第2次世界大戦当時の1945年7月、米英と中国(当時の中華民国)が日本に降伏を求めた宣言。8月にソ連も加わった。日本軍国主義者の除去や軍事占領、主権制限、戦争犯罪人の処罰などを明記しており、全13条。日本指導者が「世界征服」を狙っていたとの認識を示す記述もある。鈴木貫太郎内閣は当初、黙殺を決めたが、ソ連参戦や米軍による原爆投下で戦況が一段と悪化。昭和天皇が8月14日の御前会議で受け入れを決断し、正式決定した。翌15日、玉音放送で国民に終戦を告げた。
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アメリカ,イギリス,中国3国首脳により1945年7月26日に発表された日本に対する共同宣言。ベルリン郊外のポツダムで開かれたトルーマン・アメリカ大統領,チャーチル・イギリス首相,スターリン・ソ連首相による3国巨頭会談で決定されたのち,蔣介石中華民国総統の同意をえて米英中3国首脳の名で発表された。ソ連は日ソ中立条約が有効期間中であったため署名せず,45年8月8日の対日宣戦布告ののちこの宣言に署名した。ポツダム宣言は,カイロ宣言(カイロ会談,1943年11月27日)とヤルタ協定(1945年2月11日)につづき,連合国首脳が太平洋戦争の終結条件と戦後の対日処理方針を決定したもので,その大要は次のとおりであった。(1)日本軍国主義の駆逐および軍国主義指導者の権力と勢力の永久除去,(2)〈平和,安全及正義の新秩序〉が建設されるまでの連合国による日本占領,(3)日本国の主権の本州,北海道,九州,四国および連合国が決定する諸小島への制限,(4)日本国軍隊の完全武装解除と兵士の復員,(5)戦争犯罪人の処罰と日本国内における言論・宗教・思想の自由および基本的人権の尊重,(6)軍需生産の禁止,(7)前記諸目的が達成され,日本国民の自由意志による平和的政府が樹立された後における占領軍の撤退,(8)日本国軍隊の無条件降伏。
7月28日軍部主戦派の圧力に屈した鈴木貫太郎首相が,この宣言を〈黙殺〉すると言明したため,アメリカはそれを口実に広島と長崎へ原子爆弾を投下し,ソ連の参戦を経たのちの8月14日,日本は御前会議における天皇の〈聖断〉によりポツダム宣言の受諾を決定した。敗戦後における日本の民主的改革は,ポツダム宣言の精神に基づいて実施されたが,連合国の日本占領がアメリカによる事実上の単独占領となり,1946年3月チャーチルの〈鉄のカーテン〉演説を契機に米ソの冷戦が激化するなかで,ポツダム宣言の精神はしだいに歪曲され,日本の民主化は貫徹されずに終わった。
執筆者:木坂 順一郎
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1945年(昭和20)7月に開かれたポツダム会談で協議されたうえ、同年7月26日、米英中三国政府首脳の連名で日本に対して発せられた降伏勧告の宣言。この宣言は全部で13項からなり、日本がこのまま戦争を継続すれば日本の国土は完全に荒廃してしまうこと(3項)、いまや日本は壊滅への道を続けるかそれとも理性の道を歩むかを決定すべきであること(4項)を述べ、連合国が要求する戦争終結の条件として次のものを掲げている。(1)軍国主義の除去、(2)日本国領土の占領、(3)カイロ宣言の条項の履行、および本州、北海道、九州、四国および連合国が決定する諸小島への日本の主権の制限、(4)日本国軍隊の完全な武装解除、(5)戦争犯罪人に対する厳重な処罰、ならびに民主主義の確立、(6)賠償の実施と平和産業の確保。またこの宣言は、以上の諸目的が達成され、日本国民の自由に表明された意思に従って平和的な傾向をもった責任ある政府が樹立された場合には、ただちに占領軍を撤収することを明らかにしている(12項)。
ポツダム宣言が発せられるや、日本政府および軍の首脳の間では、それを受諾すべきか否かにつき深刻な討論が闘わされた。日本政府はいったんは拒否を通告したものの、広島や長崎への原爆投下(8月6日、8月9日)、ソ連の対日参戦(8月8日)とますます絶望的な状況へ追いやられたため、ついに受諾するに至った。8月14日、日本政府は宣言の受諾を決定し、同日夜、終戦の詔勅が発せられた。
[深谷満雄]
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1945年7月中旬から開かれたポツダム会談開催中の7月26日に発せられた米英中3国の宣言。日本に対する戦争終結の諸条件が決定され,中国の同意を得て発表された(8月ヤルタ協定に従って対日参戦したソ連も宣言に参加)。日本の軍国主義者と戦争指導勢力の除去,日本の軍事占領,日本の主権を本州,北海道,四国,九州と連合国の決定する島嶼に限ること,戦争犯罪人の処罰,日本の民主化に対する障害の除去,実物賠償の取立て,軍需産業の禁止などの諸条件をあげ,これらの目的が達成されれば占領軍は撤去する,と宣言。日本は45年8月10日この宣言の受諾を申し入れ,同月14日無条件降伏し,第二次世界大戦は終結した。
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1945年(昭和20)7月26日ポツダム会談開催中に,米・英・中3国が発した対日降伏勧告。米・英・ソ3国首脳が決定,中国の蒋介石(しょうかいせき)総統の同意を得て米・英・中3国の名で発表され,ソ連は8月8日対日宣戦布告と同時に参加した。全13条。第6条以下の日本の降伏条件は,軍国主義の除去,保障占領,カイロ宣言の履行,日本の主権の本土4島への制限,軍隊の完全な武装解除,戦争犯罪人の処罰などであった。7月28日鈴木貫太郎内閣は,軍部の圧力により「黙殺」するとの声明を出したため,連合国側は拒否とうけとり,原爆が投下され,ソ連も参戦。その結果,8月14日の御前会議で日本は宣言の無条件受諾を決定した。
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…しかしこの不介入の態度はけっして絶対的なものでなく,輔弼機関そのものが破壊されたり輔弼機関が決定をなしえない場合には天皇がみずから判断を下すとされた。二・二六事件に際し岡田啓介首相の生死不明のとき,終始叛乱軍の討伐を主張したのは前者の例であり,太平洋戦争終結へ向けて45年8月のポツダム宣言受諾に積極的にイニシアティブを発揮したのは後者の例である,と天皇みずからは説明している。こうした立憲君主制観はしかし,明治憲法体系下の独特のものであり,そこでは例えば,国務についての国務大臣の輔弼と軍事についての参謀部の輔翼とは同列のものと考えられていた。…
…ドイツに対する勝利ののち,アメリカの求めで,ソ連はヤルタ協定(ヤルタ会談)に基づいて,ヨーロッパから軍を東へ送り,8月8日日本に宣戦布告し,満州(中国東北)の関東軍を攻撃した。これによって日本をポツダム宣言受諾に追い込んだのである。
[戦後スターリン期]
戦後には,領土を拡大し,かつ東ヨーロッパ諸国と北朝鮮を自らの勢力圏に収めたソ連は,アメリカと並ぶ強国として,国際政治に重きをなした。…
…
【ドイツ民主共和国の成立】
1945年5月ドイツの敗北によってナチス独裁体制が崩壊したのち,ソ連占領地区では,ドイツ社会民主党と,新たに生まれたキリスト教民主同盟,ドイツ自由民主党の諸党が,ドイツ共産党の主導下に同年7月反ファッショ・民主ブロックを結成し,当面,ファシズム,軍国主義および帝国主義を根絶するための反ファッショ・民主主義的変革をめざした。同年7~8月に開かれた米英ソ3大国首脳によるポツダム会談は,ドイツの非軍国主義化,非ナチ化および民主化を骨子とする連合国の対ドイツ政策の大綱を決定した(ポツダム宣言)。この決定をよりどころとして,ソ連占領軍当局の積極的な支援のもと反ファッショ・民主ブロックの諸党は,同年秋,大地主や戦争犯罪人,ナチ積極分子の土地所有を解体し,土地を貧農・農業労働者に分配する土地改革を実施した。…
…(6)日本近代法史は,敗戦によってその幕を閉じた。1945年8月14日のポツダム宣言の受諾から,52年4月28日の対日講和条約,日米安全保障条約の発効に至る時期は,近代法体制から現代法体制へと移行する過渡期である。この時期は,連合国による占領と,対日占領政策により戦前の法体制を変革するいわゆる戦後改革とによって特色づけられる。…
※「ポツダム宣言」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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