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フランスの作曲家,教育者。1854-65年,パリのL.ニデルメイエールの〈古典と宗教の音楽学校〉で音楽教育を受け,61年以後同校の教師となったサン・サーンスにも師事した。卒業後,初め教会オルガン奏者を職として,96年にはパリのマドレーヌ教会首席奏者(-1905)となるが,同じ年パリ国立高等音楽院作曲教授に任命され,M.ラベル,F.シュミットらを育てた。1905年院長,20年難聴と健康上の理由により退職。死に際しては国葬が行われた。
フォーレの絶筆である《弦楽四重奏曲ホ短調》(1924)は,121番という作品番号をもつ。しかし作品番号が与えられなかったものもあり,同一の番号で何曲かを含むものもあるから,彼は決して寡作ではなかった。ピアノ独奏曲は《主題と変奏》,各13曲のショパン風の曲名をもつ《夜想曲》《舟歌》など計約60,歌曲は歌曲集中の小曲も個々に数えて約100,室内楽曲10,器楽小曲12,オペラ2,管弦楽曲および管弦楽組曲8(未刊も含む),レクイエム大小2曲,その他である。このうち1860年代に書き始めて一生書きついだのが,歌曲とピアノ曲である。弦楽器群あるいは弦とピアノのための室内楽曲も,初期の《バイオリン・ソナタ第1番イ長調》(1876)から絶筆まで,各時期にわたっているが,ここでは《バイオリン・ソナタ第2番ホ短調》(1916)以後合わせて6曲を,晩年にかためて書いているのが注目される。この二つのバイオリン・ソナタを比べれば,《イ長調ソナタ》は甘美ですらある若々しくのびやかな抒情の魅惑,古典派ソナタにのっとった明快なかたちをもち,一方,《ホ短調ソナタ》は,ときに厳しい力をみなぎらせこそすれ,ほとんど感覚への愛撫を拒むかのような姿勢,大胆な半音階的和声,書式の錯綜した対位法,再現部にまで展開が執拗に繰り延ばされる形態とを特徴とする。その差異が二つのソナタの間に流れたフォーレの40年余をもののみごとに反映していると言えるだろう。こうした差異は歌曲,ピアノ曲にも認められる。ただしこれらでは,形態の複雑化でなしに,むしろ簡素・凝縮に向かい抑制のきいた筆触によりながら,しかも感動を赤裸々に示す傾向が,際だつ。しかもどのジャンルにも共通するのは,つねに内省的な抒情家であるフォーレが,年齢を加えるにしたがって,ときにおそれすら感じさせるほど,その内省を深めていったことであろう。
歌曲について特に付け加えれば,《漁師の歌》(詩T. ゴーティエ),《夢のあとに》(R. ビュシーヌ),《イスファハーンのばら》(C.M. ルコント・ド・リール)など初期の作品には,ロマン派,高踏派の詩によったものが多いが,やがて《月の光》(1887)でのベルレーヌとの出会いが転機をよび,抒情の相を一新させて,ベルレーヌによる歌曲集《五つの歌曲》(1891),とりわけ《優しい歌》(1894)で円熟の頂点に達する。そして象徴詩を手がけ,さらには若い詩人の詩にも作曲することになる(たとえばJ.deラ・ビル・ド・ミルモンによる歌曲集《幻の水平線》1921)。この間に彼の歌曲(メロディ)はドイツ歌曲(リート)の影響を大きく抜け出て,ドビュッシーの歌曲ともども,フランス歌曲をリートに勝るとも劣らぬものとしたのであった。
執筆者:平島 正郎
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フランスの作曲家、教育者、オルガン奏者。スペインに近い南フランスの町パミエの教育者の家に生まれ、早くから音楽の才能を示した。9歳からパリのニデルメイエール音楽学校に入学、11年間宗教音楽を中心に学ぶ。この間、サン・サーンスのピアノ・クラスでリスト、ワーグナーの音楽に接し、作曲に開眼した。1865年同校卒業後、レンヌのサン・ソブール教会を皮切りに、パリのいくつかのオルガン奏者を歴任し、77年にマドレーヌ教会の楽長、96年には同教会主席オルガン奏者となった。同じ96年からパリ音楽院の作曲法の教授となり、1905年から17年間、同院長を務めた。その80年近い生涯は、ドイツなどへの外国旅行のほかには波瀾(はらん)もない平穏なものであったが、後半生の20年間は、耳の疾患により聴力を失うという不幸のなかで教育と作曲活動に専念して、その名声にこたえた。とくに晩年の作品にみられる気品と深みをたたえた作風は、他の追随を許さない。1909年アカデミー会員となり、清貧のうちにパリに没。死にあたっては国葬が行われている。
フォーレの創作期は1865年(20歳)から1924年(79歳)までの59年に及ぶ。彼はロマン主義から世紀末のベル・エポック、ダダイスムなど、激動する芸術的潮流のなかにあって、一貫して叙情性の強く、完成度の高い独自の様式を貫き、声楽、ピアノ曲、室内楽の各分野で多くの秀作を残した。なかでも声楽曲がもっとも重要で、ロマン派の詩による『夢のあとに』(1865?)、『リディア』(1870?)など初期の歌曲、ベルレーヌの詩による『月の光』(1887)と『優(やさ)しい歌』(1892~94)、そして最晩年の『幻(まぼろし)の水平線』(1921)などによって、フランスのメロディ(リートの仏訳)は、ドイツ・リートに匹敵するものとなった。そのほかに、『レクイエム』(1887~88)、オペラ『ペネロープ』(1907~13)、多くのピアノ用の即興曲・夜想曲・前奏曲、ピアノ三重奏曲ニ短調(1922~23)、弦楽四重奏曲ホ短調(1923~24、絶筆)がある。
[船山信子]
『P・フォーレ・フルミエ著、藤原裕訳『フォーレ――その人と芸術』(1972・音楽之友社)』▽『E・ヴュイエルモーズ著、家里和夫訳『ガブリエル・フォーレ――人と作品』(1981・音楽之友社)』
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出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
…第3は,1660年より1760年に至るベルサイユ楽派の時代。そして第4は,フォーレ,ドビュッシー,ラベルを頂点にいただく1860年以後の1世紀である。これは一つの見方にすぎぬかもしれないが,フランス音楽がヨーロッパにあって最も古く輝かしい歴史を誇る音楽の一つであることは,語ってくれるだろう。…
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