寂光院(読み)じゃっこういん

精選版 日本国語大辞典 「寂光院」の意味・読み・例文・類語

じゃっこう‐いん ジャククヮウヰン【寂光院】

京都市左京区大原草生町にある天台宗の尼寺。山号は清香山。聖徳太子の開基と伝えられる。平家滅亡後、安徳天皇の母建礼門院平徳子がはいり、高倉天皇、安徳天皇の冥福を祈った。慶長年間(一五九六‐一六一五豊臣秀頼の母淀君の本願により片桐且元が修造。本尊は六万体腹籠(ふくろう)地蔵尊

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デジタル大辞泉 「寂光院」の意味・読み・例文・類語

じゃっこう‐いん〔ジヤククワウヰン〕【寂光院】

京都市左京区大原にある天台宗の尼寺。山号は清香山。創建は聖徳太子というが、空海説や良忍説もある。壇ノ浦での平家滅亡後、安徳天皇の母建礼門院が入寺、高倉・安徳両天皇の冥福を祈った所。

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日本歴史地名大系 「寂光院」の解説

寂光院
じやつこういん

[現在地名]左京区大原草生町

三千さんぜん院・来迎らいこう院・勝林しようりん院の西、大原おおはら川を隔てた翠黛すいたい(小塩山ともいう)山麓に位置する。天台宗の尼寺で、寺伝によれば聖徳太子の創建といい、本尊木造地蔵菩薩立像(国指定重要文化財)も太子の作と伝える。平安時代には俗にいう「叡山三千坊」の一であったと考えられ、来迎院・勝林院や今は三千院本堂となった極楽院などと同様、俗人入道たる沙弥・聖の住する念仏別所と推定される。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔建礼門院〕

文治元年(一一八五)建礼門院(平徳子)がこの寂光院の傍らに庵をむすび、壇之浦で滅亡した平家一門とわが子安徳天皇の菩提を弔いつつ日々を過ごしたのも、この地が伝統的な隠棲の地であったことによるものであろう。

寂光院
じやつこういん

[現在地名]金光町大谷

大谷おおたに南方谷間の別所べつしよにある。天台宗で大谷山善勝寺と号する。本尊観音。寺伝では承和六年(八三九)慈覚の開基。末寺として大仙坊・松山坊・南之坊・北之坊・堂山坊・若王寺・嘉面坊の七ヵ寺があったが、元亀―天正(一五七〇―九二)頃兵火に遭い廃絶。第一五世春観によって文禄―慶長(一五九二―一六一五)頃に再興されて今日に至っているという。「備中誌」によれば山林・藪約五町歩を浅尾藩主より拝領し、除地田一町三反歩、寺領高八石余。文化一三年(一八一六)大谷村明細帳(「金光大神」別冊)には寺地五畝四歩、高一斗八升七合、山林五町とある。安政三年(一八五六)の宗門改寺請名歳帳(小野文書)では家数八四・人数四六八。

寂光院
じやくこういん

[現在地名]犬山市継鹿尾 杉之段

継鹿尾つがおの山中中腹にある。継鹿尾山と号し、真言宗智山派。本尊は千手観世音菩薩。寂光院書上によると、白雉五年(六五四)孝徳天皇の勅願により、法相宗の道昭が白鳥山神宮寺として開基。養老二年(七一八)善無意三蔵が来寺して自刻の阿弥陀像を安置し、継鹿尾山八葉蓮台はちようれんだい寺寂光院と改名。中興開山慶源法印の代、永禄八年(一五六五)九月一八日に信長が来寺し、寺領安堵・諸役免除の朱印状を出した。

<資料は省略されています>

慶長一一年(一六〇六)には犬山城主小笠原吉次によって寺領が安堵され、以後歴代の城主に継承された(徇行記)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「寂光院」の意味・わかりやすい解説

寂光院
じゃっこういん

京都市左京区大原草生(おおはらくさお)町にある天台宗の尼寺。山号は清香山(せいこうさん)。寺伝では聖徳太子の開創というが、空海または良忍(りょうにん)が開いたとも伝えられる。本尊は6万体の小像が刻まれた木像地蔵菩薩(じぞうぼさつ)立像で国の重要文化財。1185年(文治1)、壇ノ浦の戦いで平氏滅亡してのち、建礼門院(けんれいもんいん)平徳子(とくこ)(清盛(きよもり)の女(むすめ))が隠棲(いんせい)し、高倉(たかくら)天皇と安徳(あんとく)天皇ほか平家一門の冥福(めいふく)を祈った寺。この女院のわび住まいを見舞うため後白河(ごしらかわ)法王が行幸された故事は、『平家物語』灌頂(かんじょう)巻や謡曲の『大原御幸(おはらごこう)』で名高い。また本堂内にある阿波内侍(あわのないし)(建礼門院の侍女)の張り子の像は、平氏一門の書簡でつくられたという。寺はのちに荒廃したが、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)豊臣(とよとみ)秀吉の側室淀君(よどぎみ)の本願により片桐且元(かたぎりかつもと)が堂宇を再興した。2000年(平成12)5月火災により本堂を焼失、本尊は焼損した。閑寂な仙境で、背後の山には建礼門院の墓所、大原西陵(にしりょう)がある。

[平井俊榮]

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改訂新版 世界大百科事典 「寂光院」の意味・わかりやすい解説

寂光院 (じゃっこういん)

京都市左京区大原にある天台宗の尼寺。寺伝では聖徳太子の創建という。平家滅亡後,建礼門院が当地に隠棲して一門の菩提を弔い,これを哀れんだ後白河法皇が臨幸した平家の哀話は,《平家物語》や能の《大原御幸(おはらごこう)》によって名高い。寺境は閑静で,境内にはいまも《平家物語》にちなむ種々の旧跡が残り,寺の背後に建礼門院陵(大原西陵)がある。本堂には本尊地蔵菩薩のほか,建礼門院木像,平家一門の手紙で造られたという阿波内侍(あわのないし)張子像などが安置されている。
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百科事典マイペディア 「寂光院」の意味・わかりやすい解説

寂光院【じゃっこういん】

京都市左京区大原にある天台宗の尼寺。本尊地蔵菩薩。創建については聖徳太子,良忍等といわれるが確証はない。現在の建物は慶長年間(1596年―1615年)に淀君の願によって片桐且元が再興したものであるが,2000年5月,本堂は焼失した。平家滅亡後,一門の冥福をとむらう建礼門院を後白河法皇が訪れた〈大原御幸〉は《平家物語》の中でも有名な話である。
→関連項目大原京都[市]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寂光院」の意味・わかりやすい解説

寂光院
じゃっこういん

京都市左京区大原にある天台宗の尼寺。開基は聖徳太子と伝えられる。本尊は地蔵菩薩立像で,像内に 3000をこえる地蔵菩薩小像や経典などを納めており (→胎内仏 ) ,1986年国の重要文化財に指定されている。壇ノ浦の合戦後,出家した建礼門院平徳子がこの寺に閉居し高倉天皇ならびに安徳天皇の追善供養をした。堂内にある阿波内侍張り子の像は,平家一門から贈られた書簡でつくったものとして有名。 2000年5月,慶長年間 (1596~1616) に再建されたといわれる本堂が火災で炎上,本尊も焼失した。

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