大聖院(読み)だいしよういん

日本歴史地名大系 「大聖院」の解説

大聖院
だいしよういん

[現在地名]宮島町 滝町

厳島神社西南方、滝町たきまち筋の突当り、弥山みせん山麓正面に位置し、その登山道入口の地を占める。真言宗御室派で、滝山水精寺大聖院と称する。本尊不動明王。「厳島道芝記」に「開祖しれず、いにしへより此寺座主と称し供僧の長たり」とあり、「芸藩通志」には「僧日輪中興す、康正二年武田国信佐伯郡神領を攻るの日、神官僧侶廿日市桜尾に防ぎ戦ひしが、火を放ちければ書記なども焼かれ、又天文廿三年勅によりて叡覧のため記録什物を船にて京にのぼせしに、播磨室津にて、風波に船を破らる」とある。

古くは水精すいしよう寺の名でみえ、安元三年(一一七七)六月五日付の伊都岐島水精寺勤行日記注進状案(野坂文書)によれば、平宗盛の祈願によって「修正修二月御行三七日」以下の祈祷が「以周防国(珂)河御領之内地利物」行われており、同年七月五日付の太政官牒案(同文書)では阿闍梨一口が置かれている。

大聖院
だいしよういん

[現在地名]古河市本町二丁目

近世南新みなみしん町に所在。玉竜山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。「古河志」によれば現埼玉県熊谷市の竜淵寺の末で、同書は「竜淵寺記」を引いて、次のように記している。大聖院は古河公方足利晴氏の室で後北条氏出身の芳春院が、元亀元年(一五七〇)没の北条氏康の菩提を弔うため、その法名大聖院殿を寺号とし、現猿島さしま五霞ごか村の東昌とうしよう寺の僧を開山として古河城内に建立したのに始まり、公方の臣簗田氏と後北条氏との戦いの際、簗田氏によって破壊されたが、まもなく竜淵寺出身の大朝をもって坂間さかま村に再建し、寺号を永昌えいしよう寺と改めた。

大聖院
だいしよういん

[現在地名]佐野市植野町

東武佐野線佐野市駅の南方にある。明王山倶利伽羅寺阿城坊と号し、真言宗豊山派。本尊は不動明王で弘法大師の作と伝える。天正一八年(一五九〇)良朝の開山、あるいは慶長一三年(一六〇八)亮運の開基という。初め吉水よしみず(現安蘇郡田沼町)菊沢きくさわ川流域にあったが焼失し、天正一八年良朝が土中より本尊を発見して再興、佐野氏の祈願所となったとも伝える(旧県史)。慶長一七年に真言宗寺院が本山派山伏による役銭徴収の停止を山城醍醐寺に訴えた際の関東八州真言宗諸寺連判留書案(醍醐寺文書)に「佐野植野九月廿二日未貝 大聖院」とみえる。除地は元禄一一年(一六九八)の植野村明細帳(島田敬助文書)では一反余、正徳二年(一七一二)の同村明細帳(岡野盛雄文書)では八反余。

大聖院
だいしよういん

[現在地名]佐屋町日置

八幡山と号し真言宗、本尊薬師如来。古くは光明こうみよう院と称し日置へき八幡社別当寺。開山は鎌倉期の僧明恵と伝えられる。「尾張志」は、源頼朝の建立を伝えながらも「故縁定かならず、慶長十三戊申円誉法師再興す」と記す。

大聖院
だいしよういん

[現在地名]西区上小田井一丁目

慈眼山と号し、真言宗豊山派。本尊延命地蔵菩薩。天文一八年(一五四九)小田井おたい城主織田又六郎信張の創建で、秀祇が開山。初めは池冷山大宝たいほう(「寛文覚書」は大方坊と記す)と称したが、元禄六年(一六九三)に現在の大聖院と改めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大聖院の言及

【厳島神社】より

…内侍は舞姫もつとめたが本来巫女で,所領のほか社頭にささげられた散銭散米の収得権を持ち中世末まで権威を保持した。中世末に本宮棚守職の棚守房顕が大内・毛利氏と結んで権勢を持ち,供僧を率い弥山(みせん)を管理した大聖院や社殿の修理造営権を握った大願寺とともに近世まで神社の諸事を統轄した。祭礼は春秋の例祭のほか,旧6月17日夜対岸の地御前(じごぜん)神社(外宮)に渡御する管絃祭,旧7月18日の玉取祭などがある。…

※「大聖院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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