フランスの小説家、劇作家、評論家。1月29日、ブルゴーニュ地方クラムシーの豊かな共和派の公証人の家に生まれる。1880年、一家はロマンの教育のためパリに移る。ルイ・ル・グラン高等中学校(リセ)を経て、高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)を卒業。学生時代、シェークスピア、ベートーベン、スピノザに傾倒、とくにトルストイには手紙まで書き、その返事にみられた人類愛を説く思想に深い感銘を受ける。1889年歴史学教授資格を取得、2年間ローマに留学し、古文書の調査にあたる。他方、ルネサンス期のイタリアに触れるとともに、ニーチェやワーグナーと交友のあったドイツの老婦人マルビーダ・フォン・マイゼンブークMalwida von Meysenbugを知り、理想を貫く偉人の魂を教えられる。
[中條 忍]
帰国後、1892年にクロチルド・ブレアルClotilde Bréalと結婚、しかし8年余で離婚。1895年『近代叙情劇の起源』(主論文)で文学博士となり、母校とパリ大学でおもに音楽史を担当(1904~1912)。演劇誌、音楽誌の編集にも参加、このころから創作を始める。当初から社会主義、革命主義に関心を寄せるが、その基底をなすものは激しく燃える人類愛。のちに「信仰の悲劇」としてまとめられる『聖王ルイ』(1897)、『アエルト』(1898)には、すでにこの特色がみられる。「革命劇」に収録される『狼(おおかみ)』(1898)、『ダントン』(1900)、『7月14日』(1902)も同様の特色をもつ。1903年、『民衆演劇論』を世に問い、今日の国立民衆劇場(TNP(テーエヌペー))への道を開いた。このころ、ペギーの『半月手帖(はんげつてちょう)』Cahier de la Quinzaine誌に関係、息詰まる世界に英雄たちの息吹を吹き込もうと、『ベートーベンの生涯』(1903)を同誌に発表、このあと一連の英雄伝『ミケランジェロの生涯』(1906)、『トルストイの生涯』(1911)が続く。『ありし日の音楽家たち』(1908)、『ヘンデル』(1910)もこのころの作品。1904年以来『半月手帖』誌に書き続けてきた大河小説roman-fleuve『ジャン・クリストフ』を1912年10月に全巻脱稿、翌1913年にアカデミー文学大賞を受ける。この作品を博愛・自由・独立を求める1人の男の生成史とすれば、未婚の母を主人公にした中期の大河小説『魅せられたる魂』(1922~1933)はその女性版といえる。
[中條 忍]
1914年、スイス旅行中第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)にあい、ドイツに対する憎悪の感情と偏狭な愛国主義の旋風のさなか、絶対平和主義の立場を堅持、そのため親独的との非難を浴び、スイスに亡命、ジュネーブの国際赤十字捕虜情報局で働き、反戦を呼びかける。1916年、前年のノーベル文学賞を授与されるが、賞金を国際赤十字などに寄付。「理解と愛」を標榜(ひょうぼう)する平和主義の理念を、論文集『戦乱を越えて』(1915)、『先駆者たち』(1919)、反戦小説『クレランボー』(1920)、『ピエールとリュース』(1920)などに結実させる。一方、反戦風刺劇『リリュウ』(1919)、陽気な田園小説『コラ・ブルニョン』(1919)を発表、ロランの別な一面をのぞかせる。
1922年からスイスに定住、ロシア革命とインドの神秘思想、無抵抗主義へ傾斜を強める。その軌跡は、自由と平等に関するバルビュスとの論争、「ヨーロッパという祖国」を理想とする雑誌『ヨーロッパ』(1922創刊)への協力、ガンディー、タゴール、ネルーらとの交友のほか、『マハトマ・ガンジー』(1923)、『ラーマクリシュナの生涯』(1929)、『ビベーカーナンダの生涯』(1930)などの作品を通してたどることができる。この間、「革命劇」の系列に入る『愛と死との戯れ』(1925)、『獅子(しし)座の流星群』(1928)、『ロベスピエール』(1939)を執筆。そのかたわら、反ファシズム運動を展開。アムステルダム国際大会議長、国際反ファシスト委員会名誉総裁を務め、1936年にはスペイン人民戦線への共感を示す。1933年、同年発足したヒトラー内閣から贈られたドイツのゲーテ賞を頑として拒否。1935年には当時のソ連を訪問、同年『闘争の15年』『革命によって平和を』を刊行している。しかし、あくまで共産主義のシンパにとどまり、党員にはならなかった。
[中條 忍]
私生活では10年来親交のあった亡命ロシア婦人マリMarieと1934年に再婚、1938年故郷に近いベズレーに移る。この隠棲(いんせい)の地で、一連のベートーベン研究、つまり既刊の『エロイカからアパショナータまで』(1928)、『ゲーテとベートーベン』(1930)、『復活の歌』(1937)に加え、『第九交響楽』(1943)、『最後の四重奏』(1943)、さらに死後出版の『劇ハ終ワリヌ』(1945)、『ベートーベンの恋人たち』(1949)を執筆。1944年、ヨーロッパの良心のために闘い第一次世界大戦で戦死した盟友の伝記『ペギー』の校正を病床で終える。その印刷が終わったのを知り同年12月30日ベズレーで永眠。理想を貫くために闘い通したロランの思想と生涯は『内面の旅路』(1942)をはじめとする日記、書簡、回想録などによって明らかにされつつある。
[中條 忍]
『片山敏彦・宮本正清他訳『ロマン・ロラン全集』第三次・全43巻(1979~85・みすず書房)』▽『蛯原徳夫著『ロマン・ロラン研究』(1967・アポロン社)』▽『新村猛著『ロマン・ロラン』(岩波新書)』▽『S・ツワイク著、大久保和郎訳『ロマン・ロラン』上下(1951・慶友社)』
フランスの風景画家。本名ジュレClaude Gellée。ロレーヌ地方のシャマーニュに生まれる。12歳ないし20歳でローマに移り、画家アゴスティーノ・タッシAgostino Tassi(1578― 1644)のもとで修業する。その後2年間ロレーヌに戻ったほかは生涯のほとんどをローマに住んで同地に没し、17世紀フランスの代表的画家としてN.プサンとしばしば比肩される。ロランは北方からローマにきていたブリルPaul Bril(1554―1626)、エルスハイマーらの風景画に強い影響を受けて出発したが、ローマ郊外やナポリ湾などの風景を土台にした雄大かつ牧歌的な理想的風景画を多く描き、30歳代なかばには名声を確立した。早くから偽作に悩まされ、自ら自作をスケッチで記録した。これが今日『真実の書』(大英博物館)とよばれるものである。彼の生き生きとした自然の光、大気の描写は、イギリスのJ.M.W.ターナー、コンスタブルら近代の画家にも大きな影響を与えた。代表作に『港、聖ウルスラの乗船』(1641、ロンドン、ナショナル・ギャラリー)があり、東京にある『踊るサテュロスとニンフのいる風景』(1646、国立西洋美術館)も秀作である。
[宮崎克己]
プッサンと並んで,フランス17世紀の古典主義風景画を完成した画家。別名クロード・ジュレClaude Gellée。後代のターナーや,イギリス・ロマン派,印象派に多大な影響を与えた。ナンシー近く,シャマーニュの農家に生まれた。1612年に木彫家の兄に従ってドイツのフライブルクに出る。13年ころローマに赴き,風景画家タッシAgostino Tassi(1580-1644)のもとで,ついでナポリのドイツ人画家ワルスGoffredo Waelsのもとで,それぞれ絵画の手ほどきをうける。25年ナンシーにもどり,カルメル会教会のフレスコ画を手がけ,27年ふたたびローマにもどった後は,ここに定住。33年アカデミア・サン・ルカの会員となり,教皇ウルバヌス8世,スペインのフェリペ4世ら多くの顧客にめぐまれた。作風は,まずタッシの影響からはじまり,ナポリ時代に,その風光明美な港湾の姿に強い印象をうけ,これがその後一生,彼の風景画を支配することとなる。後期マニエリスムの画家A.エルスハイマーやP.ブリルのスタイルが,彼の建築モティーフの表現方法に反映している。40-60年代には,古典古代の神話主題や宗教上の主題を,ローマ近郊でのデッサンを基礎にして,豊かな自然感情をおりこんで描出し,成熟期を迎える。当時のローマでは,北方オランダの風景画とは異なった,量塊性の強い重厚な自然の再現が好まれた(プッサンやS. ローザがその代表)。プッサンと比べて,ロランの作品は,空の広がりと海上に照りはえる太陽の光に特色がある。36年以降,自作をデッサン化して収録した目録《真理の書》を残している。
→風景画
執筆者:木村 三郎
フランスの作家。ブルゴーニュ地方,クラムシーの中産階級の旧家に生まれる。エコール・ノルマルで歴史学を専攻。《リュリとスカルラッティ以前のヨーロッパ・オペラの歴史》(1895)で文学博士号を取得。母校で芸術史を,次いでパリ大学で音楽史を教えた。文壇へは《狼》(1898),《ダントン》(1900),《7月14日》(1902)などの史劇作品でデビューしたが,これらの〈民衆演劇〉の試みは成功しなかった。〈英雄とは思想や力で勝利した者ではなく,心によって偉大であった者のことである〉という人道主義的ヒロイズム観に立って《ベートーベン》(1903),《ミケランジェロ》(1906),《トルストイ》(1911)など一連の伝記を著した。またインド思想への共感から《ガンディー》(1923),《ラーマクリシュナ》(1929)なども書いた。しかし,ロランの最高の作品は大河小説のさきがけとなった《ジャン・クリストフ》10巻(1904-12)である。ひとりの天才的作曲家の生涯を描きつつ,創造力と真摯,勇気,熱誠,そして人間愛をうたいあげた。第1次大戦中,中立国スイスにあって,真理と正義と愛の名において反戦平和を説いた諸論文は《戦火を越えてAu-dessus de la mêlée》(1915)にまとめられた。大戦後,とりわけ30年代には反戦反ファシズムの立場からソビエト社会主義への傾斜を深めたが,このような思想遍歴は小説《クレランボー》(1920),《魅せられたる魂L'âme enchantée》(1922-33)のうちにたどることができる。1916年ノーベル文学賞受賞。
執筆者:加藤 晴久
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1866~1944
『ジャン・クリストフ』ほか多数の小説,戯曲などで知られるフランスの作家。第一次世界大戦中はスイスから平和を訴え,大戦後は反戦,反ファシズム運動の先頭に立った。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…基本的には,位置の線の双曲線は,二つの電波の発信局からの到達時間差によって得ることができるが,現在の主流は到達電波の位相差を利用したものである。具体的には,時間差によるロラン方式,位相差によるデッカ方式,オメガ方式,デクトラ方式,デルラック方式などがある(ロランC方式は時間差と位相差の両方を用いている)。デッカ方式による位置決定の概念図を図3に示す。…
…1904年,初めて電波が船舶への時報信号に使用されたが,その後,21年になって方向探知機が開発され,ここで初めて電波を利用して自分の位置が求められるようになった。さらにG.マルコーニが,電波の反射波により物体を検知できる可能性を示したことからパルス技術が進歩し,測位システムにも応用され,その結果42年北大西洋にロランA局が設置された。また軍用で研究開発が進められたレーダーも45年以後一般に使われるようになった。…
…人間の心の微妙なゆらめきを,ひめやかな絹の手触りと薄暮の田園の哀愁をこめて描き出した洗練の極致ともいうべきワトーの作品を思い出してみれば,このことはおのずから明らかであろう。落日の一瞬の輝きを反射する水面の変化を捉えたクロード・ロランの海景や,あるいは大気と光の移り変りをそのまま画面に定着しようとした印象派の鋭敏な感覚も,その例証である。
[堅実な現実感覚]
さらに,フランス美術の第4の特質として,その堅実な現実感覚を挙げなければならない。…
…フランスの作家R.ロランの長編小説。全10巻。…
…日独伊三国軍事同盟締結と大政翼賛会,大日本産業報国会の結成は,40年のことであったが,このときにはすでに反ファシズムの組織と言論は皆無に近かった。【鈴木 正節】
【国際的な反ファシズム文化運動】
国際的な反ファシズム文化運動の先駆としては,反戦を掲げてロマン・ロランとバルビュスが呼びかけ,ゴーリキー,アインシュタイン,ドライサー,ドス・パソスらが発起人に名を連ねる,1932年8月アムステルダムの国際反戦大会に29ヵ国2200名を集め,翌年パリで第2回大会を開催した〈アムステルダム・プレイエル運動〉,フランスの急進社会党代議士ベルジュリが主唱し,J.R.ブロック,ビルドラックらの協力した33年5月結成の〈反ファシズム共同戦線〉,ジッド,マルローらによる〈革命作家芸術家協会〉の33年における反ファシズム運動などがあげられる。しかし,それが政治的立場を超えた知識人の統一運動として定着するのは,34年の2月6日事件をまたなければならない。…
…52年逮捕をのがれてイギリスへ亡命し,家庭教師として生計を立てるかたわら,ゲルツェンをはじめとする多数の亡命革命家たちと交際する。62年イギリスを去り,パリへ赴き,さらに晩年はイタリアに居住し,それらの地でR.ワーグナー,ニーチェ,ロマン・ロランらと親交,とりわけロランの若き日に多大な影響を与えた。自叙伝《一理想主義者の回想》(1876)ならびにロランとの往復書簡がとくに有名である。…
※「ロラン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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