改訂新版 世界大百科事典 「中国神話」の意味・わかりやすい解説
中国神話 (ちゅうごくしんわ)
Zhōng guó shén huà
神話はその民族と文化が形成される過程を自己認識する方法として生まれ,歴史時代に入るとともにその創造を停止する。それで神話が歴史と接続する時点で,神話の位相が定まるのである。たとえば国家成立期には国家神話,文化的連帯の成熟した地域では文化神話,その未成熟の地域では体系化以前の様態のままで残される。以上をかりにa,b,cとすると,中国神話はc形態のものである。殷王朝は古代王朝として一応神話の体系を成就したが,その滅亡によって伝承は失われ,これに代わった周はすでに歴史時代に入り,天の思想を国家理念とし,神話には合理的な解釈が加えられて経典化された。こうして神話は経典のなかに埋没して失われ,中国は神話なき国とされた。
その経典のなかに,埋没した神話を発掘してみせたのは,H.マスペロの《書経中の神話》(中国訳は馮阮君,1936)である。それで中国の神話研究には,経書の研究を欠くことはできない。
三つの洪水説話
広大な中国が統一される以前には,地域的にいくつかの先進文化の地帯があり,神話もその地域に生まれた。徐旭生はそれを華夏・東夷・苗蛮の3集団に分かち,それぞれの神話を,この3集団に帰属させようとする。考古学的にいえば,華夏は彩陶文化,東夷は竜山文化,大汶口(だいぶんこう)文化,苗蛮は屈家嶺や江南の諸文化にあたり,それぞれが対立する関係にある。また各地域においても,その内外に種々の葛藤(かつとう)があり,神話はその対立と闘争を通じて形成される。たとえば華夏と苗蛮,すなわち彩陶文化と屈家嶺文化の間には羌(きよう)系の勢力があり,その河漢の地には殷,のちには楚が進出してきて,その地の洪水説話は多様な様相を示している。禹(う)は夏系の洪水神である。その系列は顓頊(せんぎよく)にはじまり,鯀(こん)とその子禹につづくが,この3神の神像は魚,または人面魚身の神である。西安半坡(はんぱ)遺跡の彩陶土器はその文化のきわめて初期のものであるが,その画文に魚や人面魚身の像がみられ,鯀・禹の洪水説話が,夏系の古い伝承であることを示している。
姜姓と夏・苗
共工は羌系の洪水神で,夏系の禹と対立する神であった。夏系の顓頊と帝たることを争い,敗れて不周の山に頭を触れ,天が北西に傾いたという。その子后土は治水神であり,また土地の造成者でもあるから,禹に匹敵する神格である。共工の臣相柳(そうりゆう)は九首の竜で,そのゆくところは谷となり,血が流れて五穀生ぜず,禹に殺された。共工,后土,相柳はみな竜形蛇身の神で,夏系の魚形諸神の対立者であった。羌系の神々は,また苗系の神々と対立する。《書経》呂刑(りよけい)は姜姓呂国の神話を伝える文献である。姜姓四国は嶽神伯夷の子孫であるが,苗民が帝意に従わず,帝が伯夷に命じて刑典を作らせた次第をしるす。苗民が虐をなして神と人との世界が乱れ,帝は重黎に命じて天地を隔絶させるという天地開闢の説話がそこに語られるが,重黎は楚の祖先神とされるものである。すると羌・苗の闘争に,楚が介入したことが考えられよう。苗族はここでは邪悪なる異族とされている。しかし苗族の立場からいえば,共工こそ天地を傾けた大悪神であった。天が北西に傾き,欠漏が生じたところを,女媧(じよか)が五色の土で補修し,それが輝く星となった。女媧こそ救世の主であるが,この竜形の神にはまた人類初生の説話があり,伏羲(ふくぎ)と相交わる竜形の神である。伏羲,女媧にはまた洪水説話がある。天地をひたす大洪水のとき,この2神だけが瓠(こ)に乗って逃れ,人類の始祖となったという箱舟形式の説話である。三つの洪水説話は夏・羌・苗の3系に分れて語られているが,それはまたそれぞれの地域文化を代表している。殷が統一を成就したとき,この3地域にまで支配力を及ぼし,夏系の水神である河をまつり,羌族の祖神伯夷の本体である嶽(がく)をまつり,また江南には大鐃(だいどう)や湖南寧郷出土の四羊犠尊のような巨大な彝器(いき)を送って,その宗教的支配を行ったが,しかし彼らの神話を,その国家神話に受容することはなかった。神は異類を享(う)けず,他族の神話は,ここではただ河・嶽,すなわち山川の神として捨象されるのである。
殷の神話
殷が受容した洪水説話は,伊水の神伊尹(いいん)であった。伊尹はその母が大洪水を予知して逃れ,空桑(くうそう)に宿って伊尹を生んだという箱舟形式の説話をもつ。伊尹はその水神祭祀者の名であるが,殷の湯王をたすけて殷王朝を作り,その系譜のものは,殷の祖神と同じく歴世にわたってまつられている。殷の神話には,他の洪水神をすでに必要としていないのである。殷は夷系に属し,西北の諸族とも対立する関係にあった。殷の祖神王亥(おうがい)は,北方の有易(ゆうえき)(有狄(ゆうてき))に身を寄せて殺され,その子上甲微が河伯の力を借りてこれを滅ぼした。この方面には,軍神とされる蚩尤(しゆう)の説話も伝えられ,また夏と抗争した羿(げい)の話もある。この羿は,殷の十日説話とかかわりをもっている。天には十日があり,10人の神巫がそれぞれこれを司(つかさ)どったことが《山海経》にみえる。尭(ぎよう)のとき,誤って十日並び出で,地上は大旱(たいかん)におそわれたので,帝は羿に九日を射ちおとさせた。十日は十干で,旬(十日)をもって暦を構成する殷には重要な神話的事実であるから,羿は夷の別系の神であろう。殷の祖神は舜(しゆん)で,その妻羲和(ぎか)は十日,常羲(じようぎ)は十二月を生んだ。舜は太陽神で,四鳥を使って四方に帝意を伝えさせ,これを治めた。国家的支配を象徴する神話としては,これがはじめてである。殷王朝は日月山川,その他の自然的諸神をまつったが,これを系譜化し,体系化することはなかった。祖祭の体系がすでに成立しており,その五祀周祭とよばれる祭祀で,一年の暦日はみたされている。祖祭が一周することを一祀という。それはすでに歴史的時間である。
神話の経典化
殷に代わった周にとって,神話はあまり重要なものでなかった。貴族政治の体制がすでに確立し,祖祭は親族法的な秩序の基本としてのみ機能する。周の神話は,その始祖姜嫄(きようげん)の感生帝説話が詩篇に歌われているのみである。殷の子孫である宋でも,玄鳥説話をその頌詩(しようし)に歌ったが,それは沿海系の卵生説話に属し,殷の本来的なものであったかどうか明らかでない。ただ殷の先公王亥(おうがい)は,《山海経》大荒東経に〈両手に鳥を操(と)る〉とされ,卜辞では鳥形の下に亥をかく字形で,何らかのトーテム的信仰のあったことを示している。各地に伝えられた洪水神や天地造成神,自然神,諸族の英雄神,文化神などを系譜化する試みは,列国期に至って起こり,ことに歳星説や陰陽五行説などによって,最終的には黄帝を中心とする諸姓の系譜的統合が試みられた。それは大統一を志向する歴史の方向と一致するが,そのような作為的な整合のうちに経典をも含めることができる。経典の古い成立のものには,古伝承とその経典化の過程を考えうるものがある。たとえば《書経》呂刑では,皇帝が蚩尤(しゆう),有苗(ゆうびよう)をしりぞけ,伯夷に典刑を作らせ,禹,稷(しよく)に水土・農耕のことを命ずる。伯夷が三后の首におかれるのは,姜姓の伝承である。ところが〈尭典〉では,まず羲和を四方に配する記述があり,それは《山海経》にみえる四方風神の神話を経典化したものである。ついで三苗が四凶の一つとして追放され,四岳が輔弼(ほひつ)として推挙される。四岳は姜姓の諸侯である。また〈皋陶謨(こうようぼ)〉にも有苗の追放と,皋陶に象刑(しようけい)のことが命ぜられる。伯夷,皋陶,許由の夷,陶,由は同音で,この姜姓の祖神の神話が《書経》の諸篇に,古代聖賢の治政という形式で経典化されている。
禹と墨子学派
神話の伝承者を考える意味で,禹の経典化の過程をとりあげよう。儒家が尭・舜を称したように,禹をその思想の根拠としたのは墨子学派であった。この学派は古代の宮廟に属した百工の徒で,工作者の集団であり,職業神として禹を信仰したことが,《荘子》天下篇にみえる。禹がその形を労して治水につとめたことを規範とし,《孟子》尽心上にも,墨者が項(うなじ)を摩(へ)らして踵(かかと)に放(いた)るも,労を惜しまなかったことを述べる。この〈形体を失った聖者〉は,〈人面魚身にして足なし〉という禹の神像を思わせるが,《墨子》兼愛下,明鬼下に〈禹誓(うせい)〉,非命下に〈禹の総徳〉の名がみえ,これらは墨子学派のなかで成立した文献であり,いまの偽古文〈大禹謨(だいうぼ)〉はそこから出ている。墨家が禹を称道したのは,おそらく儒家が尭・舜を称するよりも前のことであろう。孔子が理想としたのは周公であり,周の礼楽文化であった。しかし墨家が禹を称すると,儒家はその上に尭・舜を加えた。のちその上に黄帝をおき,神々をすべて黄帝の系譜とする百家の言が起こったが,古い神々ほど,新しく上に重ねられる傾向をもつ。日本の富永仲基のいう〈加上説〉であり,中国の神話学の道をひらいた疑古派のいう〈古史累層造成説〉である。
神話学の方法
神話は古代史や経典と異なって,本来の文化のなかにあって実修的に伝承されることによってのみ,意味をもちうるものである。それで神話学は,つとめて後からの作為的な変改をただし,本来の形態を回復する作業から出発しなければならない。考古学の進展によって,先史文化の研究は,いま急速にその成果をあげつつある。また神話と文献とが並行する時代の資料である殷の甲骨文,周の青銅器銘文もその研究に参加すべきであり,たとえば黄帝が田斉(でんせい)の器の銘文に初めてみえることなども,黄帝説話の成立を考えるうえに,きわめて示唆的である。神話的資料を含む文献としては,《山海経》と《楚辞》天問篇とがもっとも貴重である。《山海経》では〈大荒四経〉と〈海内経〉とが古く,甲骨文や〈天問〉と符合するものが多い。神話をその思想表現の方法に用いることは《荘子》において著しく,そこにはほとんどの神名がみえる。荘子学派のうちには,古い宗教的伝統があったようである。《楚辞》天問篇に歌うところも,楚巫の伝えるところであった。列国期の末に,各地の巫祝が楚に移り,《楚辞》九歌には斉や晋の巫の奉ずる神々も歌われ,またその巫俗が生活化されて,江南の古墓からは,帛画(はくが)や図像など豊富な資料が出土している。中国神話の研究は,これらの諸分野にわたる資料と文献の再検討により,しだいにその原態を回復することができよう。
執筆者:白川 静
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報