ロラン(読み)ろらん(英語表記)Claude Lorrain

デジタル大辞泉 「ロラン」の意味・読み・例文・類語

ロラン(Romain Rolland)

[1866~1944]フランスの小説家・劇作家・批評家。人道主義理想主義の立場に立った作品を書くとともに、反戦平和運動を推進。1915年ノーベル文学賞受賞。小説「ジャン=クリストフ」「魅せられた魂」、戯曲「愛と死との戯れ」、伝記「ベートーベンの生涯」、評論「戦いを超えて」など。

ロラン(Claude Lorrain)

[1600~1682]フランスの画家。生涯の大半をローマで送る。宗教的主題をもつ風景画を制作、外光と大気の微妙な変化を巧みに表現し、のちの風景画家に大きな影響を与えた。

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精選版 日本国語大辞典 「ロラン」の意味・読み・例文・類語

ロラン

  1. [ 一 ] ( Claude Lorrain クロード━ ) フランスの画家。その生涯の大半をローマで過ごし、宗教的・歴史的人物を点景として配した風景画を制作。その様式は、フランス、イギリスのその後の風景画に大きな影響を与えた。(一六〇〇‐八二
  2. [ 二 ] ( Romain Rolland ロマン━ ) フランスの小説家、思想家。トルストイの思想的影響の下に出発、人類への愛、理想主義の信念に基づき、創作や平和運動に活躍した。ベートーベンの研究もある。代表作は「ジャン=クリストフ」「魅せられたる魂」。一九一五年ノーベル文学賞受賞。(一八六六‐一九四四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロラン」の意味・わかりやすい解説

ロラン(Romain Rolland)
ろらん
Romain Rolland
(1866―1944)

フランスの小説家、劇作家、評論家。1月29日、ブルゴーニュ地方クラムシーの豊かな共和派の公証人の家に生まれる。1880年、一家はロマンの教育のためパリに移る。ルイ・ル・グラン高等中学校(リセ)を経て、高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)を卒業。学生時代、シェークスピア、ベートーベン、スピノザに傾倒、とくにトルストイには手紙まで書き、その返事にみられた人類愛を説く思想に深い感銘を受ける。1889年歴史学教授資格を取得、2年間ローマに留学し、古文書の調査にあたる。他方、ルネサンス期のイタリアに触れるとともに、ニーチェやワーグナーと交友のあったドイツの老婦人マルビーダ・フォン・マイゼンブークMalwida von Meysenbugを知り、理想を貫く偉人の魂を教えられる。

[中條 忍]

理想像を求めて

帰国後、1892年にクロチルド・ブレアルClotilde Bréalと結婚、しかし8年余で離婚。1895年『近代叙情劇の起源』(主論文)で文学博士となり、母校とパリ大学でおもに音楽史を担当(1904~1912)。演劇誌、音楽誌の編集にも参加、このころから創作を始める。当初から社会主義、革命主義に関心を寄せるが、その基底をなすものは激しく燃える人類愛。のちに「信仰の悲劇」としてまとめられる『聖王ルイ』(1897)、『アエルト』(1898)には、すでにこの特色がみられる。「革命劇」に収録される『狼(おおかみ)』(1898)、『ダントン』(1900)、『7月14日』(1902)も同様の特色をもつ。1903年、『民衆演劇論』を世に問い、今日の国立民衆劇場(TNP(テーエヌペー))への道を開いた。このころ、ペギーの『半月手帖(はんげつてちょう)』Cahier de la Quinzaine誌に関係、息詰まる世界に英雄たちの息吹を吹き込もうと、『ベートーベンの生涯』(1903)を同誌に発表、このあと一連の英雄伝『ミケランジェロの生涯』(1906)、『トルストイの生涯』(1911)が続く。『ありし日の音楽家たち』(1908)、『ヘンデル』(1910)もこのころの作品。1904年以来『半月手帖』誌に書き続けてきた大河小説roman-fleuve『ジャン・クリストフ』を1912年10月に全巻脱稿、翌1913年にアカデミー文学大賞を受ける。この作品を博愛・自由・独立を求める1人の男の生成史とすれば、未婚の母を主人公にした中期の大河小説『魅せられたる魂』(1922~1933)はその女性版といえる。

[中條 忍]

闘争の歳月

1914年、スイス旅行中第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)にあい、ドイツに対する憎悪の感情と偏狭な愛国主義の旋風のさなか、絶対平和主義の立場を堅持、そのため親独的との非難を浴び、スイスに亡命、ジュネーブの国際赤十字捕虜情報局で働き、反戦を呼びかける。1916年、前年のノーベル文学賞を授与されるが、賞金を国際赤十字などに寄付。「理解と愛」を標榜(ひょうぼう)する平和主義の理念を、論文集『戦乱を越えて』(1915)、『先駆者たち』(1919)、反戦小説『クレランボー』(1920)、『ピエールとリュース』(1920)などに結実させる。一方、反戦風刺劇『リリュウ』(1919)、陽気な田園小説『コラ・ブルニョン』(1919)を発表、ロランの別な一面をのぞかせる。

 1922年からスイスに定住、ロシア革命とインドの神秘思想、無抵抗主義へ傾斜を強める。その軌跡は、自由と平等に関するバルビュスとの論争、「ヨーロッパという祖国」を理想とする雑誌『ヨーロッパ』(1922創刊)への協力、ガンディー、タゴール、ネルーらとの交友のほか、『マハトマ・ガンジー』(1923)、『ラーマクリシュナの生涯』(1929)、『ビベーカーナンダの生涯』(1930)などの作品を通してたどることができる。この間、「革命劇」の系列に入る『愛と死との戯れ』(1925)、『獅子(しし)座の流星群』(1928)、『ロベスピエール』(1939)を執筆。そのかたわら、反ファシズム運動を展開。アムステルダム国際大会議長、国際反ファシスト委員会名誉総裁を務め、1936年にはスペイン人民戦線への共感を示す。1933年、同年発足したヒトラー内閣から贈られたドイツのゲーテ賞を頑として拒否。1935年には当時のソ連を訪問、同年『闘争の15年』『革命によって平和を』を刊行している。しかし、あくまで共産主義のシンパにとどまり、党員にはならなかった。

[中條 忍]

内省の地ベズレー

私生活では10年来親交のあった亡命ロシア婦人マリMarieと1934年に再婚、1938年故郷に近いベズレーに移る。この隠棲(いんせい)の地で、一連のベートーベン研究、つまり既刊の『エロイカからアパショナータまで』(1928)、『ゲーテとベートーベン』(1930)、『復活の歌』(1937)に加え、『第九交響楽』(1943)、『最後の四重奏』(1943)、さらに死後出版の『劇ハ終ワリヌ』(1945)、『ベートーベンの恋人たち』(1949)を執筆。1944年、ヨーロッパの良心のために闘い第一次世界大戦で戦死した盟友の伝記『ペギー』の校正を病床で終える。その印刷が終わったのを知り同年12月30日ベズレーで永眠。理想を貫くために闘い通したロランの思想と生涯は『内面の旅路』(1942)をはじめとする日記、書簡、回想録などによって明らかにされつつある。

[中條 忍]

『片山敏彦・宮本正清他訳『ロマン・ロラン全集』第三次・全43巻(1979~85・みすず書房)』『蛯原徳夫著『ロマン・ロラン研究』(1967・アポロン社)』『新村猛著『ロマン・ロラン』(岩波新書)』『S・ツワイク著、大久保和郎訳『ロマン・ロラン』上下(1951・慶友社)』


ロラン(Claude Lorrain)
ろらん
Claude Lorrain
(1600―1682)

フランスの風景画家。本名ジュレClaude Gellée。ロレーヌ地方のシャマーニュに生まれる。12歳ないし20歳でローマに移り、画家アゴスティーノ・タッシAgostino Tassi(1578― 1644)のもとで修業する。その後2年間ロレーヌに戻ったほかは生涯のほとんどをローマに住んで同地に没し、17世紀フランスの代表的画家としてN.プサンとしばしば比肩される。ロランは北方からローマにきていたブリルPaul Bril(1554―1626)、エルスハイマーらの風景画に強い影響を受けて出発したが、ローマ郊外やナポリ湾などの風景を土台にした雄大かつ牧歌的な理想的風景画を多く描き、30歳代なかばには名声を確立した。早くから偽作に悩まされ、自ら自作をスケッチで記録した。これが今日『真実の書』(大英博物館)とよばれるものである。彼の生き生きとした自然の光、大気の描写は、イギリスのJ.M.W.ターナーコンスタブルら近代の画家にも大きな影響を与えた。代表作に『港、聖ウルスラの乗船』(1641、ロンドン、ナショナル・ギャラリー)があり、東京にある『踊るサテュロスとニンフのいる風景』(1646、国立西洋美術館)も秀作である。

[宮崎克己]


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改訂新版 世界大百科事典 「ロラン」の意味・わかりやすい解説

ロラン
Claude Lorrain
生没年:1600-82

プッサンと並んで,フランス17世紀の古典主義風景画を完成した画家。別名クロード・ジュレClaude Gellée。後代のターナーや,イギリス・ロマン派,印象派に多大な影響を与えた。ナンシー近く,シャマーニュの農家に生まれた。1612年に木彫家の兄に従ってドイツのフライブルクに出る。13年ころローマに赴き,風景画家タッシAgostino Tassi(1580-1644)のもとで,ついでナポリのドイツ人画家ワルスGoffredo Waelsのもとで,それぞれ絵画の手ほどきをうける。25年ナンシーにもどり,カルメル会教会のフレスコ画を手がけ,27年ふたたびローマにもどった後は,ここに定住。33年アカデミア・サン・ルカの会員となり,教皇ウルバヌス8世,スペインのフェリペ4世ら多くの顧客にめぐまれた。作風は,まずタッシの影響からはじまり,ナポリ時代に,その風光明美な港湾の姿に強い印象をうけ,これがその後一生,彼の風景画を支配することとなる。後期マニエリスムの画家A.エルスハイマーやP.ブリルのスタイルが,彼の建築モティーフの表現方法に反映している。40-60年代には,古典古代の神話主題や宗教上の主題を,ローマ近郊でのデッサンを基礎にして,豊かな自然感情をおりこんで描出し,成熟期を迎える。当時のローマでは,北方オランダの風景画とは異なった,量塊性の強い重厚な自然の再現が好まれた(プッサンやS. ローザがその代表)。プッサンと比べて,ロランの作品は,空の広がりと海上に照りはえる太陽の光に特色がある。36年以降,自作をデッサン化して収録した目録《真理の書》を残している。
風景画
執筆者:


ロラン
Romain Rolland
生没年:1866-1944

フランスの作家。ブルゴーニュ地方,クラムシーの中産階級の旧家に生まれる。エコール・ノルマルで歴史学を専攻。《リュリとスカルラッティ以前のヨーロッパ・オペラの歴史》(1895)で文学博士号を取得。母校で芸術史を,次いでパリ大学で音楽史を教えた。文壇へは《狼》(1898),《ダントン》(1900),《7月14日》(1902)などの史劇作品でデビューしたが,これらの〈民衆演劇〉の試みは成功しなかった。〈英雄とは思想や力で勝利した者ではなく,心によって偉大であった者のことである〉という人道主義的ヒロイズム観に立って《ベートーベン》(1903),《ミケランジェロ》(1906),《トルストイ》(1911)など一連の伝記を著した。またインド思想への共感から《ガンディー》(1923),《ラーマクリシュナ》(1929)なども書いた。しかし,ロランの最高の作品は大河小説のさきがけとなった《ジャン・クリストフ》10巻(1904-12)である。ひとりの天才的作曲家の生涯を描きつつ,創造力と真摯,勇気,熱誠,そして人間愛をうたいあげた。第1次大戦中,中立国スイスにあって,真理と正義と愛の名において反戦平和を説いた諸論文は《戦火を越えてAu-dessus de la mêlée》(1915)にまとめられた。大戦後,とりわけ30年代には反戦反ファシズムの立場からソビエト社会主義への傾斜を深めたが,このような思想遍歴は小説《クレランボー》(1920),《魅せられたる魂L'âme enchantée》(1922-33)のうちにたどることができる。1916年ノーベル文学賞受賞。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「ロラン」の意味・わかりやすい解説

ロラン

フランスの作家。高等師範学校,パリ大学で音楽史を教えながら文筆活動に入る。初めは戯曲で《ダントン》(1900年)ほかの革命劇など。演劇は力と光明を与える娯楽とする考え方は《民衆演劇論》にまとめられた。《ベートーベンの生涯》(1903年),《ミケランジェロの生涯》などで偉大な精神の持主を描き,魂の英雄主義を掲げる。この思想から長編《ジャン・クリストフ》を書き作家としての地位も確立する。論文《戦いを越えて》(1915年)以後,反ファシズム,反戦の立場を明確にし,ソビエト社会主義に傾斜。長編《魅せられた魂》(1922年―1933年)では女性を主人公にしつつロシア革命とインドの無抵抗主義に同時にひかれる作者の思想的立場が語られる。この時期に《愛と死の戯れ》などの革命劇,インド思想に共感し《ガンディー》やヒンドゥー教研究書などを書いた。その後,《ベートーベン,偉大な創造の時期》(1928年―1945年刊)を完成させた。1915年ノーベル文学賞。
→関連項目ジューブ人文主義新村猛豊島与志雄ヘッセ

ロラン

フランスの風景画家。シャンパーニュ地方シャアーニュ生れ。本名クロード・ジュレ。若くしてローマに行き風景画家アゴスティーノ・タッシ〔1565-1644〕に学び,一時フランスに帰ったが,1627年以後ローマに定住。歴史や神話に取材した壮大な構図の作品が多く,風景の光の微妙な効果や大気の表現にすぐれた。プッサンとともにフランス古典主義絵画を代表し,19世紀の英国風景画に影響を与えた。代表作に《クレオパトラの上陸》(1642年,ルーブル美術館蔵),《シバの女王の乗船》(1648年,ロンドン,ナショナル・ギャラリー蔵)などがある。
→関連項目エルスハイマーコンスタブルターナーベルネ

ロラン

フランスの上流夫人。典型的なパリのブルジョア家庭の出身で,豊かな才能に恵まれプルタルコスやルソーに心酔。自宅に開いたサロンには多くのジロンド派の人びとが集まり,政治的影響力が大きかった。1793年山岳派により死刑。夫のJean-Marie Roland〔1734-1793〕はジロンド派内閣内相,国民公会議員。妻の処刑を知って自殺。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロラン」の意味・わかりやすい解説

ロラン
Rolland, Romain

[生]1866.1.29. ニエーブル,クラムシー
[没]1944.12.30. ヨンヌ,ベズレー
フランスの小説家,劇作家。エコール・ノルマル・シュペリュール (高等師範学校) に学ぶ。民衆劇の理想を掲げて『7月 14日』 Le Quatorze-Juillet (1902) などの歴史劇を書いたのち,『ベートーベンの生涯』 Vie de Beethoven (03) などの理想を追求してやまぬ天才たちの伝記を発表,ある音楽家の生涯を描く大河小説『ジャン=クリストフ』 Jean-Christophe (04~12) によって世界的な名声を得た。ドイツ文化に深い理解を示し,第1次世界大戦に際しては,国際主義の立場からフランス,ドイツ両国の偏狭な愛国主義を批判する『戦いを超えて』 Au-dessus de la mêlée (15) を発表,波紋を投げた。ほかに,ラブレー的な闊達さを示す小説『コラ・ブルニョン』 Colas Breugnon (19) ,大作『魅せられたる魂』L'Âme enchantée (7巻,22~33) などがある。 1915年ノーベル文学賞受賞。

ロラン
Lorrain, Claude

[生]1600. シャンパーニュ
[没]1682.11.23. ローマ
フランスで生れローマで活躍した画家。本名 Claude Gellée。ル・ローランまたはクロードとも呼ばれる。菓子職人の見習いとして 1613年ローマにおもむき,A.タッシの影響で画家に転向。一時帰国したこともあるが,27年以来ローマに定住。 P.ブリルや N.プーサンの影響を受け,明るい色調の風景画を描いて,教皇ウルバヌス8世に認められた。小川や海辺の前景,中景,後景にある光の微妙な変化を観察し,古典建築の簡潔な構成を画面に配して,聖書や神話に取材した風景画を得意とした。 19世紀の外光派の先駆的存在。油彩のほか銅版画も制作。主要作品『カンポバッチーノ港の暁』 (1636,ルーブル美術館) ,『シバの女王の船出』 (48,ロンドン,ナショナル・ギャラリー) など。なお自作をスケッチした6冊の画帳『リーベル・ベリタティス』 (44頃) がある。

ロラン
LORAN; long range navigation

パルス電波を利用する双曲線航法の一種で,広く現用されている長距離電波航法方式。「2定点からのパルス電波の到達時間差が一定となる点の軌跡は双曲線となる」という原理を利用するもので,たとえば,ロラン電波を発するA,Bの2局があって,A局を主局,B局を従局 (普通 300海里,約 556km離れて設置) とすれば,これを組局とし,受信機でその組局のパルスの時間差からロラン表またはロラン図を用いて海図上に位置の線としての双曲線がただ1本決定され,他の組局からのロラン位置の線が得られると,それらの交点として船位が求められる。第2次世界大戦で実用化され,戦後は太平洋と大西洋にロラン設備が完備。日本では海上保安庁が落石,大釜崎,波崎,八丈島,松前,新潟,米子,対馬,鹿児島の野間池,宮古島,慶佐次などにロランA局を設置し,漁船などにも利用されるようになった。 1750~1950kHzの周波数帯を用い,有効範囲は昼間 700海里,夜間 1400海里とされる。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ロラン」の解説

ロラン
Romain Rolland

1866~1944

『ジャン・クリストフ』ほか多数の小説,戯曲などで知られるフランスの作家。第一次世界大戦中はスイスから平和を訴え,大戦後は反戦,反ファシズム運動の先頭に立った。

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世界大百科事典(旧版)内のロランの言及

【フランス美術】より

…人間の心の微妙なゆらめきを,ひめやかな絹の手触りと薄暮の田園の哀愁をこめて描き出した洗練の極致ともいうべきワトーの作品を思い出してみれば,このことはおのずから明らかであろう。落日の一瞬の輝きを反射する水面の変化を捉えたクロード・ロランの海景や,あるいは大気と光の移り変りをそのまま画面に定着しようとした印象派の鋭敏な感覚も,その例証である。
[堅実な現実感覚]
 さらに,フランス美術の第4の特質として,その堅実な現実感覚を挙げなければならない。…

【ジャン・クリストフ】より

…フランスの作家R.ロランの長編小説。全10巻。…

【反ファシズム】より

…日独伊三国軍事同盟締結と大政翼賛会,大日本産業報国会の結成は,40年のことであったが,このときにはすでに反ファシズムの組織と言論は皆無に近かった。【鈴木 正節】
【国際的な反ファシズム文化運動】
 国際的な反ファシズム文化運動の先駆としては,反戦を掲げてロマン・ロランとバルビュスが呼びかけ,ゴーリキー,アインシュタイン,ドライサー,ドス・パソスらが発起人に名を連ねる,1932年8月アムステルダムの国際反戦大会に29ヵ国2200名を集め,翌年パリで第2回大会を開催した〈アムステルダム・プレイエル運動〉,フランスの急進社会党代議士ベルジュリが主唱し,J.R.ブロック,ビルドラックらの協力した33年5月結成の〈反ファシズム共同戦線〉,ジッド,マルローらによる〈革命作家芸術家協会〉の33年における反ファシズム運動などがあげられる。しかし,それが政治的立場を超えた知識人の統一運動として定着するのは,34年の2月6日事件をまたなければならない。…

【マイゼンブーク】より

…52年逮捕をのがれてイギリスへ亡命し,家庭教師として生計を立てるかたわら,ゲルツェンをはじめとする多数の亡命革命家たちと交際する。62年イギリスを去り,パリへ赴き,さらに晩年はイタリアに居住し,それらの地でR.ワーグナー,ニーチェ,ロマン・ロランらと親交,とりわけロランの若き日に多大な影響を与えた。自叙伝《一理想主義者の回想》(1876)ならびにロランとの往復書簡がとくに有名である。…

※「ロラン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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