翻訳|Panama Canal
中米パナマ地峡を横断し、太平洋と大西洋を結ぶ運河。全長約80キロ。船舶は海から運河に入り3段式の水門を利用して運河中央部にあるガトゥン湖の高さ(海抜26メートル)まで引き上げられ、別の3段式の水門で海面の高さまで引き下ろされて通過する。2015会計年度の発着国別の通過貨物量で日本は米国、中国、チリに次いで4位。(パナマ市共同)
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中央アメリカのパナマ地峡を横断してカリブ海と太平洋を結ぶ運河。カリブ海側のクリストバル港から太平洋側のバルボア港に至る全長約82キロメートルの水路で、交通および軍事戦略上きわめて重要な運河である。閘門(こうもん)式運河で、ガトゥンの三段式閘門、ペドロ・ミゲルの一段式閘門、ミラフロレスの二段式閘門からなる。クリストバルから運河を11キロメートル航行して人造湖のガトゥン湖に至り、ガトゥン閘門でガトゥン湖と同じ標高26メートルまで船舶は持ち上げられる。ガトゥン湖を40キロメートル航行し、パナマ地峡の背骨である丘陵地帯を掘削したクレブラ堀割に至る。ついでペドロ・ミゲル閘門で船舶は標高17メートルまで下げられ、さらにミラフロレス閘門で海水面まで下げられたのち、約13キロメートルの運河を航行して太平洋岸のバルボアに至る。運河航行に約8時間を要し、1日40隻が限度である。6万5000トン以上の大型タンカーや空母は通行できない。第二次世界大戦後の船舶の大型化によって、通行船舶数は1960年代末の年間1万5000隻から伸び悩み、1998会計年度(1997年10月~1998年9月)の通行船舶数は1万3025隻。通行収入は5億4570万ドル(1998会計年度)で、そのうち1億0690万ドルがパナマ政府に支払われた。
[加茂雄三]
スペインの植民地時代を通じて、パナマ地峡は、ペルー副王領で産出した銀を本国に運ぶ重要なルートで「王道」とよばれていた。スペイン人は早くも16世紀に、この地峡に運河を建設することを考えていたが、実行に移されぬまま数世紀が過ぎ、この地峡の重要性がふたたび強く認識されたのは、19世紀のなかばにアメリカのカリフォルニアでゴールド・ラッシュが起こって、アメリカの東海岸から西海岸にまで容易に行くことができる交通路の開拓が必要になったときであった。それにこたえてアメリカの民間会社が1850年にパナマ地峡を横断する鉄道の建設に着手し1855年に完成した。アメリカの大陸横断鉄道がまだ完成していなかった当時、この鉄道は大西洋と太平洋を結ぶ交通路として重要な役割を果たした。1860年(万延1)には日米修好通商条約の批准書を携えた幕府の最初の訪米使節団が、パナマ経由でワシントンに行く途中この鉄道を利用している。パナマ地峡の運河建設に最初に着手したのはフランスの民間会社で、コロンビア政府から運河建設のための権利を獲得し、スエズ運河を建設したフェルディナンド・ド・レセップスの指揮のもとで1881年に運河建設を開始した。しかし、想像以上の難工事、資金の枯渇、マラリアや黄熱病の猛威により、1889年に5分の2を掘ったところでこの会社は破産し運河の建設は中断した。
フランスの民間会社が運河建設に失敗したあと、20世紀の初頭にそれを引き継いで完成させたのがアメリカ政府である。当時アメリカは、1898年のスペインとの戦争でフィリピンとグアムを獲得し、またハワイを併合するなど、アジアや太平洋地域へ進出を開始していた。このような進出をさらに容易にするために、アメリカ東部海岸から中央アメリカ地峡を横断して太平洋に出るためのルートの必要性が強まった。スペインとの戦争の際に、軍艦オレゴン号をサンフランシスコから南アメリカ大陸南端のホーン岬経由でフロリダまで周航させるのに67日も費やしたことは、アメリカの政治家や国民に運河建設の必要性を痛感させた。オレゴン号が航行した1万9000キロメートルの距離は、中央アメリカ地峡に運河があれば約3分の1に短縮できたからである。戦後ただちにアメリカ政府は、米英両国政府が中央アメリカ地峡で運河を独占的に建設することを禁じたクレートン‐ブルワー条約を改定する交渉に乗り出した。1901年の第二次ヘイ‐ポンスフォート条約で、アメリカが単独で運河を建設し、運河地帯を要塞(ようさい)化できる権利をイギリスに認めさせた。当時中央アメリカ地峡で運河建設の候補地とみなされていたのはニカラグアとパナマであった。アメリカはパナマ・ルートをとることを決定し、コロンビア政府と交渉して、1903年1月、アメリカ政府がパナマ地峡に運河を建設し、それを支配することを認めた条約を締結した。しかしその批准をめぐってアメリカのセオドール・ルーズベルト政府が示した脅迫的な姿勢がコロンビア議会の反発を招き、結局議会は条約の批准を拒否した。一方、コロンビアからの分離傾向を強めていたパナマ地方の住民たちは、コロンビア議会が条約の批准を拒否したことに深く失望し独立の陰謀を進めた。同年11月3日、彼らはアメリカ政府からの支援を期待しつつコロンビアからの分離独立に踏み切った。この独立は、アメリカから派遣された軍艦による威圧などの助けを借りて成功し、アメリカ政府は11月6日にパナマ共和国を承認した。
アメリカはただちに、パナマの特命全権大使であるフランス人ビュノーPhilippe Bunau-Varilla(1859―1940)との間で運河に関する条約を締結した。この条約は先にコロンビアとの間で結んだ条約よりもはるかにアメリカにとって有利なもので、アメリカ政府はパナマ運河を建設し運営する権利と、カリブ海岸から太平洋岸に至る幅16キロメートルのパナマ運河地帯を「あたかも領土の主権者のごとく所有し」、それを「永久に使用、占有、支配する」権利を獲得し、その代償としてパナマ政府に即金で1000万ドル、9年後から毎年25万ドルを支払うことを定めた。この条約のなかのあいまいな表現が、その後運河地帯の主権がどちらかにあるかをめぐって両国間でなされた紛争の原因となったが、主権はアメリカ側にあるという解釈のもとでパナマ側はその後半世紀以上にわたって半植民地的な状態を強いられた。アメリカ政府は1904年に運河の建設に着工し、第一次世界大戦前夜の1914年8月15日に開通した。運河の開通により、アメリカの、アジア、太平洋や南アメリカの太平洋岸地域への進出は飛躍的に容易になった。パナマ運河とその入口に位置するカリブ海地域はアメリカにとって「死活にかかわる地域」とよばれるほどその戦略上の重要性が増した。一方、パナマは前記条約のもとで半植民地状態に置かれ、運河から得られる莫大(ばくだい)な通行料はすべてアメリカが獲得したため、交通の要衝というこの国の最大の資源を生かすことができず、発展は停滞した。
パナマ政府に対する年間の支払い額は、その後、1933年には43万ドル、1955年には193万ドルへと増額されたが、この額は、運河通行料が1億4300万ドル(1975)であったのに比べて、そのわずか1.3%というものであった。このようなパナマ側にとっての経済的不利益や、運河地帯でのパナマ人に対する差別などに対してパナマ側の不満は増大し、1964年に運河地帯でのパナマ国旗の掲揚をめぐって起こった争いに端を発した暴動となって爆発した。この事件で衝撃を受けたアメリカ政府は新しい運河条約のための交渉に着手した。しかし、運河地帯の主権返還を要求するパナマ側からの圧力は、1968年10月にクーデターで生まれた、民族主義者トリホス将軍が指導する政権のもとで一段と高まった。運河地帯にはアメリカ軍の巨大な軍事基地や、ラテンアメリカでのアメリカ軍の作戦行動を統轄する南方軍司令部が置かれるなど、アメリカにとって軍事的な面からも重要であり、パナマ側からみればそれらによって戦争に巻き込まれる危険性をもっているという問題があった。しかしパナマ側の要求をラテンアメリカ諸国も支持したため、結局アメリカは譲歩して、1977年9月、パナマ政府との間に新運河条約を締結し、翌年4月に批准された。新運河条約は、運河地帯の主権がパナマ側にあることを明確にするとともに、1999年末に運河の所有、および運営をパナマ側に引き渡すこと、パナマへの年間支払い額を大幅に増額すること、運河地帯の運営にパナマ人を参加させることなどを定めており、そのかわり軍事基地は当分の間存続することとなった(1999年11月、最後の基地を返還)。1999年12月31日正午、パナマ運河および周辺地帯はアメリカからパナマに引き渡された。このように旧運河条約がもっていた問題についてはいちおうの決着がつけられた。しかし、現在の運河が老朽化していることや、閘門式のため船舶の通行に時間がかかること、幅が狭いため6万5000トン以上の船は通行できないなどの欠点があるため、新運河建設の構想がおこり、1982年以来、パナマ、アメリカ、日本の間で第二パナマ運河建設の可能性について検討がなされた。2006年にパナマ政府はパナマ運河の拡張を計画し、同年10月には国民投票において拡張計画の支持を得た。開通100周年にあたる2014年竣工を目ざし、工事が進められている。拡張工事終了後には、最大許容船型は全長366メートル、幅49メートル、喫水15メートルへ拡大される。また、現在の閘門は拡張工事終了後も供用され、運河の容量は約80%増加するとされている。
[加茂雄三・鈴木聡士]
パナマ運河は、パナマ地峡部を開削してカリブ海と太平洋を結ぶ全長約82キロメートルの閘門式運河である。1881年、スエズ運河を完成させたレセップスにより水平式運河として着工されたが失敗に終わった。
その後、閘門式運河に切り換えられ、エッフェル塔の建設者エッフェルが招かれた。しかし、1889年2月のパナマ運河会社の倒産によりフランス人による工事は幕を閉じた。そしてパナマ運河建設の権利はアメリカ合衆国に移った。1904年に工事が再開されるや、ゴーガスWilliam Crawford Gorgas(1854― 1920) によりパナマ地峡地帯の風土病である黄熱病やマラリアなどに対して徹底的な防疫処置が行われた。1907年に運河建設の主任技師になったゲーサルスGeorge Washington Goethals(1858―1928)大佐は、新鋭の蒸気機関や浚渫(しゅんせつ)船を用い、さらにアメリカ合衆国工兵隊により軍事的規律の下で工事を行い1914年に完成した。
この運河は二重のコンクリート壁と導水管からなる代表的な閘門式運河である。幅33~109メートル、水深は、もっとも浅い地点で約14メートルである。チャグレス川をガトゥン・ダムでせき止め、水面標高27メートルの人造湖ガトゥン湖をつくり、ゴールド・ヒル丘陵地帯に深さ約14メートルのゲーリャード・カット(堀割)が掘削された。
付帯工事を含め、運河建設の土工量は約1億8500万立方メートルで、閘門やダムに使用されたコンクリートは約380万立方メートルであった。その後、マッデン湖にマッデン・ダムが建設されパナマ運河地帯の総合開発計画も進められた。
[五十嵐日出夫]
『日本中小型造船工業会編『パナマ運河拡張が世界の海運・造船産業に与える影響に関する調査』(2009・日本財団助成)』▽『河合恒生著『パナマ運河史』(教育社歴史新書)』▽『山口廣次著『パナマ運河――その水に影を映した人びと』(中公新書)』
中央アメリカの南部,パナマ地峡を横断して太平洋とカリブ海を結ぶ運河。この地峡に運河をつくることは,すでに16世紀にメキシコを征服したH.コルテスによって考えられていた。A.vonフンボルトは,カリブ海に注ぐアトラト川と太平洋に注ぐサン・フアン川の上流とを結んだラスパドゥラ運河があったと伝えているが,確認されていない。1881年パナマにおける運河の本格的建設に乗り出したのは,スエズ運河建設者のレセップスであった。しかし彼には土木工学の知識はなく,資金も一部幹部に着服されて,89年に計画は挫折。その上,資金調達にからむフランス政界への政治工作が問題となり,レセップスは収賄罪で起訴される。上告審で無罪となったが,工事中断のまま彼は世を去る。未完成の事業を引き継いだのはアメリカ合衆国であった。同国が政府の事業としてパナマ運河の建設に乗り出したのは,パナマ独立(1903年11月3日)後まもなくで,15日後の11月18日には運河条約を締結,調印している。そして05年に開始された建設事業が軌道に乗るのは07年,ゴーサルズ大佐George W.Goethals(1858-1928)が地峡運河委員会委員長に就任してからであった。まずガトゥン・ダムがつくられ,クリストバルに港がつくられた。そしてガトゥン・ダムまでシーレベルの水路が掘られ,そこから約25m高い水位をもつガトゥン湖へ船を水力で押し上げる(逆コースの場合は下げる)閘門(こうもん)を設けた。そしてクレブラ(別名,ゲーリャード)と呼ばれる台地を切り開き,太平洋岸のパナマ市まで水路を掘り,そことクレブラとの間に船を上下させる閘門が建設された。こうして船が通過できるようになったのが13年9月25日であった。14年8月通航業務を開始したが,その後もマッデン・ダムがつくられたり,建設が行われたりして,35年までに運河建設に要した費用は5億4663万6490ドルであったといわれている。
こうして完成した閘門式のパナマ運河は,合衆国がパナマから1903年に1000万ドルで買い取った幅16km,面積1680km2の帯状の運河地帯Canal Zone内にある。この運河により太平洋と大西洋が64kmの水路で結ばれることになった。ニューヨークとサンフランシスコ間の距離は約1万5000km短縮され(現在の運河通過所要時間は7~8時間),世界貿易に与えた影響は計り知れないものがある。とくに合衆国は南アメリカやアジアへの進出にこのパナマ運河を利用した。またカリブ海を自国の裏庭として支配するのに重要な拠点となった。合衆国はパナマ運河地帯に常設政庁を置いて管理・統治し,いわば合衆国の国営企業としてパナマ運河が経営される体制を整えた。しかしパナマ国民の当初からの抵抗もあって,合衆国はパナマ運河地帯を自国の領土として完全に併合することはできず,パナマの名目的主権を認めざるをえなかった。これが後にパナマの主権回復へとつながっていくのである。
合衆国は1950年にパナマ運河会社を設立した。会社は独立採算制をとり,船舶の航行,水路と閘門の操作と保全,パナマ鉄道の経営その他の問題に責任をもつことになった。パナマ運河会社は運河を使用する船舶から使用料を徴収する。1年間にパナマ運河を往来する船は約1万5000隻に達する。1日平均約40隻,昼夜兼行でフル操業するとして,1時間に2隻ぐらいの船が絶えずパナマ運河を通過しているわけである。パナマ運河会社がこの船舶の通航からあげる収益はしだいに増加する傾向にあり,70年代には毎年1億ドルを超えるようになっている。パナマ運河を通航する船は,おもに西ヨーロッパ,北ヨーロッパ,日本,合衆国,カナダなどの発達した資本主義国の船であり,ほとんどが貨物を運ぶ船である。現在の世界経済体制を反映して,第三世界から原料を工業地帯へ,工業地帯から商品や製品を第三世界へという貿易のかなめにパナマ運河がある。
合衆国はパナマ運河地帯の防衛を重視してきた。グローバル・ポリシーに基づき,米州全体を掌握する拠点としてパナマ運河地帯を位置づけ,統合司令部のうち南方司令部はパナマ運河地帯内のクオリー・ハイツに置かれた。ここはパナマ運河地帯を防衛するとともに,ラテン・アメリカ諸国における合衆国の軍事援助計画の指導と監督のセンターの役割をもっている。ラテン・アメリカの軍人たちは,パナマ運河地帯内の基地で軍事訓練を受け,合衆国のラテン・アメリカ支配に協力する軍人として育成されている。パナマ運河地帯はアメリカの政治,軍事,経済の全般にわたって重要な拠点の一つなのである。
パナマ運河は合衆国がパナマから買い取った地帯に建設した合衆国の運河であった。パナマは完成時から毎年運河年賦金として25万ドルを受け取ったにすぎなかった。しかし合衆国は1936年には運河地帯の主権をもつのはパナマであることを再確認させられるとともに,運河年賦金も43万ドルへ増額させられ,運河地帯とのパナマの関係が改善されることになった。第2次大戦後,世界の民族解放闘争が前進すると,合衆国はそれに対処するための体制の立直しを図る。パナマとの〈相互理解と協力〉条約(1955)の締結もその試みの一環であり,193万ドルの年賦金増額と引換えにパナマ運河地帯とパナマは合衆国の軍事体制に,より強固に組み込まれることになる。しかしパナマ国民の合衆国に対する反発は56年のスエズ運河国有化を契機に強まり,64年新パナマ運河条約の締結のための交渉が開始されることになった。その結果,77年9月に新パナマ運河条約が調印された(1979年10月1日発効)。この条約により合衆国は99年末までに運河を全面的にパナマに返還することになった。それまでの間パナマ運河の経営と防衛にパナマと合衆国が共同であたること,またパナマは運河を通航する船舶の通航料の30%を受け取ることも決められた。
合衆国の国内にはこのような条約の調印に反対する勢力が根強く存在していた。しかし,その勢力を押さえて調印に応じざるをえないほどパナマ国民の主権回復の要求は強く,また世界のパナマ国民への支持も圧倒的であった。合衆国は新パナマ運河条約とその付帯条項により,パナマ共和国内に合衆国軍を駐留させる権利を確保し,軍事基地を運河地帯内に置いている。そして運河の防衛を口実に〈パナマ共和国内で軍隊を使用する〉ことも可能な権利を保持している。アメリカは運河返還後の合衆国駐留について交渉したが,パナマ政府は拒否し,合衆国軍は99年末の運河返還に先立ち97年撤退を完了した。
執筆者:河合 恒生
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(伊藤千尋 朝日新聞記者 / 2008年)
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中央アメリカ地峡のパナマで大西洋(カリブ海)と太平洋を結びつけ,世界の物流に重要な役割を果たしている横断運河。スエズ運河を建設したフランス人のレセップスが,1881年に建設に着手したが失敗した。1903年にパナマとアメリカの間で結ばれた条約によってアメリカが運河地帯を租借し,運河の建設と運用を行うこととなった。04年に建設が始まり,14年に供用が開始された。77年にパナマとアメリカの間で結ばれた新条約により,99年末にパナマに返還された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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