安国寺跡(読み)あんこくじあと

日本歴史地名大系 「安国寺跡」の解説

安国寺跡
あんこくじあと

[現在地名]上越市西本町二丁目など

国道一八号に架かる陸橋「おたて橋」東側一帯が当寺名に由来するかつての大字安国寺の地域で、この辺りに跡地が求められるが、遺構は確認されていない。慶長五年(一六〇〇)の府中八幡宮領八幡村田畑反別名寄帳(渡辺寿一氏蔵)に安国寺裏の地名が載り、旧大字八幡やはたの小字名に安国寺前(現西本町二丁目)・安国寺浦(現五智一丁目)がある。相当の寺域が想定される。西本にしほん町二丁目の南端を信越本線が通るが、その敷設工事の際五輪塔が多く出土、線路下に埋めたと伝える。

足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石の勧めにより、元弘の乱以来の戦死者の霊を弔い平和を祈願するため、六六ヵ国二島に一寺・一塔を設置・建立することを発願、延元三年(一三三八)頃から貞和年間(一三四五―五〇)の約一〇年間でほぼそれを実現、貞和元年の光厳上皇の院宣によって安国寺・利生塔と名付けられた。安国寺には各国守護の菩提寺である五山派の禅院が指定されているので、当安国寺もそれ以前は守護上杉家の菩提寺であったと推定される。


安国寺跡
あんこくじあと

[現在地名]日南市板敷

板敷いたじきの南部、中島田なかしまだの南端にあった臨済禅寺。太平山と号し(「爛枯柴」など)、「太宰管内志」によれば本尊は文殊菩薩であった。江戸時代には寺域の西・南は飫肥おび城下に接し、飫肥領五ヵ寺の一つに数えられていた(日向地誌)。開創の年代は不明であるが、当初は日向国安国寺として郷之原ごうのはら(現北郷町)に創建されたという(同書)。ただし開山とされる嵩山居中が貞和元年(一三四五)に没していること(「扶桑五山記」など)、居中が大隅国安国寺を開いたのは暦応二年(一三三九)であることなどから(薩藩名勝志)、当寺の創建も足利尊氏・直義による暦応元年の安国寺利生塔建立発願後まもなくのことと思われる。「蔭涼軒日録」永享一二年(一四四〇)四月四日条によると広灯庵鹿浄の推挙により妙怡が「日向国安国寺」の住持に新任され、またこれより以前に諸山に列せられていた。文明一六年(一四八四)一一月には島津氏と対抗していた伊東祐国が鵜戸うどおよび郷之原にあった当寺に陣を取り、迎撃に出た飫肥の領主新納忠続の守る富ヶ峯(飛ヶ峯)に押寄せ、忠続を破っている(「島津忠昌譜」旧記雑録など)


安国寺跡
あんこくじあと

[現在地名]上野市三田 沢

上野盆地を南に望む山麓にあり、「安国寺」と陽刻の鐙瓦のほか「安国寺庫司棟瓦也」とか「宗隣・宗竹・智宝・伊文」などの蔵主・筌首座の陰刻の瓦片、「永正十一天戌(中略)節浄命」などの陰刻銘の瓦片が出土。古くは平等びようどう寺と称した。「三国地志」所収文書によれば永仁三年(一二九五)当地の顕覚と僧正舜忍坊慶覚は祖母阿弥陀仏より譲られた先祖伝来久成ひさなり名田に、祖母の冥福を祈り先祖重代の氏寺とするため平等寺を建立、勧進により他の人々からも同寺に田畠などを寄進させている。また正安二年(一三〇〇)千葉介胤宗(宗胤か)より寺域内の殺生禁断・禁伐樹木の禁制状を受け、元徳三年(一三三一)には「平等禅寺規矩法式」ができている。


安国寺跡
あんこくじあと

[現在地名]加治木町反土

加治木城跡の南麓にあった臨済宗寺院。現在の臨済宗相国寺派安国寺から約二〇〇メートルばかり南西の位置にあったとされる。太平山と号し、本尊は釈迦如来。臨済宗京都妙心寺の末寺で、暦応二年(一三三九)に足利尊氏が創建を命じた一国一寺の大隅国のものである(三国名勝図会)。明応四年(一四九五)とみられる七月三日の島津忠昌書状(喜入肝付家文書)によると、同月一日に加治木の町村里を焼払うほどの合戦があり、翌二日に「本安国寺」を破ったと忠昌は肝付兼固に伝えている。


安国寺跡
あんこくじあと

[現在地名]三原町八木天野大久保

正称は栖賢山福厳安国寺。南北朝期、淡路守護細川師氏が居宅を改めて安国寺とし、前阿波補陀寺(現徳島県土成町)住持で淡路に退隠していた大道一以を招いて開山とした。三年のうちに仏殿法堂・神祠祖堂・僧堂・山門などが整えられた。大道は文和二年(一三五三)に京都に移るが、のち当地に帰住して応安三年(一三七〇)に没した(智覚庵開山大道和尚行状)。寺内に大道の塔所菩提樹院が建立されていた(恵日山東福禅寺末寺簿)。淡路国における最初の禅宗寺院であった。応安年中には諸山に列し、歴代住持は幕府将軍から公帖を得て入住した(旱霖集)。「蔭涼軒日録」長禄二年(一四五八)一〇月二一日条によれば、宗恩に公文が出されたのをはじめ、元亀二年(一五七一)五月三日には惟杏永哲が任命されている(鹿苑院公文帳)


安国寺跡
あんこくじあと

[現在地名]泗水町豊水

久米くめに小堂が残り、足利尊氏・直義が全国に設けた安国寺跡と伝えられる。「覚兼日記」天正一四年(一五八六)二月一四日条に「伊集院広済寺雪岑和尚、肥州合志之安国寺被給」とみえる。「一統志」に「久米安国寺者草創等持院贈従一位行左大臣仁山義居士也」とあり、草創者を足利尊氏としている。「国誌」には「安国寺護法山 台宗叡山正覚院末寺初号青原山寿勝寺開山東明慧日和尚」とあり、元応年中(一三一九―二一)当国に来住した慧日が合志こうし郡久米庄に寿勝じゆしよう寺を開き、暦応二年(一三三九)尊氏・直義が寿勝安国寺として再興したという。


安国寺跡
あんこくじあと

[現在地名]四日市市西日野町

集落の北、日野ひの神社の東にある。「勢陽雑記」に収める安国寺縁起によれば、虎関師錬が暦応二年(一三三九)に建立、安国寺の勅号を得たもの。京都の東福とうふく寺を模し、塔頭一三を数えたが、滝川一益の弟然休天が、天正七年(一五七九)に尾張に移し総見そうけん(現名古屋市)と号したという。


安国寺跡
あんこくじあと

[現在地名]大和町大草

大草おおぐさの東部安国寺谷にあり、新白山金剛坊と号した。安国寺恵瓊が再建した寺と伝える。「芸藩通志」に「安国寺址に、観音堂あり、文政辛巳の歳、観音像を彩色せんとしけるに、胸のあたりに、埋木ありて、一寸八分の金仏を蔵む、其背に文あり、曰秀頼御誕生に付、御武運御長久為祈念、鎧甲一具、此寺に納置者也、文禄二癸巳三月十八日、五徳和尚代、右為上使檜山権大夫殿、委しき事は、寺の什物にありと記しぬ、今は廃寺にて、什物なども散亡たれば、其詳なるを知るべからず」と記す。


安国寺跡
あんこくじあと

[現在地名]鎌倉市山ノ内

関東公方足利氏満在判の明月院絵図(明月院蔵)には「安国寺」、延宝建長寺境内絵図(建長寺蔵)には「安国寺跡」とみえ、鎌倉道に面して長寿ちようじゆ寺の向い側にあった。臨済宗。創建年代・開山などは未詳。永徳三年(一三八三)一〇月一日の夢窓疎石三十三回忌仏事注文(県史三)に、諸禅律僧尼寺一七ヵ所のうちに寺名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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