北原村(読み)きたばるむら

日本歴史地名大系 「北原村」の解説

北原村
きたばるむら

[現在地名]大和町大字久池井くちい字北原

文化一四年(一八一七)の郷村帳によると、枝村として野口のぐち礫石つぶていし・狐谷があり、久池井村の東、国分こくぶ村の北、小川こがわ村の西に位置し、北は山をひかえる。

南斜面で平地をひかえているので、縄文時代からの遺物が多く、村の北方の礫石や野口には石鏃・石匙・石斧などが多く発見されている。弥生時代においても野口から遠賀川式土器が出土し、住居跡が推定されている。また森の上もりのうえ古墳(円墳)があり、琴柱形石製品が出土している。古代にも、国衙や国分寺に近いこともあって政治・文化の面で肥前国の中心的位置にあったと考えられる。

文保元年(一三一七)の鎮西下知状(河上神社文書)によれば、北原村は河上かわかみ神社領として神社に神用米を納めていたが、地頭の北原太郎が弘安年間(一二七八―八八)から納めなくなった。


北原村
きたはらむら

[現在地名]大江町字北原

みや川の支流北原川の上流域にある。標高約二五〇メートルで大江山の山腹にあたり、西は丹波国天田郡天座あまざ(現福知山市)と境する。集落は口北原くちきたはら奥北原おくきたはらに分れる。

慶長検地郷村帳に高四三・三七石「北原村」とみえるが、延宝九年(一六八一)の延高で六九・八三八石となった(天和元年宮津領村高帳)宮津藩領。江戸時代には和紙を製造し、宮津藩の御用紙を納めていたという。明治以降も大江山鬼障子紙の名で京阪方面で広く売り出された。

北原村には平家の落人が開いた隠田村としての伝説が残る。


北原村
きたはらむら

[現在地名]姫路市北原

飾東しきとう郡に所属。仁寿じんじゆ山の南麓に位置し、東は奥山おくやま村。集落はうわすじしもすじを中心に発達し、つぼなどに条里の遺構が残る。文禄三年(一五九四)一〇月一七日の入部御用銭割付帳(芥田文書)に「高七百九十石八斗四升三合 北原村」とみえる。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代を通して姫路藩領。正保郷帳では田方四〇七石余・畠方二九石余。


北原村
きたはらむら

[現在地名]群馬町北原

西国分にしこくぶ村の北東にあり、村境付近を牛池うしいけ川が流れる。ほぼ平坦であるが、西隣青梨子あおなし村字前原まえはら(現前橋市)との境は低湿地。牛池川北側の台地字下屋敷しもやしき縄文土器の破片や、短冊形打製石斧、土師器が出土し、地下一メートルの焼土中より窯焚口の凝灰岩製冠石が出土、また付近より須恵器・土師器も出土した。古墳時代の水田跡および平安時代の住居跡の北原遺跡もある。

慶長一三年(一六〇八)新田開発願書(松田文書)によると、同一三年総社藩主秋元長朝が元総社もとそうじや(現前橋市)松田半兵衛に当地の新田開発を命じ、半兵衛は付近の既設田一八町歩をもらい受けて新田を開いた。


北原村
きたはらむら

[現在地名]浦和市北原、川口市北原台きたはらだい一―三丁目・差間さしま三丁目・戸塚とづか四丁目・行衛ぎよえ

大門だいもん町の南西に位置する。小名行衛は当村南方の飛地となっており、大門町と石神いしがみ(現川口市)との間にある。本村の西を見沼代用水(東縁)が流れ、行衛を日光御成道が通る。古くは行衛・北原二村であったが、寛永一〇年(一六三三)に合併し、北原村と称するようになったという(郡村誌)。田園簿では田二一石余・畑七二石余で、関東郡代伊奈領。


北原村
きたばるむら

[現在地名]中津市北原

福島ふくしま村の北のなだらかな丘陵部に位置する集落で、江戸時代は福島村の枝村として扱われた。元禄一〇年(一六九七)の北原村並御前座由緒書(長岡家文書)に「一、豊前下毛郡筑地村北原算所と申候ハ、薦社陰陽師也」とあるが、応永一〇年(一四〇三)八月日の池永重宗等一揆契状(永弘文書)に「陰陽師兼検校神川」とみえる「神川」は、当村に関係する人であろうか。また永正五年(一五〇八)一月一八日に本自見ほんじみ名の門田三反三〇代を担保として預かった陰陽師は「是則殿」となっていて、にわかに北原と結び付けがたい(「永弘重幸出挙籾借用状」同文書)


北原村
きたばらむら

[現在地名]利賀村北原

仙納原せんのはら村の西、山を越えた庄川右岸の断崖状の上部台地に位置する。西方、庄川対岸の下原村との間に籠渡りがある。綱の総長四五間、うち両詰巻留間数二五間・籠通用間数二〇間。綱は大牧おおまき村・重倉しげくら村・長崎ながさき村・北原村四ヵ村の者で作る。ただし春の出水時から夏の間は切落してあるため五箇山ごかやま籠渡に数えないことがある(五ヶ山籠渡覚「十村宅左衛門覚書」寿川区有文書)


北原村
きたはらむら

[現在地名]原町市北原・出町でちよう

桜井さくらい村の南に位置し、南は丘陵を境に下太田しもおおた村と接する。「奥相志」に「北は原野にして東西の野馬防堤あり。柵門を設け北原木戸といふ」と記される。正保郷帳では田方七七石余・畑方一三石余。明暦二年(一六五六)の高一三四石余(相馬藩政史)元禄郷帳によると高一〇四石余。なお元禄検地高は四二〇石余、ほかに新田六七石余がある(奥相志)。天保郷帳では高一六六石余。


北原村
きたばらむら

[現在地名]那賀川町大京原だいきようばら

大京原村の南、那賀川河口に位置する。享保(一七一六―三六)頃に那賀川の河道が変わり、当村は赤池あかいけ村や大京原村の枝村のようになったものと思われる。慶長二年(一五九七)の分限帳には北原がみえ、細山(賀島)主水佐知行分高一五一石余、野々村勘十郎知行分高二〇〇石。河口兵助知行分の那西なさい郡北原高七〇石も当地のことか。正保国絵図では高一五七石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳によると田方一三〇石余・畑方二六石余、水損とある。安永六年(一七七七)の検地帳(那賀川町蔵)では高二五石余、田畑合計七町一反余。文化一〇年(一八一三)の高都帳にはみえず、赤池村の高に含まれるとみられる。


北原村
きたばらむら

[現在地名]福島市飯坂町湯野いいざかまちゆの

湯野村の北、南に延びる丘陵の傾斜地に位置し、伊達郡に属する。もとは湯野村に属していたが、同村の孫右衛門が米沢藩に開発を命じられ、北原・西原にしはらの地を開いたのに始まる。その後六左衛門なる者が新田名主となり、徐々に開発が進められたという。寛文年中(一六六一―七三)には年貢割付帳も別帳となり、同一二年の幕府検地では、湯野村新田北原村検地帳が作成されたという(寛延二年「返答願書」福島市史)。古高新高帳には湯野村新田とみえ、米沢藩領時代の古高七〇六石余、幕府検地による新高五三三石余。


北原村
きたばらむら

[現在地名]高遠町大字藤沢ふじさわ

藤沢川の左岸の平地に開けた村。東は芝平しびら山道境、西はだい村と藤沢川境、南は栗田くりた村、北は荒町あらまち村と境している。

村名の初見は正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻で、「一高百拾四石 北原村」とある。

古跡「ゴンドノ古屋敷」は日蓮宗北原山長久寺の東北にあり、「長野県町村誌」によると、

<資料は省略されています>

とある。


北原村
きたはらむら

[現在地名]大宮市桜木町さくらぎちよう錦町にしきちよう土手町どてちようなど

中山道大宮宿を構成する七組の一。同宿の北方、西側にある。ほん村と合せてみや町とも称した。寛永五年(一六二八)土手宿どてじゆく村から当地へ移住、そのため耕地は同村内にあるという。当村は初めこよみ新田と称した。かつて氷川暦の推歩を当村名主喜兵衛家が司っていたため名付けられたと伝え、化政期にも当村小名として残っている。


北原村
きたはらむら

[現在地名]木次町北原

北流する斐伊川が西に向きを変えた上流右岸に位置し、北は下布施しもふせ村、南は鴨倉かもくら(現仁多町)。正保国絵図にはのち当村に含まれる尾崎おざき村がみえる。元禄十年出雲国郷帳では北原村と尾崎村を合せて高一五〇石余、寛文四年(一六六四)の本田高一四九石余。「雲陽大数録」では高一二〇石。明治八年(一八七五)下布施村を合併。「郡村誌」によると戸数七八(うち社二)・人口三六四、牛四八・馬六、物産は中折紙・塵紙・麻苧。


北原村
きたばらむら

[現在地名]美作町北原

平田ひらた村の東にある。南北に長い村域で南部は地字の金屋かなや。東は友野ともの村。正保郷帳に村名がみえ、田五三石余・畑九三石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高二三石余・開高五石余、村位は下。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は下倉敷しもくらしき村とほぼ同様。「東作誌」によれば毛付高一六五石余、戸数三四、男七八・女五八。神社は三宝荒神社・八幡宮など。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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