下新町(読み)しもしんまち

日本歴史地名大系 「下新町」の解説

下新町
しもしんまち

[現在地名]高山市大新町おおしんまち

江名子えなこ川の北、みや川の右岸に位置し、四町余の長い町域をもつ(寛政元年「高山三町村覚帳」高山市立郷土館蔵)二之町にのまち村に所属し、南は一之新いちのしん町・二之新町、東は三福寺さんふくじ村、北は松本まつもと村、西は宮川を挟んで七日町なぬかまち村。町名は高山町の最も川下手に新しく発達したことに由来すると思われる。元禄七年(一六九四)の検地によれば屋敷一町一反余・分米八石八斗余、屋敷持数・家数五〇(同八年「二之町村屋舗検地帳」同館蔵)。享保一〇年(一七二五)当町に在住する二一人の地役人の屋敷が各人の所有となり、石高が町に組入れられた。


下新町
しもしんまち

[現在地名]魚津市本町ほんまち二丁目

神明しんめい川左岸にあり、西は下猟師しもりようし町、南はおか町、東はてら町・餌指えさし町。北は神明川に架かる鬼江おにえ橋を渡って新下猟師町。魚津町の下口にあたり、一説に下猟師町の岡手にできたことから下新町と称されたという(魚津町誌)。吉野旧記(同町誌)によると、元禄一五年(一七〇二)の魚津大火の折に地内の浄土宗専光せんこう寺などとともに罹災しており、「四十五軒 下口」と記されるのが町立て以前の当町とみられる。町立て後は多くはないが上新町とともに新町役を納めていたらしい。漁業を行う者が多く、下猟師町とのかかわりが深かったため、台網などに協同で参加している。


下新町
しもしんまち

[現在地名]倉吉市新町しんまち一丁目

江戸期の町人町。西の中新町から東に延びる通りの両側町で、南はたま川を挟んで東仲ひがしなか町、東は研屋とぎや町、北を東流する鉢屋はちや川が限る。寛延(一七四八―五一)頃の倉吉絵図(県立博物館蔵)に町名がみえ、竈数は研屋町に含まれる。同絵図には研屋町との間に、倉吉陣屋前から北に延びる下の広しものひろ小路が描かれ、鉢屋川以北は細い通りとなっている。間口一間に対して運上銀五〇匁が課されており、慶応二年(一八六六)に六〇匁となった(倉吉市史)。明治初期に新町一丁目となった。


下新町
しもしんまち

[現在地名]水戸市城東じようとう三丁目・同五丁目・東桜川ひがしさくらがわ

とおり十町目から東北に向かい御中間おちゆうげん(細谷町)に至る町。東は細谷ほそや村・浜田はまだ村、北は細谷村。「水府地名考」に「此町開けしは、寛永二十年の比と見へたり、其已前は十町目末より蓮池町細谷元通町へ出て船渡を渡せしを当町を開かれ、奥州海道となし、船渡をも移しけり、新船渡と唱ふ、(中略)下新町の名、或は下の字を除て称し、又は新通り町なとゝも称せしと見ゆ」とある。


下新町
しもしんまち

[現在地名]函館市船見町ふなみちよう

明治五年(一八七二)二月に一町として公認された町で、一―二丁目があり、上新町の北東に位置する(同年「御達留」市立函館図書館蔵、「事業報告」第一編)。上新町と同様に、近世には山ノ上やまのうえ町・天神てんじん町の上(山側)に新しく開かれた当町などの町並は新町とよばれていた。明治六年の町名町域再整理の際に、上・下の新町を割き、両町の間に仲新なかしん町を設定したため、当町は神明横しんめいよこ町から北西の地をさすようになった(明治六年函館旧市街図など)


下新町
しもしんまち

[現在地名]福知山市字下新

西長町にしながまち上紺屋町かみこやまちの間にある南北に通る両側町で、南は職人町しよくにんまち通の南先より、北は広小路ひろこうじ手前までをいう。

有馬豊氏時代(慶長―元和)の福智山城之絵図にすでに下新町の名があり、稲葉紀通時代(寛永―正保)には(新町)しもまちとよばれたらしい。


下新町
しもしんまち

[現在地名]小矢部市新富町しんとみまち

中新町の東に続く北陸街道沿いの両側町。散町に属する。東隣の川原かわら町との境を十一じゆういつヶ用水が流れ、作左衛門さくざえもん橋が架かる(元禄一五年今石動町図)。北裏は畠中はたけなか村。寛保二年(一七四二)には宅地五九四歩で、地子米三石六斗七升(一歩につき六合一勺余)


下新町
しもしんまち

[現在地名]岐阜市下新町

大工だいく町の西に位置する東西に延びる両側町。岐阜町の西町口の一にあたり、町西端は南西流する長良川に突当たり、南に折れて鍛冶屋かじや町・くるまん町に至る南北の横町が延びる。岐阜町四四町の一で、織田信長による岐阜町建設のとき成立した新町のうち。承応町絵図に町名がみえ、長良川に突当って南に折れる横町に「馬出丁」とみえる。岐阜由緒書(小林文書)では地子免許地反別四反六畝余。「増補岐阜志略」によれば町の長さ九四間余、家数八〇。


下新町
したしんまち

[現在地名]八尾町下新町

いま町の北、井田いだ川と別荘べつそう川に挟まれて立地する。北は別荘川を隔てて川窪新かわくぼしん町。延宝五年(一六七七)桐山屋佐五右衛門・井浪屋権四郎・茗ヶ原弥兵衛の請願により、高のうち二二石を免八ツで永代請して町立てされた(「新町建てにつき願書」葛城家文書)


下新町
しもしんまち

[現在地名]角館町下新町

外町に属し、六郷ろくごう(現六郷町)に至る街道に沿い、南から下岩瀬しもいわせ町・下新町・岩瀬町と続く。東は給人町の菅沢すえざわ丁、西は往生おうじよう院。

宝永二年(一七〇五)の家数四七戸(角館誌)、享保八年(一七二三)には五三軒とあり、駅馬役負担の町である(「仙北郡郡村本村支村御高調帳」秋田県庁蔵)


下新町
しもしんまち

[現在地名]大館市十二所 十二所町

十二所じゆうにしよ町の西端部に位置する足軽町。幕末期の十二所士族屋敷図に「下新丁」とある。東西に走る道路沿いに形成され、東は谷地やち町に連なり、南はあら町と接する。東端部を南北に走る道路があり、北上して米代川沿いの鹿角かづの街道と交わる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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