁判と比較すれば,共同謀議の有罪者数が少ない反面,人道に対する罪のそれが多い点が注目される。
訴因の〈平和に対する罪〉とは,裁判所条例によれば,侵略戦争または国際条約に違反する戦争の計画,準備,開始,遂行またはこれらの行為の共同計画,共同謀議への参加を意味し,判決はドイツの行った戦争がそれに該当すると認定した。また〈人道に対する罪〉とは,同じく条例によれば,戦前もしくは戦争中になされた一般住民の殺害,殲滅(せんめつ),奴隷化,強制移動などの非人道的行為または政治的・人種的・宗教的理由による迫害行為を意味するが,判決は戦争開始後になされたドイツ軍の占領地における残虐行為,とりわけユダヤ人迫害について有罪を認定した。さらに〈戦争犯罪〉とは,占領地の一般住民の殺害や捕虜の虐待など,いわゆる戦争の法規,慣例に違反する行為を意味し,〈共同謀議〉とは,以上の3種のいずれかに関する共通の計画や謀議に参加する行為を意味する。なお判決は裁判所条例に従い,被告が国家機関の地位においてこれらの行為をなした事実は,当該行為に対する被告の〈個人責任〉を免れさせるものではない,と結論した。
ニュルンベルク裁判は人類史上初めて,侵略戦争を犯罪として国際法により裁こうとする意欲的な試みであったが,敗戦国の不正と戦勝国の正義を誇示する政治的な動機をも有していた。そのため,検察官のみならず裁判官までがすべて戦勝国の代表者で占められ,かつ裁判所の適用すべき法の内容が戦勝国間の協定により事前に定められていたなど,手続的な中正に欠けるところがあった。何よりも連合国がドイツを裁きえたのは,後者の完全な軍事的敗北の結果,前者がドイツの統治権を掌握しえたという特殊な事情があったからであって,この種の裁判がつねに行われる保証はない。現に第2次大戦後も数多くの戦争が見られるが,戦後にニュルンベルク裁判に類する裁判が行われた例はない。ただし連合国がドイツ側の責任追及の手段として,一部で提唱された指導者たちの即決処刑に替え,裁判を選んだことは評価されよう。それにより被告たちにも弁明の機会を与え,法廷に提出された種々の主張や証拠類を客観的に分析する可能性を後世に残したからである。
裁判所条例に従って判決が認定した犯罪類型は,1946年の国際連合総会決議により〈ニュルンベルク諸原則〉の名のもとに確認され,この諸原則の定式化を委託された国連の国際法委員会は54年に〈人類の平和と安全に対する罪の法典案〉を作成した。このうち〈戦争犯罪〉は国際法上伝統的に認められてきたもので問題はないが,〈共同謀議〉はロンドン会議のアメリカ代表の要請により裁判所条例に取り入れられた英米法固有の概念であり,濫用される危険性が大きい。また〈平和に対する罪〉の核心は侵略戦争であるが,少なくとも1945年当時において侵略戦争が明確に定義され,かつそれが国際法上の犯罪であって,侵略戦争に対する指導者の個人責任を追及することが認められていたとは断定し難い。その意味で裁判所の判決は罪刑法定主義の原則に反する,と批判された。もっとも国際連合総会は幾度か暗礁に乗り上げたあと,74年に至って〈侵略の定義〉決議を採択することに成功した。この決議は他国領土の軍事攻撃など,侵略行為の事例を列挙したが,具体的な行為が侵略に該当するか否かの認定を安全保障理事会にゆだねたため,同理事会で拒否権を有する五大国の利益に反する形でこの決議が機能することは期待できない。つまり分権的な構造をもつ今日の国際社会において,侵略戦争の認定を制度化することは,戦勝国や大国の判断を敗戦国や中小国に押しつけることにつながりかねず,〈平和に対する罪〉の客観化という課題はそれだけ困難なことであるといわざるをえない。
他方,〈人道に対する罪〉は伝統的な〈戦争犯罪〉と重複する点が多く,国際連合総会もニュルンベルク諸原則の確認と同時に,集団殺害(ジェノサイド)が文明世界の非難する国際法上の犯罪である旨の決議を採択した。さらに総会は1948年に〈集団殺害の防止と処罰に関する条約(ジェノサイド条約)〉を採択し,国民的,人種的,民族的または宗教的集団を破壊する目的で構成員を殺害したり,彼らに重大な肉体的・精神的苦痛を加えるなどの行為の実行者,未遂者,教唆者等の処罰を規定した。また総会は68年に〈戦争犯罪及び人道に対する罪に対する時効不適用に関する条約〉を採択したが,西ドイツもまた79年には謀殺罪の公訴時効廃止に踏み切り,それ以前から国内法で追及してきたユダヤ人虐殺の荷担者たちを永久に訴追しうる道を開いた。なお〈ジェノサイド条約〉はニュルンベルク原則にならって,集団殺害の行為者が国家機関の地位においてなした行為についても〈個人責任〉を規定し,かつ責任追及のために国際刑事裁判所の設立を予定している。しかし各国は同裁判所にきわめて冷淡であり,今日までのところ設立のめどは立っていない。
→戦争犯罪 →東京裁判
執筆者:安藤 仁介
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…ロンドン協定により第2次大戦後の戦争犯罪処罰のあり方は画期的に変化した。同協定に付属した国際軍事裁判所憲章(条例)によりニュルンベルク裁判が開廷され,のちに同憲章に準拠して東京裁判が開かれるのである。この変化の特色は,第1に,連合国の一部の指導者が唱えた枢軸国指導者の即決処刑という方式が排されて,国際裁判方式が採択されたこと,第2に,従来の戦時国際法に規定された〈通例の戦争犯罪〉に加えて,侵略戦争の計画・準備・開始・遂行等を犯罪とする〈平和に対する罪〉,戦前または戦時中になされた殺害・虐待などの非人道的行為を犯罪とする〈人道に対する罪〉が新たに国際法上の犯罪と規定され,それらの犯罪についての戦争指導者と目された個人の刑事責任を認めた点にあった。…
※「ニュルンベルク裁判」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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