大谷寺
おおたにじ
[現在地名]宮津市字大垣
成相山南麓、成相寺傘松道の登り口にある。
天蓋山と号し、真言系単立寺院。本尊阿弥陀如来。開山は不詳で、寺記によるともと籠神社の奥院であったが、養老二年(七一八)勅により天蓋山大谷寺と号したと伝える。
山号について「宮津府志」の大乗寺の項に次のように記す。
<資料は省略されています>
また「丹後与謝海図誌」は往古山城国下醍醐(現京都市伏見区)にあったが、のちこの地に移ったとし、「真言宗に大谷の道場観と云者有是也」と記し、醍醐にはその名を残すという。また「東寺の碩徳数代遷住せられし事、東寺の記録有よし其派の古老伝たり、寛印供奉大円上人住せし所なり」と記す。
大谷寺
おおやじ
[現在地名]宇都宮市大谷町
多気山の東麓、大谷石の産地の中にあり、天開山泉龍院と号し、天台宗。凝灰岩(大谷石)の自然窟の壁面に彫られた通称大谷観音とよばれる磨崖仏千手観音を本尊とする。鉤の手に回った脇堂内に釈迦三尊・薬師三尊・阿弥陀三尊(いずれも伝)と右から左へ三組の磨崖仏が並ぶ。開山弘法大師、鎌倉時代初期に坂東三十三観音霊場第一九番札所に列せられ、それより巡礼や賽客が訪れ、貞治二年(一三六三)には観音堂に経石が納められている。中世には宇都宮氏の保護を受けた。
大谷寺
たいこくじ
[現在地名]西区伊川谷町小寺
伊川の東側にある天台宗寺院。頭高山と号し、本尊は聖観音。行基の開基と伝える。中世には現在地の北東一キロほどの頭高山にあったとされる。貞永二年(一二三三)二月日の沙弥某書下写(太山寺文書)に「大山・大谷此両寺」とみえ、伊川上庄内の免田については太山寺とともに先例に任せ見作跡を免田とすることが認められている。嘉禎四年(一二三八)八月一二日太山寺と当寺の長日仏供田への違乱停止と、寺中に乱入した惣追捕使の処罰は寺中に任せると定められた(「地頭尚景下知状」同文書)。
大谷寺
おおたにじ
[現在地名]土佐町南川 中村
南川の中央、瀬戸川右岸の山麓にある。真言宗醍醐派で、庭護山と号し、本尊地蔵菩薩。もと土居にあった。寺伝によれば土豪森近江守頼実が土居の地に定着した折、その鬼門封じのため建立したという。土居から現在地に移った年代は不明であるが、「土佐州郡志」は土居村に「大谷寺蹟」を記し、「南路志」は同村に「大谷寺跡、村ノ東ニ有」とし、南川村に「真言宗常通寺末、或云慶護山真福寺、本尊阿弥陀」として大谷寺を記す。
大谷寺
おおやじ
[現在地名]下館市大谷
五所長沼街道沿いにある。日蓮宗、松寿山と号し、本尊は日蓮聖人坐像。寺伝によると、前身は真言宗大谷山星宮寺といい、寛永一六年(一六三九)に日蓮宗に改められた。三代将軍徳川家光時代に当地を領した旗本川村氏が日蓮宗に帰依し、家臣飯田重正に命じて大谷村全村を日蓮宗に改宗させたといわれる。延享四年(一七四七)日感の代に、境内の虚空蔵堂を再建、虚空蔵菩薩像を造立する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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大谷寺(おおたんじ)
福井県丹生郡越前町にある天台宗の寺院。山号は越知山。泰澄による開創と伝わる。古くからの山岳信仰の拠点で、明治期に越知神社と分離された。九重塔は国の重要文化財に指定。
出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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