五所神社(読み)ごしよじんじや

日本歴史地名大系 「五所神社」の解説

五所神社
ごしよじんじや

[現在地名]赤泊村下川茂

下川茂しもかわものほぼ中央、羽茂はもち川左岸の微高地にある。旧村社。祭神は天照大神・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・草葺不合尊。「佐渡国寺社境内案内帳」によると五社権現と称し、開基は文禄二年(一五九三)とある。社伝では加賀国金沢かなざわの人が神鏡五面を奉じて当地に至り、通称宮山みややまに社を建立したが、文治年間(一一八五―九〇)洪水のため流失し、現在地へ移ったという。

県指定無形民俗文化財の御田植神事は旧正月六日(現在は二月六日)を祭礼の初式と称し、氏子のうち宮方とよぶ七軒の家の当主が、田植の様子を模擬的に神前で演ずる。


五所神社
ごしよじんじや

[現在地名]下館市五所宮

五所長沼ごしよながぬま街道から森添島もりそえじまへ抜ける道筋にある。祭神は武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売命。旧郷社。

文治五年(一一八九)源頼朝の奥州征討に随従した伊佐為宗が、戦功により伊佐いさ三三郷を領有した時に勧請したといわれる(下館の文化財)。下館領内神社寺院并縁起旧跡(田宮家文書)には「往古下館城池は伊佐為宗之城也。伊佐三十三郷之民村にて、伊佐三十三郷之領主にて、五所の神霊を勧請奉る。祭は、今三十三郷之民村にて伊佐の祭礼と申て、毎年九月九日より十日まで神事仕候」と記されている。


五所神社
ごしよじんじや

[現在地名]鎌倉市材木座二丁目

来迎らいこう寺の南、低丘陵の西麓に位置する。祭神大山祇命・天照大御神・素盞嗚尊・建御名方命・崇徳院霊。例祭の七月七日に神輿の渡御がある。旧村社。大正二年(一九一三)神饌幣帛料供進神社に指定、乱橋材木座みだればしざいもくざの氏神社。前身乱橋村の鎮守三島神社で、明治四一年(一九〇八)七月、乱橋・材木座両村合併の際、乱橋の八雲やぐも神社・金比羅こんぴら宮および材木座村の諏訪すわ神社・見目みるめ社の四社と合祀し、同年一一月現在名に改称した。


五所神社
ごしよじんじや

[現在地名]蓮沼村イ

古くは五所大権現などと称し、祭神は大日貴尊・誉田別命・天児屋根命・表筒男命・素登織姫命。旧郷社。承安元年(一一七一)の創祀と伝え、文治五年(一一八九)に源頼朝の奥州平定を祈願したという。在地の遠山氏の寄進という永仁二年(一二九四)八月二二日銘の懸仏と、永禄二年(一五五九)銘の脇差がある。本殿は天正期(一五七三―九二)に下総網戸あじと(現旭市)城主木曾義純の援助により造営している。


五所神社
ごしよじんじや

[現在地名]相馬村五所 野沢

五所から水木在家みずきざいけへの道筋の傍らにある。祭神は久介迺智神で旧村社。勧請年代や由緒などは不詳。長利氏初代の清太夫から社司を勤め、村中安全と五穀成就のため隔年に神楽を行ってきた(「神社微細社司由緒調書上帳」最勝院蔵)。貞享四年(一六八七)検地帳によれば社地は二〇歩、堂は村中抱えになっていて、除地の指定を受けている。明暦期(一六五五―五八)・寛文期(一六六一―七三)・貞享期・寛延期(一七四八―五一)に岩木川の洪水によって流失し、奉遷・再祀を繰返した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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