千原村
ちはらむら
[現在地名]丹原町千原
現丹原町の西端の山間に位置する。東は鞍瀬山村に、南は滑川村・川之内村(現温泉郡川内町)に、西は川之内村・臼坂山村に、北は臼坂山村・鞍瀬山村に接する。中山川が村の西北部を東北に流れ、その南岸を松山への中山越が通る。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の周布郡の項に高一八石五斗三升三合、うち田方四石九斗五升、畠方一三石五斗八升三合とあり、「千原村 林山有」とみえる。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記も村名・石高は同じで、松平隠岐守知行とある。
戦国時代末から長宗我部元親の支配となり、小早川隆景らの大領主時代を経て、寛永一二年(一六三五)に松山藩領となって幕末に至る。
千原村
ちわらむら
[現在地名]城南町千町 千原
緑川左岸の流域平野にあり、西は蓍町村、南は坂本村・平野村に接する。南方から紆曲する緑川はすぐ上流で御船川と合流し、古来しばしば氾濫を繰返した。正和二年(一三一三)八月二五日の藤原熊夜叉丸・秀重請文案(大友家文書録)に「隈牟田庄千原村田畠在家等事」とある。また観応二年(一三五一)三月一二日の九州探題一色範氏御教書(詫摩文書)に「千原村田地五町千原九郎入道跡」「森崎村田地五町森崎孫次郎入道跡」とみえ、千原九郎入道が南朝もしくは足利直冬方に与同したため、その所領が闕所となった。
千原村
ちはらむら
[現在地名]夜久野町字千原
北は峠を越えて額田村に接し、東は猪野々村(現福知山市)などと境する。南は山地を隔てて氷上郡(現兵庫県)に背を合わせる。額田と同様に標高一〇〇メートル以下の緩やかな谷間の村。口千原・中千原・奥千原に分れ、高六〇六石であった(丹波志)。
口千原(現下千原)について「丹波志」は「口千原ヨリ南豊富郷下ケ戸村ニ越ス嶺ヲユツリ峠ト云、口千原ヨリ頂マテ拾二三丁斗下戸村四五丁」と記す。奥千原(現上千原)については、「奥千原道ノ下タ谷川ノ向矢取明神森社アリ、此所ヨリ氷上郷ニ遠坂郷ノ越ス千原峠ト云、氷上郡ニテハ遠坂峠ト云」とあり、下戸村(現福知山市)に出る峠をユズリ峠(現千原峠)、遠坂郷(現兵庫県朝来郡山東町)に至る峠を千原峠(現兵庫県氷上郡青垣町)とよんでいたことが知れる。
千原村
ちはらむら
[現在地名]泉大津市千原町一―二丁目・森町一―二丁目・助松団地・曾根町一丁目
尾井千原村の南に位置。戦国期に玉井源秀が築城したという千原城跡がある。庄屋川上氏の宅地の一部がそれで周溝もあったという。源秀は細川氏綱軍に属して功労があったが、永禄四年(一五六一)河内高屋城(現羽曳野市)落城後、千原城へ帰り、当地二七〇町歩の領主となり、天正一六年(一五八八)に死んだため廃城となったと伝える。彼の墓が当地の四十九山にあるが、その後開墾され、五輪の小塔が残る。
千原村
ちわらむら
[現在地名]市川町千原
戸板村の北、市川右岸に位置し、神西郡に属する。東は市川を隔てて神東郡西川辺村・浅野村。慶長国絵図に「ちハら村」とみえる。領主の変遷は屋形村と同じ。正保郷帳では田方二一七石余・畑方二五石余。天保郷帳では高二四九石余。承応元年(一六五二)当村および美佐・福渡・下沢・鶴居・今井・田中・小室・谷、新野・野(現大河内町)の神西郡一一ヵ村と飾西郡一七ヵ村との間で、亀ヶ坪入会山をめぐり出入となっている(「出入相済申覚」新野区有文書)。享和二年(一八〇二)五月八日、当村付近を訪れた菱屋平七は「ちわら村、人家三十軒計リ、茶屋なし」(「菱屋平七長崎紀行」京都大学文学部蔵)と記している。
千原村
せんばらむら
[現在地名]大江町字千原
由良川右岸の河東街道に沿って延びた細長い村で、標高一五〇メートル足らずの山地の北麓にある。南は尾藤村に接し、対岸は蓼原村・河守町・波美村に対する。
慶長検地郷村帳に高九五・三三石「千原村」とみえる。土目録によれば高一〇九・二九四石のうち、田方は六八・四六三石、畑方は四〇・八三一石、運上のうちに撫網運上銀二匁、鳴子網運上銀三匁、渋柿〇・三石があった。延享三年(一七四六)の郡中高究付覚によれば農家戸数三六。田辺藩領。
この村で由良川は大きく蛇行し、州は出張って広い氾濫原を形成する。わずかな水田を除けば一面の桑畑で、他の沿岸諸村同様最大の現金収入源として養蚕業が行われてきた。
千原村
ちわらむら
[現在地名]亀岡市千代川町千原
北は川関村、東は今津村、南は小川村、西は拝田・北庄村。村内を南北に通る丹後道に篠山(現兵庫県多紀郡篠山町)方面からの愛宕参詣の通行路となる愛宕道が拝田村から真東に通り交差する。これらの街道筋には宿屋・茶屋があった。
天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」によれば高四〇一・七六石、戸数四八、亀山藩領。
千原村
ちわらむら
[現在地名]温泉町千原
竹田村の南西にある。地内を岸田川が北流し、並行して山陰道が通る。南西は鐘尾村。古くは茅原とも書いた(二方考)。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「ちわら 井上殿 やと」とみえる。また同書にみえる「くわはら」は当地に桑原姓が多いことから地内であったと推定される。文明三年(一四七一)の八太庄領家分米銭納帳写(中村文書)には「千原」とみえる。
千原村
ちばらむら
[現在地名]匹見町落合
匹見川中流域左岸に位置し、戸村川が中央を北東流して匹見川に合流する。東は西村、北対岸は道谷村。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高四六石余、年貢高は田方一八石余・畑方七石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では有高四四石余、免六ツ四分余。蕎麦・楮を栽培し、匹見川の鮎・うるかを上納した。明治八年(一八七五)広瀬村に合併。戸村川右岸に剣玉神社がある。
千原村
ちはらむら
[現在地名]上越市上千原
福橋村の南東、飯田川の左岸に位置。吉野と荒屋とを結ぶ吉野道が通る。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図には「千原村 上」とみえ、家並が描かれる。正保国絵図では高八〇六石余。天和三年(一六八三)の検地帳(明治大学刑事博物館蔵)によれば田八三町六反余・畑一五町余、高一千一七七石八斗余、うち野高四石八斗四升九合・漆高二斗。
千原村
ちわらむら
[現在地名]大刀洗町菅野
小石原川の支流二又川の左岸に位置し、西は友光村。北は筑前国境。応永三年(一三九六)四月二五日の竹野西郷内枝松名坪付(後藤文書/早稲田大学所蔵荻野研究室収集文書下)に千原名がみえ、田五町・畠六町七反二丈中があり、屋敷一ヵ所・草野畠二町が含まれていた。本高は九三石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一三〇石・役高一六五石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一七二石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では田六町余・畑田三町余・畑四町一反余・居屋敷一反余。
千原村
ちわらむら
[現在地名]村松町千原
村松城下町の北西を流れる能代川・滝谷川・五部一川の合流するところに位置する。西は中名沢村、南は笹野町村、北は町屋村(現五泉市)。
近世初めは村上藩領。寛永一九年(一六四二)幕府領海老江代官所支配。正保元年(一六四四)村松藩領。宝永六年(一七〇九)幕府領となり、その後も幾多の所管を経る。
千原村
ちはらむら
[現在地名]南牧村千原
村央を南牧川が北東流し、東は小沢村、西は岩戸村、北は塩沢村と接する。南牧川右岸沿いに南牧道が通る。近世はおおむね幕府領。寛文郷帳の高九七石一斗余はすべて畑方。天保一二年(一八四一)の上野国十四郡石高(工藤文書)によると総反別は三八町五反余、年貢四二両一分余。天保九年に農間居酒屋一がいた(「諸商人渡世書上帳」桜井文書)。寛政三年(一七九一)八月の洪水では畑八町ほどが被害を受け、家五軒が流失、三軒が押埋となった(「洪水被害書留」関文書)。
千原村
ちはらむら
[現在地名]津和野町寺田
寺田村の北、津和野川左岸に合流する岩瀬戸川下流域左岸の谷間の段丘に立地。地原とも記す。津和野城下から当村を経て岩瀬戸村・商人村への道が通る。寛永一四年(一六三七)の検地帳(津和野町郷土館蔵)によれば田高一〇五石余・一〇町二反余、畑高二四石余・九町五反余、名請人は二六、うち屋敷登録人一二・無屋敷一二・神主二。
千原村
ちはらむら
[現在地名]邑智町千原
沢谷川支流の千原川およびその支流の流域に位置し、南端を西の石原村からの銀山街道が通る。正保国絵図に村名がみえ、高二六三石余。元禄一〇年(一六九七)の石見銀山領村々覚によれば田方一九五石余・畑方六七石余、年貢高は米一二一石余・銀五三三匁余、小物成は山手役二一匁など、家数は本家八一・門屋一一、人数四四五。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 