精選版 日本国語大辞典 「ワールブルク」の意味・読み・例文・類語
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
ドイツの美術史家。ユダヤ系の富裕な銀行家の家に生まれ,生地ハンブルクに美術史の文献を中心とした〈ワールブルク文庫〉を創設。文庫はナチスに追われて1934年ロンドンに移転,ロンドン大学付属ワールブルク研究所となる。彼は,当時全盛の様式批判による美術史に対して,作品の主題的側面が芸術家やパトロンたちにとって重要な意味を有していたことを,主としてイタリア初期ルネサンス美術の研究を通じて主張。その画期的なボッティチェリ論(1893)によって拓かれ,後にパノフスキー等の図像学(イコノロジー)として結晶した彼の美術史的方法の基本は,すでに文庫の構成に組み込まれており,現在の研究所に継承されている。ルネサンス美術史研究に,古典古代はもとより東洋美術への視点も取り入れた彼の視野の広さは,研究所の活動を通じて,美術史のみならず20世紀の文化史,哲学史研究などに多大の影響を及ぼした。なお,研究所所長をつとめたゴンブリッチによる伝記がある。また,銀行家のパウル・モーリッツは弟である。
執筆者:鈴木 杜幾子
アメリカのユダヤ系銀行家。1798年に設立されドイツの大銀行に発展したワールブルク商会を経営するワールブルク家の子としてハンブルクに生まれた。1894年から数年間は同社に参加したが,その後アメリカに渡り,1902年にニューヨークの銀行クーン・ローブ商会の社員,11年にアメリカ市民となった。彼はヨーロッパのような中央銀行をアメリカにも設置するように議会に働きかけたが,13年に制定された連邦準備法では,統一的な中央銀行は設立されなかった。14年から4年間,連邦準備制度理事会のメンバーを務めた。その後も,国際引受銀行International Acceptance Bankの会長のほか,信託会社,鉄道会社の重役を務めるかたわら,《連邦準備銀行制度》(1930)を著すなど精力的に活動し,アメリカの金融政策に大きな影響力をもった。
執筆者:新宅 純二郎
ドイツの生化学者。ベルリン大学,ハイデルベルク大学。E.フィッシャーから化学を,また物理学者であった父E.G.ワールブルクから物理学と光化学などを学ぶ。1914年カイザー・ウィルヘルム協会(後のマックス・プランク協会)の細胞生理学研究所所員,37年同研究所所長。彼の考案したワールブルク検圧計(1918)は,20世紀前半の生化学で広く用いられた。呼吸酵素(1920年代),トリホスホピリジンヌクレオチド(TPN,現在はニコチンアミドアデニンジヌクレオチドNADPと改称)の発見(1935)をはじめ,呼吸,解糖系,また光合成の生化学で業績を挙げた。腫瘍組織では解糖活性が高いとの理論を提唱した。1931年,呼吸酵素の研究業績に対してノーベル医学・生理学賞が与えられた。
執筆者:長野 敬
ドイツの物理学者。ハイデルベルク大学で物理学と化学を学び,ベルリン大学で学位を取得。1872年,新設されたカイザー・ウィルヘルム大学の臨時教授となり,A.クントとともに気体分子運動論に関する実験的研究を行う。76年から95年までフライブルク大学の物理学教授をつとめ,弾性余効の研究からJ.A.ユーイングとは独立に強磁性体のヒステリシスを実験的に見いだした。95年からはクントの後任としてベルリン大学の実験物理学の教授となり,多くの研究者を養成した。なお,生化学者のO.H.ワールブルクは息子。
執筆者:日野川 静枝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ドイツの生化学者.父はベルリン大学の物理学者E.G. Warburg.ベルリン大学,ハイデルベルク大学で化学を学び,E.H. Fischer(フィッシャー)のもとで学位を取得.その後,ハイデルベルク大学で医学も修めた.1914年カイザー・ウィルヘルム協会生物学研究所所員,1931年より新設の同細胞生理学研究所所長(戦後マックス・プランク協会細胞生理学研究所と改称)となる.ワールブルク圧力計を考案して細胞呼吸を研究した.1921年鉄による酵素活性化説を唱え,H.O. Wieland(ウィーラント)の水素活性化説や,D. Keilinのシトクロム説と論争し,のちの電子伝達系研究への道をひらいた.また,光合成の研究も行い,光量子収量を測定,1950年に1分子の酸素生成には,1光量子でよいとする説を唱えた.そのほか,がん細胞の代謝やアルコール発酵の研究,とくにトリホスホピリジンヌクレオチド(CoⅡ,NADP)の発見や,細胞呼吸で重要な役割を果たすフラビンモノヌクレオチド(FMN),フラビンアデニンジヌクレオチド(FAD)の発見など多くの業績を残す.細胞呼吸の研究に対し,1931年ノーベル生理学・医学賞を受賞した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
…他方,古代神話・寓意等キリスト教以外の図像についても近世以来一貫して研究が行われてきた。 現代の図像学の発端は,一般にA.ワールブルクが1912年に発表した15世紀イタリアの月暦画についての研究報告に認められている。ハンブルクに起こり,後にロンドンに移った彼の学派(ワールブルク研究所)から,優れた研究者が多数出たが(ゴンブリッチ,ザクスルF.Saxlなど),第2次大戦後の学界に決定的影響を与えたのはパノフスキーである。…
…こうした人間の原質を求める動きは,精神分析家にとどまらず,ワイマール文化を担った人々にみられる。ワールブルク研究所をつくったA.ワールブルクは,美術史から古代人のシンボル研究に向かったし,法制史家のバハオーフェンは考古学からシンボルの解読を通して母権制を発掘した。 かくてワイマールの思想は,人類学の視点を変えた。…
…ロンドン大学に所属する研究所で,とりわけルネサンス研究の面で名高い。ドイツの富裕な美術史家A.ワールブルクは,古代美術の伝統についてとくに関心を深め,これについての豊富な蔵書を備えた文庫を1905年ハンブルクにつくった。やがて友人ザクスルF.Saxlを管理責任者として研究所へと発展し(1921),パノフスキーやカッシーラーなどが同研究所に関係するようになって,ルネサンス研究の一大中心とみなされるようになった。…
…生体内においては,ピリジンヌクレオチドと並んで,多くの電子伝達系酵素反応に重要な役割を演じているが,中でもD‐アミノ酸酸化酵素,グルコースオキシダーゼ,各種酸素添加酵素の反応がよく知られている。もともと,ワールブルクO.Warburgらが酵母から分離した黄色酵素(1932)の補酵素としてFMNを発見したのにひき続き,1938年にD‐アミノ酸酸化酵素の補酵素としてFADが発見された。【徳重 正信】。…
…生体内においては,ピリジンヌクレオチドと並んで,多くの電子伝達系酵素反応に重要な役割を演じているが,中でもD‐アミノ酸酸化酵素,グルコースオキシダーゼ,各種酸素添加酵素の反応がよく知られている。もともと,ワールブルクO.Warburgらが酵母から分離した黄色酵素(1932)の補酵素としてFMNを発見したのにひき続き,1938年にD‐アミノ酸酸化酵素の補酵素としてFADが発見された。【徳重 正信】。…
※「ワールブルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
1/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
12/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/10 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新