常安寺(読み)じようあんじ

日本歴史地名大系 「常安寺」の解説

常安寺
じようあんじ

[現在地名]宮古市沢田

宮古町の北隅、沢田さわだ打手うつてさわにある。宮古山と号し曹洞宗本尊釈迦如来。「邦内郷村志」によれば華厳けごん院末で、報恩ほうおん(現盛岡市)の支配下にあった。寺伝によると天正八年(一五八〇)華厳院六世三叟義門が和見館間わみたてま一宇を建立したという。これを古常安寺というが、慶長一六年(一六一一)二世嶽翁嶺鷲のとき閉伊へい沿岸を襲った大海嘯で流失。その後よこ町の深山しんざんにあった別当永貞坊長福院の屋敷内に小庵を結んで仏事を続けるが、寛永二年(一六二五)三世角無先牛に至って、代官小本助兵衛・黒田くろた村肝入内蔵之助らの尽力により現在地に再建された(「小本家記録」小笠原文書)

常安寺
じようあんじ

[現在地名]栃尾市谷地二丁目

秋葉あきば山麓にあり、山上に祀られる秋葉神社の入口にあたる。曹洞宗、報恩林清滝山と号し、本尊釈迦如来。寺伝によると、長尾景虎(上杉謙信)の創建で、開山は瑞麟ずいりん寺五世泰簾門察。創建年次は天文一六年(一五四七)とも同二〇年ともいう。同二〇年三月二日付の長尾景虎寺領宛行状(常安寺文書)によると、景虎は当寺開基の験として、秋葉神社別当般若はんにや院の所領財産と栃尾城の麓にあったといわれる法用ほうよう寺の寺領を寄進。

常安寺
じようあんじ

[現在地名]豊山町豊場 木戸

万松山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。弘仁三年(八一二)空海が岡山おかのやま(現名古屋空港域内)の丘山に伽藍を創建し、観音寺と称したのが前身であるという。保元―平治(一一五六―六〇)の頃、兵火にかかり堂宇はみな焼失したといい、丘の南に堂前どうまえ塔の構とうのかまえなどの地名が残る。丘の西には永徳―至徳(一三八一―八七)の頃まで、養梅軒・北野坊・奥野坊・多聞寺などがあったという。その後、当地の城主溝口富之介(助)が亡父蔵田居士菩提のために、応永元年(一三九四)堂宇を今の地に再建し、それまで真言宗であったものを曹洞宗に改め、円通えんつう(現名古屋市)の二世明谷義光を開山とした。

常安寺
じようあんじ

[現在地名]鳥羽市鳥羽二丁目

ノ山の北麓にあり玉竜山と号し曹洞宗。本尊は木造釈迦如来立像。志摩国第一の巨刹で、志摩一円の宗務をつかさどる僧録所であった。慶長二年(一五九七)九鬼嘉隆が建立したとも、同一二年守隆が父嘉隆追善のため建立したとも伝えられる(鳥羽誌)。僧貫室善道を開山とする。現在の本堂は文政九年(一八二六)の再建で、明治一九年(一八八六)の寺籍財産明細帳(当寺蔵)に「慶長十二年守隆両親九鬼大隅守嘉隆公泰叟常安居士、如月貞玉大姉開基」とあり、大福を改めて常安とする。

常安寺
じようあんじ

[現在地名]八戸市櫛引 櫛引

櫛引の東に位置する。広台山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寛保四年(一七四四)の諸寺院寺号山号帳(八戸市立図書館蔵)に「一岩城専称寺末寺櫛引村 広台山蓮花院常安寺」とある。開創年代は不明であるが、慶長年中(一五九六―一六一五)光蓮社恵天が中興開山したとされる(「御領内寺院来由全」同館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「常安寺」の解説

常安寺

三重県鳥羽市にある曹洞宗の寺院。慶長年間の創建と伝わる。山号は玉竜山、本尊は釈迦如来。“海賊大名”と呼ばれた戦国時代武将、九鬼嘉隆を輩出した九鬼家の菩提寺

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