井内村
いのうちむら
[現在地名]長岡京市井ノ内・西の京・滝ノ町
西山山塊のなだらかな丘陵部から小畑川に至る平地に位置する。南は今里村・粟生村、北は上里村(現京都市西京区)。井之内・井ノ内とも記す。村を囲む七つの清水があり、そのなかでは桑井が最も著名で、村名もこれより起こったという(京都府地誌)。
康永三年(一三四四)の寂照院仁王像胎内文書に「井内」の村名と、下部欠であるが現存部分で三三人の名が記される。「為二親三十三年忌□□逆修、尼善阿弥」と井内村の最初にある。安定した生活を営む村民がいたことを示すように思われる。同文書に、井内に続いて記す「野村」は井内村の一部。野村の部分も下部欠であるが現存部分で一一人を記し、うち右衛門次郎殿と殿を付された者がいる。
文明元年(一四六九)四月、東軍山名是豊勢が勝竜寺城を攻めたのに呼応して、野田泰忠ら西岡中脈の国人は、西軍の在所を攻撃し、上里・石見(現西京区)、井内館に放火し、向日河原で合戦した(文明六年三月日付「野田泰忠軍忠状」別本前田家文書)。
井内村
いうちむら
[現在地名]川内町井内
重信川上流の井内川流域の山村。標高五〇〇メートルくらいまで水田が開発され、階段状集落をなしている。川之内・則之内と同様に古代の遺跡はみられないが、南の井内峠を越えて現上浮穴郡久万町に通ずる道路があり、中世における攻防の要衝で、古城跡が散在する。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「井内村 林有、柴山有、小川有」とみえ、村高三五七石八斗五升、うち田二一〇石七斗、畑一四七石一斗五升とある。
井内村
いないむら
俎山を水源とする井川と大又沢・大菅生沢・小菅生沢の合流点に位置し、一帯は小盆地をなす。下流には大麦村があり、東部・南部は低丘陵地帯である。
天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「三百四拾五石三斗九升二合 いない村 うたミ村 大森村 とほら岡村 寺沢村 赤沢村」とある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に井内村三〇四石とあり、享保七年(一七二二)の秋田郡郡境本村支村御高共調帳(秋田県立博物館蔵)では本田当高二七九石一斗四升七合とみえ、蔵分・給分とも当高三六五石一斗一升四合となっている。
井内村
いないむら
新穂川左岸の東西に長い台地上にあり、南北両側に良田をもつ。元禄七年(一六九四)の検地帳(後藤与左衛門家蔵)では田一七町二反余・畑二町六反余、名請人三八人。地名は一〇九筆で、城の内・野城・野城畑などの地字があり、中世の城の存在を示す。同三年、村内の長百姓が村寄合の座順をめぐって争論となったが、惣百姓協議のもとで決着している(「長百姓座席争論取決証文」佐藤シズ氏蔵)。「佐州巡村記」では戸口は三七軒・一五〇人。上新穂村との組合郷蔵がある。寺社は八王子権現・薬師堂・神宮寺。用水は新穂川の水を引き、夜間の使用(夜の水)が慣例であったが、新穂ダム竣工後は昼の水に変わった。
井内村
いないむら
[現在地名]岡崎市井内町
占部川(用水)に沿った集落で、東は羽根村・針崎村、西は牧御堂村、北は上和田村、南は下和田村に接する。和田村の支村であるが、その時期については「天正年中ノ書ニ既ニ井内ト書セリ」(碧海郡六ッ美村郷土事蹟)とある。
戦国期、この地から久世・坂部の両族が出て松平氏に奉公し、久世広宣は長久手・小田原の役に戦功があって六千石を与えられた。寛文三年(一六六三)老中になり、さらに関宿(現千葉県)五万石に封ぜられた広之は広宣の三男である(岡崎市史)。
井内村
いうちむら
[現在地名]一宮町井内
揖保川の支流黒原川の中流域に位置し、南西は岸田村。慶長国絵図に「井ノ内」とみえる。領主の変遷は生栖村と同じ。正保郷帳に井内村とみえ、田方四九石余・畠方三八石余。下村氏手控帳(下村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には田二町六反余・畑四町五反余、家数八・人数四八、牛九、小物成は茶役一九匁余・桑役(真綿)五五〇匁余。元禄六年(一六九三)の宍粟郡村々反別郡玉帳(田路家文書)では小物成はほぼ同じで、鉄砲役銀は二匁余、鉄砲所有数は猟用三・威し用五・盗賊用一。
井内村
いないむら
[現在地名]紀宝町井内
平尾井村の南にある。中世は相野(大野)庄の内で新宮の熊野速玉大社の神領地であったと考えられる(紀伊続風土記)。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「井内村」、慶長検地高目録(和歌山県間藤氏蔵)に「稲井村」と記す。「紀伊続風土記」に「村中小き堰所々にあり、村名此より起れるなるへし」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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