メディチ家(読み)メディチケ

デジタル大辞泉 「メディチ家」の意味・読み・例文・類語

メディチ‐け【メディチ家】

Mediciルネサンス期のフィレンツェの名家。14世紀に東方貿易金融業で富をなして台頭。15世紀にはコジモがフィレンツェの事実上支配者となり、その孫ロレンツォはフィレンツェへの富の集中と文芸の保護に努めた。のち、ローマ教皇やフランス王妃を輩出し、トスカーナ大公となったが、1737年に断絶した。

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精選版 日本国語大辞典 「メディチ家」の意味・読み・例文・類語

メディチ‐け【メディチ家】

  1. ( メディチはMedici ) イタリアのフィレンツェの名家。大金融業者、商人。のち一門から君主・教皇などを出した。一三世紀末から東方貿易と金融業で産をなし、一五世紀コジモ=メディチは町の政権を握り、ロレンツォ=メディチはルネサンス型君主としてフィレンツェの繁栄をもたらし、その弟は教皇レオ一〇世となった。

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改訂新版 世界大百科事典 「メディチ家」の意味・わかりやすい解説

メディチ家 (メディチけ)

15~18世紀にフィレンツェを中心に栄えたイタリアの財閥。ルネサンス芸術の保護者の家系としても知られる。メディチ家繁栄の基礎を置いたのはジョバンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチGiovanni di Bicci de'Mediciで,彼は銀行を興し,教皇庁との商取引をてこにこれを一流に育てた。しかしメディチ家がフィレンツェに君臨するのは次のコジモ(C.de'メディチ)の代で,コジモはアビニョン,ロンドンなど国外に多くの支店を出し,政治状況を積極的に利用して莫大な富を築き,メディチ銀行はヨーロッパ屈指の大銀行に成長した。同時にコジモはフィレンツェの事実上の支配者にのし上がり,隠然たる力を振るった。その子ピエロは短命であったが,コジモの孫ロレンツォ・イル・マニフィコ(L.de'メディチ)は指導者にふさわしい人物で,内外で実質的に君主と目され,メディチ家の権勢と栄華は頂点をきわめる。事実この時代,イタリア半島の平和は彼の外交手腕によって維持されたといわれる。また祖父コジモと彼がルネサンス芸術・文化の保護者として果たした役割もきわめて大きい。しかし,ロレンツォは銀行の経営には無関心で,一家の繁栄の経済的基盤は揺らぎ始めていた。

 その長男ピエロ2世Piero Ⅱ de'M.は政治家の資質と人間的魅力をも欠く人物であった。また当時はサボナローラの舌鋒が市民間に反メディチの空気をあおり立てていた時期でもあり,ナポリ征服に南下したフランス王シャルル8世に対するピエロの卑屈な態度に憤激した市民は,1494年11月,メディチ家を追放する。1512年,カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の後ろ楯により,ロレンツォの次男枢機卿のジョバンニGiovanni de' M.がフィレンツェに入城,メディチ家の復帰は成るが,このためフィレンツェは長らくスペインの勢力下に置かれる。翌13年,彼が教皇レオ10世となったため,追放されたピエロの子ロレンツォ2世Lorenzo II de'M.が,次いでイル・マニフィコの甥で枢機卿のジュリオGiulio de' M.が当主の座に就くが,この地位は親メディチの寡頭市民グループに支えられた。なおこのジュリオの尽力でフランス王家に嫁ぎ,妃となったカトリーヌ・ド・メディシスと,後代,アンリ4世妃となったマリアという,2人のフランス王妃をメディチ家は出している。ジュリオがクレメンス7世として教皇位に就くと,ロレンツォの子アレッサンドロAlessandro de' M.に家督が譲られる。暴君で残忍な彼は,27年市を放逐されるが,またもやカール5世の後押しで復帰し,32年フィレンツェ公に叙される。こうしてメディチ家は名実ともにフィレンツェのシニョーレシニョリーア制)となり,伝統ある共和制は終息する。しかし37年,アレッサンドロは一族のロレンツィーノの手で暗殺され,コジモの家系のメディチ家は断絶し,公位はコジモの弟ロレンツォの家系に移る。

 2代目のフィレンツェ公コジモ1世Cosimo Ⅰ de' M.は猜疑心が強く恐怖政治を行うが,卓抜な政治力を発揮してスペインからの独立と領土拡大に成功し,行政・司法機構の統一・整備など近代国家づくりを強力に推進する。商才にも恵まれ,メディチ銀行の経営と公国の財政を立て直し,他方バザーリチェリーニなどおおぜいの芸術家を保護した。69年,公国はトスカナ大公国に昇格するが,後継者フランチェスコ1世Francesco Ⅰ de' M.は化学・物理にしか興味がなく,その治世下で財政は乱れ,国力は著しく低下する。次代のフェルディナンド1世Ferdinando Ⅰ de' M.は進歩的政策をとり,税制改革,農業商業の振興に努め,大公国は自由と活気を取り戻し,その存在はヨーロッパ列強の一つと認められた。しかし,これはメディチ家の栄光の最後の輝きであった。以降,この一家には為政者としての能力と責任感の欠如した,偏執狂的性格の持主で,むしろ科学に強い興味を示す人物が多い。コジモ2世は政務を放擲し,この代でメディチ銀行も閉鎖をみる。次代のフェルディナンド2世,その子コジモ3世も政治に無関心で,国庫を濫費,保守反動の支配を許したし,また最後のトスカナ大公ジャン・ガストーネGian Gastone de' M.の桁はずれの奇行はまさに末期的状況の象徴であった。1737年,かれは世継ぎを残さずに死去し,メディチ家は断絶する。
執筆者:

メディチ家第2代当主コジモはニッコロ・ニッコリやポッジョ・ブラッチョリーニらの収書活動に援助を与え,また彼らの協力を得てギリシア・ローマ古典や教父著作の古写本を自らも買い集めたが,ニッコリが死ぬと,彼が遺贈した収書を基に自らの蔵書の一部も加えて1447年サン・マルコ修道院内に図書室を開設し,一般に公開して利用に供した。収書熱は息子のピエロをはじめとする後代にも引き継がれ,とくに第3代当主ロレンツォはラスカリスに委嘱して旧ビザンティン帝国領内に散在するギリシア古典写本を系統的に集めさせた。こうして収集された写本のうち貴重なものは,サン・マルコ図書室の蔵書とは別に非公開の蔵書として自邸内にとどめられたが,フィチーノやポリツィアーノらメディチ家出入りの人文主義者には自由に貸し与えられ,古典研究に益した。94年メディチ家の支配体制が崩壊すると,これら2系統の蔵書群はサン・マルコ修道院にまとめて置かれ,一部は略奪に遭ったものの,ロレンツォの次男である教皇レオ10世の努力でかろうじて散逸を免れ,次いで同じくメディチ家出身の教皇クレメンス7世は同家ゆかりのサン・ロレンツォ修道院内にこの貴重な蔵書群を収める図書館をミケランジェロに設計させた。図書館はトスカナ大公コジモ1世の代になって1571年に完成・公開された。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「メディチ家」の解説

メディチ家(メディチけ)
Medici

フィレンツェの大金融業者,商人,のち君主。フィレンツェ近郊のムジェッロの出身。商業で富を得て,13世紀末頃フィレンツェに移住。まずシルヴェストロ(1311~88)がチォンピの乱の頃,小市民の側に立って政治に活躍。ついで別家系のジョヴァンニ(1360~1429)が金融業で富を得て,旧財閥に対抗して政界に進出し,メディチ家興隆の基礎を築いた。その子コージモとコージモの孫ロレンツォは市政に君臨し,フィレンツェの黄金時代を現出した。ロレンツォの子ピエーロ(1472~1503)のときに市から一時追放されたが,1512年ピエーロの子ロレンツォ2世(1492~1519)のときに復帰。27年に共和政が成立して再び追放されたが,31年ロレンツォ2世の子アレッサンドロ(1510~37)がカール5世の支持を得て復帰し,フィレンツェ公となった。彼の死後,コージモ(イル・ヴェッキオ)の弟の系統のコージモ1世(1519~74)が公位を継ぎ,69年にトスカーナ大公となる。18世紀半ばジャン・ガストーネ(1671~1737)で同家は断絶した。その間,教皇を二人(クレメンス7世レオ10世),フランス王妃二人(アンリ2世妃カトリーヌアンリ4世妃マリ)を輩出した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「メディチ家」の解説

メディチ家
メディチけ
Medici

イタリアの金融業者で,フィレンツェ共和国・トスカナ公国の支配者の家系
ジョバンニ(1360〜1429)のとき,市民階級の支持を集め,商業で得た巨利を背景に都市の政権を握った。その子コシモ(1389〜1464)のとき,銀行頭取とフィレンツェ共和国の国家元首の地位を得,孫のロレンツォ(1449〜92)は独裁的君主となり,内政・外交両面にわたってフィレンツェ市の繁栄をもたらし,文芸保護に力を注いだ。その次男がローマ教皇レオ10世。またローマ教皇クレメンス7世やフランス王アンリ2世の妃カトリーヌも一門の出身。その後,1737年の大公ガストーネの死去により廃絶した。

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世界大百科事典(旧版)内のメディチ家の言及

【イタリア音楽】より

…ルネサンス期に他の諸分野において,イタリア人の活躍がどれほどいちじるしかったかを考えると,音楽の創作の不振の理由を説明するのは困難である。1500年前後のイタリア人の創作としては,マントバ(ゴンザーガ家),フェラーラ(エステ家),フィレンツェ(メディチ家)における,フロットラ(世俗歌)やカント・カルナシャレスコ(謝肉祭の歌)などの創作が目だっている。01年にベネチアの印刷業者のペトルッチが《オデカトン(百の歌の意)》と名づけて出版した多声音楽の曲集は,印刷譜の最初のものとされている。…

【ウフィツィ美術館】より

…イタリアのフィレンツェにある美術館。建物はメディチ家のコジモ1世がトスカナ大公国の主要な13の政庁を統合する庁舎の目的で1560年にバザーリに命じて着工させたもので,アルノ川を越えてパラッツォ・ピッティに至る歩廊も加えて,80年に建築家で彫刻家のブオンタレンティBernardo Buontalenti(1536‐1608)らが完成。翌年にフランチェスコ1世は,それまでにメディチ家が収集した美術品を展示するために,3階建ての最上階を美術館にした。…

【寡頭制】より

…アリストテレスも,寡頭制を単に少数者による支配であるとする見解をしりぞけて,富裕者が支配権を握っている場合を寡頭制と呼んでいる。歴史的には,ルネサンス期のフィレンツェにおけるメディチ家の支配が名高いが,現実政治において,単一の支配者以外のすべての人々が政治権力から排除されることや,逆に,政治社会の構成員すべてが,政治決定に実質的に関与することはありえないとするならば,人類史上ほとんどすべての政治体制は寡頭制であるということもできよう。また,ドイツの社会学者ミヘルスRobert Michels(1876‐1936)は,国家に限らず,会社,政党など,あらゆる組織において,権力が少数者の手に集中していく傾向を描き出し,これを〈少数支配の鉄則〉と呼んでいる。…

【宮廷文学】より

…同時に誇張した儀礼的賛辞と,矜持(きようじ)と卑屈が微妙に混在する姿勢が彼らの多くの作品を特徴づけることにもなる。ルネサンス期イタリアの名家も文人庇護で知られ,ポリツィアーノやベンボを擁したメディチ家,アリオストやタッソを庇護したエステ家の例は,イギリス,フランス,スペイン,ポルトガルの王侯貴族が見習うところとなった。しかしこれらは17世紀フランスのルイ14世の宮廷に比べれば,擬似的宮廷にすぎない。…

【グイッチャルディーニ】より

…イタリア,フィレンツェの名門に生まれた法律家,政治家,歴史家。その一生は,メディチ家を中心としてめまぐるしく変わった,当時の政情によって彩られている。1494年のメディチ家追放後の共和政下にあって,彼は体制に批判的なグループの後押しで政界に登場した。…

【コスマスとダミアヌス】より

…赤く長いガウンと帽子をつけた医師の服装で,手には薬箱や外科用器具,乳鉢,乳棒などを持つ。メディチ家(メディチは医師の意)の守護聖人で,同家にはコジモ(コスマスのイタリア語名)を名のるものが多く,同家ゆかりの美術作品にもしばしば登場する。また,フランスで14世紀初めに公認された理髪外科医の同業者組合は,〈サン・コームSaint‐Côme(聖コスマス)〉と名のった(大革命期に廃止)。…

【シニョリーア制】より

…なかでもビスコンティ家は1329年以降皇帝代官の称号を得て,15世紀初頭には北イタリアを統一する勢いを示した。一方,1434年にフィレンツェの実権を握ったメディチ家は,コムーネの伝統が強固であるために,シニョーレを名のらず,陰の支配者にとどまった。また,都市貴族(大商人)層の強固な支配が確立していたベネチアでは,ついにシニョリーア制が成立しなかった。…

【トスカナ[州]】より

…これ以降,トスカナの歴史はフィレンツェの歴史と重なり合うことになる。
[メディチ家の支配]
 15世紀はルネサンスの世紀であった。1434年にフィレンツェの事実上の支配者となったメディチ家のもとで,トスカナはルネサンス文化の中心として,イタリアの内外に大きな影響を及ぼした。…

【トスカナ大公国】より

…1569年から1860年まで,イタリア中部トスカナ地方にあった大公国。その歴史は1569年,メディチ家のコジモ1世が大公に叙された年に始まる。彼は行政・法律面で統一のとれた国家の建設に努力し,ついでフェルディナンド1世の下で税制改革が行われ,商業・農業が発展して,大公国は繁栄するが,以後国力は衰微の一途をたどった。…

【フィレンツェ】より

…新しい教会やパラッツォの建築が行われ,中世以来の細い曲りくねった道が改修され,都市景観のうえでも大きな変化が生じた。1492年にロレンツォが死去し,94年にフランス王シャルル8世が南下すると,市民はメディチ家を追放しサボナローラを精神的指導者とする共和政が成立した。しかしサボナローラは98年に処刑され,都市政治はきわめて不安定となった。…

【ボボリ庭園】より

…フィレンツェのパラッツォ・ピッティPalazzo Pittiに付属する庭園。16世紀半ば,このパラッツォ(館)がメディチ家のものとなったとき,コジモ1世の妃エレオノーラがトリボロ,アンマナーティらに命じて造らせた。その後ブオンタレンティらも協力したが,主庭園に広大な叢林(ボスコ)が付属する現在見るような庭のすがたが完成したのは17世紀に入ってのことである。…

【マキアベリ】より

…それとともに彼は政治の問題を外交,軍事の方向から考察するようになる。1512年共和国がメディチ家によって打倒されると,マキアベリは危険人物として職を追われ,フィレンツェ郊外に隠棲を余儀なくされた。有名な《君主論》(1532)をはじめ,《リウィウス論》(1531),《マンドラゴラ》(1524)などの作品はこの不遇の時期に執筆された。…

※「メディチ家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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