一心寺(読み)いつしんじ

日本歴史地名大系 「一心寺」の解説

一心寺
いつしんじ

[現在地名]天王寺区逢阪二丁目

茶臼ちやうす山の北にあり、施餓鬼納骨骨仏の寺として全国的に知られる。浄土宗で坂松山高岳院と号し、本尊阿弥陀如来。古筆と伝える一心寺縁起(寺蔵)および「新撰往生伝」によると文治元年(一一八五)春、法然が四天王寺別当慈円の要請で、古来荒陵あらはかとよばれてきた四天王寺西門前の現在地に草庵を結び、「荒陵の新別所」と称して止住したのに始まる。後白河法皇は四天王寺参詣の途次この草庵を訪れ、法然とともに日想観の観法を修したという。江戸時代には寺伝に基づき法然上人遺跡二十五霊場の一に指定されている。


一心寺
いつしんじ

[現在地名]福山市寺町

寺町筋の南側、浄願じようがん寺の東にある。開山円誉(証阿祖応)西にし町に定福じようふく寺を建立後当寺を創建。円界山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来像は室町時代中期の作で、沼隈郡山南さんな(現沼隈町)の地頭桑田家伝来のものを同所護神ごしん寺に伝え、さらに当寺に祀るといい、同時代の木瓜形厨子に納められる。厨子内面には金地に観音菩薩勢至菩薩・善導大師・法然像が描かれる。


一心寺
いつしんじ

[現在地名]八開村赤目 南屋敷

国音山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼如来。明応九年(一五〇〇)横井掃部助時永の創建。時永はこの頃海東かいとう海西かいさい二郡を領知していた。当時は万福まんぷく寺と称し衰微していたが、寛永一七年(一六四〇)横井伊織助時安が再興造営し寺領五〇石を寄進した。

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改訂新版 世界大百科事典 「一心寺」の意味・わかりやすい解説

一心寺 (いっしんじ)

大阪市天王寺区にある浄土宗の寺。山号は坂松山。法然が1185年(文治1)慈円の請いを受け,四天王寺の西門辺,荒陵(あらはか)と呼ばれた現地に仏堂を建て,新別所と称したのに始まり,後白河法皇が四天王寺参詣の際,ここを訪れて法然と共に日想観を修したという。〈阿弥陀仏といふより外は津の国の難波の事もあしかりぬべし〉の歌はこの時法然が詠んだと伝える。近世初頭,本誉存牟(ほんよぞんむ)が法然の旧跡を慕い,千日の不断念仏を修して再興。1600年(慶長5)徳川家康の子仙千代の葬礼に存牟は導師を務め,15年大坂冬の陣で戦死した将士を埋葬し,寺基が固まった。1856年(安政3)から始まる施餓鬼(せがき)の法要は,納骨供養と相まって当寺の名を庶民の間で一躍高めた。特に宗派を問わず納められるお骨で10年に1度造る仏像〈骨仏〉への信仰は盛んで,彼岸には群衆が参詣する。また法然の遺跡25霊場の一つでもある。寺宝に一行一筆阿弥陀経がある。
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デジタル大辞泉プラス 「一心寺」の解説

一心寺

大阪府大阪市天王寺区、茶臼山の北に位置する寺院。浄土宗。1185年、法然上人の創建と伝わる。山号は坂松山、院号は高岳院。本尊は阿弥陀如来。大坂冬の陣(1614)の際には徳川家康が陣所とした。骨仏の寺として全国的に知られる。

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事典 日本の地域遺産 「一心寺」の解説

一心寺

(大阪府大阪市天王寺区逢坂2-8-69)
大阪市都市景観資源」指定の地域遺産。

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事典・日本の観光資源 「一心寺」の解説

一心寺(第30番)

(東京都品川区)
昭和新撰江戸三十三札所」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の一心寺の言及

【骨仏】より

…《看聞日記》によると室町初期の応永の飢饉による死骸の骨で六体の地蔵尊が造立されている。〈お骨仏の寺〉として知られる一心寺(大阪市天王寺区)では1887年に,1851年(嘉永4)以来同寺に納骨されたおよそ5万体の白骨を粉状に砕き布海苔(ふのり)を加えて阿弥陀尊像を練造したのが最初で,以後10年ごとの練造が内規として定められた。戦災で焼失,現在5体がまつられている。…

※「一心寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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