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評論家、演出家、初期新劇運動の指導者。明治4年1月10日島根県に生まれる。旧姓佐々山、本名滝太郎。東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)文学科卒業。在学中、坪内逍遙(しょうよう)、大西祝(はじめ)の指導を受け、文学、美学に強くひかれた。のち母校の講師となり美辞学などを講じ、かたわら『読売新聞』の「月曜付録」を主宰、文壇に気を吐き評論家として認められた。1902年(明治35)イギリス、ドイツに留学。美学、心理学を学びながら、演劇、音楽に関心を寄せた。帰国後の1906年、師逍遙と文化革新運動をもくろんで文芸協会を設立、『早稲田文学』を復刊して、評論『囚(とら)はれたる文芸』を発表、さらに新興の自然主義文学を擁護する論陣を張り文壇に大きな影響を与え、近代文芸批評の確立者となった。のちしだいに真と美の統一を目ざす観照主義に傾いたが、評論集『近代文芸之研究』(1909)はその代表的論集。文芸協会は1909年演劇研究所を開設して、男女俳優の養成を始め、抱月は滞欧中の観劇体験をもとにイプセン作『人形の家』、ズーダーマン作『故郷』などの演出にあたり、近代劇路線を歩み、逍遙の穏健な国劇改良路線と対立した。また研究所出身の女優松井須磨子(すまこ)との恋愛問題も表面化し協会幹事を辞任。1913年(大正2)恩師と決別し、教職、家庭も捨て、須磨子と芸術座を結成、翌年トルストイ原作『復活』の大当りでしだいに通俗劇へ向かったが、一方で研究劇も上演して芸術と経済の「二元の道」の統一を図った。大正期の新劇の普及発展と職業化に大きく貢献したが、業なかばにして、大正7年11月5日流行性感冒から急逝した。2か月後、須磨子はその後を追って縊死(いし)した。
[藤木宏幸]
『『抱月全集』全8巻(復刻版・1979・日本図書センター)』▽『『明治文学全集43 島村抱月他集』(1967・筑摩書房)』
明治・大正期の評論家,美学者,新劇運動家,演出家 早稲田大学教授;芸術座主宰者。
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(中島国彦)
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評論家,新劇指導者。旧姓佐々山,本名滝太郎。島根県生れ。1894年早稲田大学の前身東京専門学校文学科卒業。坪内逍遥に文学を,大西祝(はじめ)に美学を学び,《早稲田文学》の記者,早大講師となり,緻密(ちみつ)重厚な美学的評論で高山樗牛(ちよぎゆう)と評論界に併称された。創作もしたが,1902年イギリス,ドイツに留学,帰国後早大教授となり,06年《早稲田文学》を再刊,主宰し,門下と自然主義論を展開,自然主義の美学的整理を遂げたが,観照主義に屈折した。近代評論確立の功は大きい。逍遥と森鷗外との二元的文芸観の調和が文学史上のその使命であった。早大の文芸協会の演劇指導もしたが,女優松井須磨子との恋愛と逍遥との違和から家庭と母校に決別,13年須磨子とともに〈芸術座〉をおこし近代劇の普及に努めた。共著《風雲集》のほか,《新美辞学》《近代文芸之研究》や全集8巻がある。
執筆者:川副 国基
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1871.1.10~1918.11.5
明治・大正期の評論家・新劇指導者。本名滝太郎。旧姓佐々山。島根県出身。東京専門学校卒。「早稲田文学」の記者となって評論活動をする傍ら浪漫的小説を発表。英・独留学後早稲田大学教授。新たに隆盛してきた自然主義文学に理論的根拠を与え,批評面での先頭に立ったが,自然主義衰退後はもっぱら文芸協会で新劇指導にあたり,内紛後は松井須磨子らと芸術座を結成(1913)して活躍した。著書「新美辞学」「近代文芸之研究」。
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…劇団名。(1)第1次は,1913年(大正2)文芸協会を恋愛事件で除名された島村抱月・松井須磨子が創立したもので,モスクワ芸術座の名称を借りたといわれる。須磨子の演目に中山晋平作曲の主題歌を挿入したのが人気を呼び,とくに《復活》(トルストイ原作)の〈カチューシャの歌〉が名高い。…
…そして第1期生の卒業公演にも当たる《ハムレット》上演(1911)から解散の13年にいたるまで,文芸協会は活発な活動を行い,女優松井須磨子らを世に出した。逍遥はシェークスピア劇の移植と歌舞伎の改革を目ざし,また西欧近代を呼吸して帰国した弟子の島村抱月は,イプセンの《人形の家》など,逍遥以上に西欧近代劇の移入に熱心であった。 一方,歌舞伎俳優として初の渡欧体験を持ち,しかし帰国後の革新興行には失敗した2代目市川左団次と,1906年に〈新派〉を失望裡に離れた小山内薫は,共同して09年に自由劇場を創設,試演活動を開始した。…
…イプセンは晩年,この劇は女性解放ではなく人間描写の劇だと言った。日本での初演は1911年の島村抱月の訳・演出によるもので,松井須磨子のノーラが評判になった。【毛利 三弥】。…
…逍遥と森鷗外とのあいだでかわされたいわゆる〈没理想論争〉などをはじめ,〈文学〉に対する理解の未分化な時代に,〈明治文学の嚮導者〉として果たした役割は大きい。98年10月で第1次を終わるが,第2次は島村抱月を中心として1906年1月に始まり,自然主義文学運動の牙城として,その理論形成に貢献した。〈記実〉を旨とする第1次からの基本姿勢は,〈彙報〉を中心に引きつがれ,文学史料としての価値を高からしめている。…
※「島村抱月」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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