液体,粒体または粉体などの体積を量る器具を体積計というが,このうちこれらを口縁まで満たし,あるいは口縁付近の内面につけた目盛線または指標まで満たして,つまり盛り切って単位量を量りとるものを枡という。西洋においては一般に金属製円筒形であるが,東洋では近世まで木製の方形,台形がふつうで逆台形のものもあったが日本ではすべて方形であった。中国語では量器,英語ではmeasureの一つに分類される。枡は和語で語源には諸説があり《成形図説》は〈升,斗,斛(こく)と倍増してゆくので増(ます)からきた〉と〈麻須〉を当てており,《大言海》も〈増ノ義,合ヲ積ミ升ヲ積ミ相増ス意ト云フ〉としているが,《岩波古語辞典》は〈朝鮮語mal(升)と同源〉としている。古代の米の計量に関しては日本と朝鮮との間にかなりの共通性がある。枡は升を量る木の器具を表す国字で桝はその俗字である。
枡の容量単位は,古代オリエントでは穀物や水の重さに結びつけられた。前2500年ころのシュメールの銀製の標準枡は容量10クア(qa)で,1クアを満たす小麦の重さは当時この地に広く用いられた重さの単位ミナ(mina,約500g)に当たる。やがて一定の大きさの容器が枡として用いられるようになり,その容器の名が単位の名称になったものが多い。たとえばギリシア時代の単位アンフォラは,当時の取っ手つきの錐形の容器の名であり,今日のバーレルはワイン用の大酒樽である。中国でも容器やひしゃくに由来する単位が多い。たとえば斛,鐘は容器で,升と斗はひしゃくである。
度量衡の制度が設けられるようになると,枡は容量を正確にし,かつ計算をしやすくするため形と寸法が定められる。こうして西洋の円筒形枡は一般に直径と高さが同じになるように規定され,東洋の木製の枡は方と深さが規定された。ただ古代中国でも国家の標準枡は,銅などの金属で円筒形に作られた。
その代表的なものが新の王莽の標準枡で現存する。清代の標準枡には鉄製のものもある。東洋の実用枡が一般に方形なのは木を用いたことと,容量が定めやすいからであるが,変造を防止するため台形や逆台形にしたものもあった。
日本での枡の使用はすでに弥生時代に始まると考えられるが実態は明らかでない。古記には単位として束,把などが現れるが,これは収穫量を穂つきの稲束で計ったなごりで,それが枡の単位の名に残ったものと考えられる。その後中国や朝鮮半島の制度が渡ってきて普及し,大宝令にとり入れられるのは唐の制度である。雑令に〈量,十合為升,三升為大升一升,十升為斗,十斗為斛〉とある。これは唐制のままで,当時の唐制は度量衡とも大小2種の単位制度となっていた。それは漢代に始まる制度が時間とともに変化し,しかも国家公定制度と民間のものとの2流に分かれ,民間のものの変化が大きくしかも普及したため隋代にはこれも公認して大小2制となり,唐に受けつがれたのである。〈三升為大升一升〉とはこのことをいうのである。しかしこの小升は実際には用いられなかった。大宝令の大升の大きさについては多くの説があり,現在の3合から6合の間に分布する。しかしこの制度も律令制の崩壊とともに寺社,荘園の私制枡の横行によって乱れ,しかも容量はだんだん大きくなって,室町時代には1升が今の8合ほどになっていた。
豊臣秀吉は全国の検地を実施するとともに,収穫量の算定基礎を統一するため枡の大きさを定めた。これが今日の枡(京枡)の原形である。その一つと見られるものが現存する。播磨国姫路野里村の芥田五郎右衛門の家にあったというもので,その裏底に〈立五寸壱分,横五寸壱分々半,ふかさ弐寸四分々半,但内のり也,此号国中に可相渡御諚に候也 天正十八年正月日〉とある。この容量は6万4349立方分で,現在の9合9勺7撮である。
その後寛文年間(1661-73)に幕府は方を4寸9分につめ,深さを2寸7分,体積を6万4827立方分とした。ついで江戸幕府は全国の枡を統一するため江戸と京都にそれぞれ枡座を置き,枡の製作,販売および〈枡改め〉,つまり取締りを行わせた。しかし公定の枡が出そろって枡改めが行われるようになったのは江戸末期で,しかも紀州藩など大藩には独自の枡を作るところもあり,地域的に多少の不統一もあった。甲州の3升入り大枡は幕末まで用いられている。
枡の種類は穀用で1斗,7升,5升,1升,5合,2合5勺,1合で,5合以上のものには縁金具と口縁の対角線にそって弦鉄がつけられた。そこでこれを〈つるかけ枡〉とも呼ぶ。穀物を平らにかくためという。そのかきならす棒をとかき(概,斗概,斗搔,斗棒)という。相手の枡ごとに寸法がきめられていた。なお弦鉄つきの枡は,その体積分だけ容量が少なかったので,明治政府はこれに気がついて深さをわずかに増した。したがって明治以後の穀用一升枡は方4寸9分,深さ2寸7分1厘である。液用は1升,5合,2合5勺,1合だけで金具を用いないのでこれを生地枡と呼んだ。
1876年に円筒形枡も認め,容量は方形枡と合わせて形は直径と深さを同一とした。91年には度量衡法が制定され,金属やガラスの枡も認められるとともに,リットル系の枡も制定された。
執筆者:小泉 袈裟勝
枡は一般に木製で箱形のものが多いが,近世以来,円筒形のものもあった。近世初期ころまでは,〈斗〉〈升〉と記されたが,それ以後は,〈枡〉とも書かれた。
日本の枡の起源はつまびらかではないが,大化前代から使用されたことは明らかである。大宝令が制定されると,唐の枡の制度が輸入され,日本でも大升,小升の2種の枡が公定枡として指定された。一般の計量には大升が使用され,大升の1升は京枡(現行枡)の約4合余に該当すると考えられている。律令制が崩壊する平安時代になると国の公定枡制度もしだいに紊乱(びんらん)し始め,諸国で使用される公定枡,すなわち〈国斗〉も一様でなく,官衙(かんが)の枡も異なるようになった。また私的土地所有である荘園が各地に発展すると,各荘園独自に,租税貢納枡,領主枡,支払枡などが複雑に発達し,平安時代中ごろには多種の異量の私枡が使用されるに至った。諸国の非合法荘園の整理を行ったことで著名な後三条天皇は,延久年間(1069-74)に乱れた枡を統一し,〈延久宣旨枡〉と称される公定枡を制定した。この枡はその後,宮廷,社寺などの枡として全国的な使用が認められ,鎌倉時代には京都市中の代表枡の地位を占めるに至った。この枡の1升は,京枡(現行枡)の約6合3勺ほどに当たる。
鎌倉時代には,荘園内部の土地所有関係の複雑化に伴い,地頭職,名主職,作職などの在地の職権が分化すると,それぞれの職の専用の枡がおびただしく発生した。また貢納枡にしても荘単位からさらに小地域の枡に細分化し,ついには盥(たらい)のような器物さえ,枡として登場するに至った。元来十進法によるべき計量単位関係もこのころには乱れ,〈十三合斗〉のように,一合枡13杯で1升と計算するような不規則な枡が多数発生した。さらに計量には必須の概(とかき)の制度も紊乱し,不正な構造の概さえ現れた。また概をまったく使用しない〈山盛計り〉も珍しくなくなった。室町時代になると枡の制度の紊乱はその極に達し,同じ一升枡でありながら,実量が倍になるようなものが併用される事態が生じた。このころの一升枡の実量を想定することは困難であるが,強いていえば平均して京枡の8合くらいとしてさしつかえないであろう。
枡の混乱が進行した反面,室町時代には枡の統一に対する要求が急速に強まってきた。その最大の原因は商業の発展にほかならない。局地的商業が国単位の市場圏へ,さらに広い遠隔地取引へと発達した室町時代には,商人たちの枡統一の要請が急に高まってきたのである。その結果発生してきたのが〈売買斗〉などと呼ばれた商業枡で,その使用圏は時とともに拡大した。それと同時に単位間の不規則累進にかわってしだいに十進法が復活し,〈十合斗〉と呼ばれる枡が京都,奈良を中心に多用されるようになった。1568年(永禄11),将軍足利義昭を奉じて入京した織田信長は,京都の経済を掌握するために,当時の京都において中心的な商業枡である十合斗を公定枡に指定した。十合枡は信長の後継者豊臣秀吉によって継承され,とくに太閤検地において石盛(こくもり)の基準枡に採用された関係から,その使用は全国に及んだ。この枡は〈京都十合斗〉〈京斗〉などと呼ばれ,その容積は大略京枡の9合9勺くらいと考えられる。
90年(天正18)江戸に幕府を開いた徳川家康は,直ちに京都の商人福井作左衛門を京都枡座,江戸の樽屋藤左衛門を江戸枡座に任命し,両枡座が製造する京枡を全国公定枡として,それぞれ西三十三ヵ国と東三十三ヵ国に専売させた。しかるに寛永(1624-44)ころになると,京枡座の京枡の容積が江戸枡座の京枡(江戸枡という)より大きくなり,とくに経済の点で支障をきたしたので,幕府は1669年(寛文9)江戸の京枡を廃止し,改めて京都の京枡を全国公定枡に指定して,諸藩にもこの枡の採用を命じた。また両枡座にも〈枡改め〉すなわち枡の検定の権利を与えた。この枡は,一升枡で縦横ともに曲尺(かねじやく)の4寸9分,深さは同じく2寸7分,容積は6万4827立方分であり,これが現行枡の基礎となったのである。しかし諸大藩では,京枡と同規格の枡を自藩で製造し,また家臣への扶持米(ふちまい)支給のための扶持枡,城下町商人の商業枡など,藩独自の異量の枡を製造使用した例も少なくない。また幕府の直領である甲斐国の大部分の地方では,武田信玄の遺制と称して,江戸時代初期から明治に至るまで,公定枡の一種として甲州枡の使用が許された。この枡は京枡の3倍の容積をもつ特殊なものである。
江戸幕府が崩壊し,1868年(明治1),新政府は幕府の公定枡である京枡をそのまま国の公定枡として承認したが,京都,江戸両枡座は廃止した。ついで政府は,枡をはじめ度量衡の事務いっさいを大蔵・工部両省の所管とし,全国各県に製造と販売の専業者を個別に指定した。こうして度量衡は完全に国の統制下に置かれることになった。また75年には度量衡取締条例が,ついで91年には度量衡法が制定され,法律的にも度量衡に対する近代的な国家統制が,着々と整備進行していった。一方,政府は85年メートル条約に加入した。以来,国の近代化のため,枡以下の度量衡器を支えてきた尺貫法に替わり,メートル法を採用する努力を重ねてきた。その間幾多の困難はあったが,ついに1959年1月1日を期してメートル法の完全実施を断行した。その結果,長い伝統をもつ尺貫法による旧度量衡は法的根拠を失い,枡はここに廃止されることになった。
執筆者:宝月 圭吾
枡は米びつから毎日米をとり出す主婦にとって重要な道具であった。主婦権の譲渡の際に,杓子でなく枡を嫁に手渡す家もあった。枡は納戸神,年神,亥子神,田の神のほか,エビスや大黒への供物や節分の豆をいれる容器とされ,また子どもや死者の霊魂を枡底をたたいて呼び戻す風習もある。霊魂そのものを象徴する穀物をいれたり量ったりする枡は単なる計量具ではなく,穀霊を宿したり増殖させたりするほか,神霊をまねく呪具とも考えられていたのである。枡が農耕神や福神への神饌の容器とされたのもこのためである。
執筆者:飯島 吉晴
尺貫法における容量の単位。1669年(寛文9)に京都と江戸の枡(ます)を京枡に統一して,1升枡の大きさを広さ4寸9分平方,深さ2寸7分,すなわち6万4827立方分とした。1891年の度量衡法においてもこれを採用し,また尺を10/33mとしたため,約1.8039dm3すなわち約1.8lであり,分量単位は1/10升の合,1/10合の勺,倍量単位は10升の斗,10斗の石(こく)である。
執筆者:三宅 史
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尺貫法の体積の単位。斗(と)の10分の1、合の10倍で、約1.8039リットルにあたる。起源は古代中国の周代に始まるが、大きさは2000年の間に10倍にもなった。現在の日本の1升は江戸時代の初期に定まった。曲尺(かねじゃく)で四方が4寸9分、深さが2寸7分、体積が6万4827(六四八二七、いわゆる「むしやふな」)立方分である。升は柄(え)のついた柄杓(ひしゃく)からきた象形文字なので、起源の大きさはわからない。現存している中国漢代の度量衡の標準器「新嘉量(しんかりょう)」から当時の1升を求めると、いまの約1合1勺で、約10分の1に相当する。当時の1斗はいまの1升1合であるから、「斗酒なお辞せず」という句は誇張した表現ではない。このように体積の単位が時代によって増大する理由は、枡(ます)が徴税の道具として使われ増収を図るためと、三次元の量であるため視覚による判断が困難であることによる。日本が大宝律令(たいほうりつりょう)(701)で唐の制を採用したときの1升は、今日の4合あるいは6合とされているが、豊臣(とよとみ)秀吉が定めた京枡は四方が5寸、深さが2寸5分とほぼ2倍になっている。江戸時代初期には現在の寸法とされ、5合以上の穀用枡に口縁の対角線に沿って弦鉄(げんてつ)がつけられた。1959年(昭和34)のメートル法に統一されたあとは、取引上の使用はできないことになっている。
[小泉袈裟勝]
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…容積計ともいう。これらの物質の商取引に使われることが多いので計量法による規制の対象となっており,升,化学用体積計,目盛付きタンクおよび積算体積計に大別される。
[升]
液体用,穀物用,雑用などがあり,これらをいっぱいに満たすか,上端に沿って平面にかきとり所定の体積を計量する。…
…その理念は,現代の国際単位系(SI)普及という企ての中に結実しつつあるが,度量衡の体系を十進法に整合させるというこの全世界的な事業は,中国での史上の成功とは対照的に,今日なお貫徹されているとはいえない。
【度量衡から計量へ】
幕末期の日本では,国定標準器はなかったものの,尺と升(しよう)と貫とをもとにした度量衡の(基本的には十進法による)体系がいちおう整備され,当時の社会の要求を満たしてはいた。しかし,既述の狩谷の著書やその当時の尺度,枡の実態から判断する限りでは,正確な基準器に基づく単一の度量衡体系が整備されていたとはいえない。…
…中世,荘園において升の大小から生ずる差額米をいう。中世の荘園制社会においては,荘升(容積最大),領主升,下行(げぎよう)升(容積最小)の3種類の升が使用されており,升の計り換えのさいに増分・減分が出るのが常であった。すなわち,荘園から納升で進納された年貢米などが,領主の手元にある升で計りなおされ,それが荘園領主下の各構成員に配分されるのが一般的慣習であったが,そのさい升の大小から計量上の増分・減分が生ずるのは必然であり,その差を交分と呼んだのである。…
…
【時代区分と特質】
日本の近代史学史のなかで,中世という時代区分が定着したのは,西欧の封建制と日本の鎌倉・室町・戦国時代の社会との酷似を見いだした原勝郎,福田徳三,中田薫らによってであり,そこで中世は,近世と規定された江戸時代とは異なる一個の時代としてとらえられたのである。この見方は第2次大戦後,封建制を農奴に対する領主の支配(農奴制,領主制)に基礎をおく社会とする石母田正らのマルクス主義史家に継承された。…
…中世において枡の大小から生じる計量上の増加分。私枡の種類が急激に増加した平安時代末期から鎌倉・室町時代にかけて,大きな枡で量った年貢米等を小さな枡で再計量する必要が少なくなかった。例えば各地の荘園からの年貢米等をそれぞれ異なる量の荘枡で収納した領主は,これを消費にあてるためには,それらより小さな領主枡あるいは下行(げぎよう)枡で統一的に量り直さなければならなかった。このようにして生じた計量上の増加分を,一般に〈延〉,ときには〈交分(きようぶん)〉と称した。…
…米の値段。米価は他の商品と同じく,その流通の各段階ごとに存在する。まず生産者が集荷業者に販売する価格が生産者米価(業者が農家まで取りにくる場合は庭先価格)であり,産地の集荷業者が消費地の卸売業者に売る価格,卸売業者が小売業者に売る価格(卸売価格)を経て,最後に小売業者が消費者に売る価格(小売価格)が消費者米価である。米価は米の品質によって差があり,玄米の場合は銘柄,等級別に多様な価格が各段階ごとに形成されるが,小売白米は小売業者がそれぞれ品質別の何種類かの商品を作り,価格をつけるのが普通である。…
…江戸時代前期の枡は,太閤検地における基準枡である納枡によってほぼ統一されていたが,厳密には各地また用途によって枡目には相違があった。幕府は,江戸では樽屋藤左衛門を,京都では福井作左衛門を枡座とし,それぞれ縦横4寸7分5厘・深さ2寸9分,縦横4寸9分・深さ2寸7分の枡を公定枡として製作,販売にあたらせていた。そして寛文期(1661‐73)には,全国的流通の活発化などを背景に,幕府は諸国枡の調査を実施し,その結果をもとに1669年京枡をもって全国の枡を統一しようとし,江戸の樽屋と京都の福井とを枡座に定め,枡の製作,販売を独占させようとした。…
※「升」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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