日本の憲法は,国民がその生存を確保するために働くこと,および労働者として団結し,使用者と団体交渉を行い,それを有利に導くために争議行為などの団体行動を行うことを,国民の基本的権利として保障している。これらの労働権(憲法27条1項),団結権,団体交渉権および争議権(28条)を一括して労働基本権という。憲法が定める国民の基本的人権のうち財産権および思想・信条の自由,言論・表現の自由,結社の自由などのいわゆる自由権的基本権に対して,労働基本権に生存権を加えたものを生存権的基本権と呼ぶことがある。労働基本権は資本制経済の下で市民法体系が定めるこれらの自由,なかんずく所有権の絶対不可侵や契約の自由がまったく意味をもたない無産大衆の出現に伴い,これら労働力を売ること以外に生活手段を持たない人々の生存を確保するために認められるに至ったものであり,20世紀初頭にワイマール憲法が〈すべてのドイツ人民は経済的労働によりその生計を立てうる機会を与えられるであろう。適当な労働の機会が与えられない者にはその生計に必要な配慮がなされる〉(163条2項)と宣言し,さらに〈労働条件および経済条件の維持ないし改善のための結社の自由は何人に対しても,またいかなる職業に対しても,これを保障する。この自由を制限または妨害しようとする約定および処理はすべて違法である〉(159条)と定めたのを嚆矢(こうし)とする。
労働基本権は今日すべての国で保障されるべき基本的人権とされ,その旨は1948年に国連が採択した世界人権宣言(23条)および1966年の〈経済的,社会的及び文化的権利に関する国際規約〉(国際人権規約6~8条)にも明らかにされている。また国際労働機関(ILO)は労働基本権なかんずく団結権の保護の重要性にかんがみ〈結社の自由及び団結権の保護に関する条約(87号)〉を採択するとともに,この条約を批准していない国に対しても,労働者の団結権を保護するため〈結社の自由〉委員会による特別な救済制度を設けている。各国の憲法のうちなんらかの形で労働権の保障を宣言するものは多いが,他方,労働三権については日本のように団結権,団体交渉権,争議権のすべてを一体として保障する例はまれであり,大半は団体交渉権についてはふれず,また争議権と団結権をはっきり区別したうえで,単に労働者の団体を組織する権利を保障すると定め(西ドイツ憲法9条3項)あるいは,同盟罷業権についてはこれを規制する法律の範囲内で行使されると定める例(フランス憲法前文,イタリア憲法40条)が多い。
労働権は国に対する国民の具体的な請求権を意味するものではなく,したがってそれを保障することにより国は国民の労働権を実現するために必要な措置を講ずる政治的義務を負うにすぎない。各国における雇用政策が1960年代以降完全雇用を目ざした積極的なものに転換したことから,労働権の内容はあたかも雇用に関する国民の具体的な権利に変容したかのごとく見えるが,法律的には依然として一種のプログラム規定であることに変りはない。これに対して団結権,団体交渉権,争議権の保障(このいわゆる労働三権を労働権と切り離して労働基本権と呼ぶことが多い)はより積極的な意味・内容をもっている。第1に,これら三つの権利は相互に密接に関連しつつ労働者の生存を確保するという目的につかえている。したがって,これらの一部を欠く労働基本権の保障というのは特別な理由および特別な条件の下でしか許されない。第2に,労働基本権の保障は国における基本的な価値として公序を形成することになる。したがって,労働基本権を侵害しあるいはその保障の趣旨にもとるような行為は公序に反した無効なものとされ,その行為者はそれがもたらす損害を賠償する責任を負う。第3に,労働基本権の行使はつねに合法かつ正当なものとされ,したがって,その行為者はそれによって生ずるいっさいの責任を免れる。労働基本権保障の意味が以上にとどまらず,さらに団体交渉請求権とか団結妨害排除請求権といった具体的な行為を使用者に請求する権利を労働者に認めるものであるか否かについては考え方が対立している。
自由権的基本権は公共の福祉による制限を受けるが(憲法13条),労働基本権にはこのような制限はない。しかしながら第1に,労働基本権は国民の生存を確保するための基本的な手段としての権利であるから,当然そうした目的の範囲においてのみ権利として認められ,第2に,労働者を含む国民全体の利益と調和するように行使されなければならない。生存確保のために必要な範囲内といい,あるいは国民全体の利益との調和といっても,それが具体的にどの程度まで制限されうるかについては,労働基本権の構造をどのようにとらえるかによって変わってくる。すなわち労働基本権保障の意味が団体交渉を通じて労働者が経済的地位を向上させることにあるとすれば,団体交渉が意味をもたない労働者の争議行為が禁止されてもあながち不当な労働基本権の制限といえない。しかし団体交渉は単に労働者の団体行動の一つにしかすぎず,憲法の労働基本権の保障は労働者がその団結を背景としたあらゆる行動によってその生存を確保することを認めたものであるというように理解すれば,他の国民の生存を危うくするなどきわめて例外的な場合を除いては労働基本権を制限することは許されないことになる。最高裁判所は前者の立場を採るが(全農林警職法事件。1973年最高裁判所判決),これに反対する意見も多い。
執筆者:松田 保彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
労働者が人間らしい生活をするために必要不可欠の権利である、憲法第27条1項の勤労権(労働権)、同第28条の団結権、団体交渉権、団体行動権などの総称である。広義では労働権を含めたものをいい、狭義では団結権、団体交渉権、団体行動権の労働三権をいう。労働基本権は、一朝一夕に保障されたものでなく、労働者団結の長期でかつ粘り強い闘いによって確立してきたものである。
まず、国家権力との関係において、労働者の団体行動を解放しなければならなかった。かつては、労働者の団体行動は刑法などの法律で禁止されており、労働者の法違反の行動は刑事罰の対象となり、また弾圧の対象となった。この国家権力からの解放は、刑事上の責任から免れる、いわゆる刑事免責の形となって表れる。次に、使用者との関係において、争議行為などの団体行動は、債務不履行などの責任を追及されることになり、このことからの解放も必要であった。すなわち、労働者の団体行動がつねに損害賠償請求の対象となったり、解雇などの差別的取扱いを招くことになれば、安心して権利の行使ができないことになるので、このことからの解放も必要であった。したがって、使用者に対する団体行動は損害賠償の対象とならず、解雇などの不利益も受けないという民事免責の形となって表れてくる。
この労働基本権の確立、すなわち刑事・民事免責の確立は、世界史的にみると、19世紀初頭から20世紀初頭にかけてのことである。現行労働組合法は、その第1条2項で刑事免責、第8条で正当な争議行為の民事免責を定めている。このようにして確立してきた労働基本権の理解について、従来は生存権的基本権の一つとしてとらえる傾向が強かった。この考え方によれば、他に生存権を実現する手段があれば労働基本権を否認・制約することも可能という見解が導きだされたことから、今日では、労働基本権の根源的に奪われない人権としての自由権的側面を重視する見解が有力となっている。つまり単なる生存権的基本権としてとらえるのではなく、刑事免責の確立にみられるように、国家からの自由あるいは解放という点に着目する見解が有力になっている。たとえば、結社の自由(憲法21条)という精神的自由権と団結権などの労働基本権を対立したものとしてとらえるのでなく、労働基本権を前者の労働者権的発展ととらえるわけである。日本においては、労働基本権は憲法第28条に団結権などの権利として具体化されている。この労働三権について、団体交渉権を中心に据える見解が主張されてきたが、今日では、労働者の人間らしい生活を確保するという目的に寄与するものとして、三つのいずれも不可欠のものであり、三つを一体のものとしてとらえる見解が有力となっている。これらの三つの権利の主体についても、従来は集団的権利としてとらえる見解が有力であったが、労働組合という団体を優位に置くことによる個人(組合員)の犠牲が問題となったことから、今日では個人を中心に労働基本権を構成する見解が有力となっている。
労働基本権は、現行労働組合法において、刑事・民事免責以外にも、不当労働行為としての団結権侵害行為の禁止(7条1号、3号)、正当な理由のない団交拒否の禁止(7条2号)、団体交渉の結果労使間で締結される労働協約などの保障規定(15条以下)として具体化されている。日本で労働基本権がどれだけ実際に確立しているかについて問題点は多々あるが、そのなかでも公務員の労働基本権が国家公務員法などによって制約・剥奪(はくだつ)されていることが大きな問題点として指摘できる。
[村下 博・吉田美喜夫]
『沼田稲次郎著『労働基本権論』(1969・勁草書房)』▽『樋口陽一著『自由と国家』(1989・岩波書店)』▽『西谷敏著『労働組合法』(1998・有斐閣)』
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…憲法28条は,〈勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は,これを保障する〉とし,労働基本権(労働三権ともいい,団結権,団体交渉権,争議権をさす)を保障している。このうち〈その他の団体行動をする権利〉が争議行為をする権利,すなわち争議権をさすと解されている。…
※「労働基本権」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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