日本大百科全書(ニッポニカ) 「福岡荘」の意味・わかりやすい解説
福岡荘
ふくおかのしょう
備前(びぜん)国上道(かみつみち)郡にあった荘園。現在の岡山県瀬戸内市長船(おさふね)町福岡を中心とする地域にあたる。源頼朝(よりとも)は平家没官(もっかん)領として預かっていたが、崇徳院法華(すとくいんほっけ)堂に寄進した。のちにその本家職(ほんけしき)は高倉院・建春門院(けんしゅんもんいん)を本願とする最勝光院(さいしょうこういん)の、また領家(りょうけ)職は一乗院僧正房(いちじょういんそうじょうぼう)の領有となった。1325年(正中2)の最勝光院領荘園年貢の注進状(『東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)』ゆ函)によると、小野法印(おののほういん)なる者が寺務をとったとき、荘内の吉井村は最勝光院、他の部分は一乗院がそれぞれ分割して領有することとなり、吉井村分については、地頭吉井氏の請所(うけしょ)で、年貢は40貫文の定であったが、当時すでに26貫文余に減少していることが記されている。吉井村はのち東寺に施入(せにゅう)されたものと推測されるが、南北朝時代以降の歴史は明らかでない。荘内には鎌倉時代に福岡市(いち)(『一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)』に描写される)や吉井村八日市が開かれ、年貢も早くから銭納された。また福岡刀鍛冶(かたなかじ)の集住地としても著名である。
[佐々木銀弥]