御館跡(読み)おたてあと

日本歴史地名大系 「御館跡」の解説

御館跡
おたてあと

[現在地名]上越市五智一丁目

信越本線直江津駅の西方約一キロ、国道一八号の陸橋「おたて橋」の北西一帯にある。一帯は住宅がぎっしり立並び館跡の面影はない。わずかに内郭の一部が公園として残されているにすぎない。ここからは春日山かすがやま城跡、国分こくぶん寺三重塔、よね山、妙高みようこう山、火打ひうち山、やけ山などが眺望できる。関東管領上杉憲政(現群馬県藤岡市の平井城主)小田原おだわら(現神奈川県小田原市)城主北条氏康に敗れ、天文二一年(一五五二)に上杉謙信を頼ってきた。謙信は管領の邸宅として館を築造した。建物は敬称をつけて「おたて」と呼称された。弘治年間(一五五五―五八)に竣工したと思われる。以後、御館は上杉憲政の館であったと同時に、戦国大名上杉謙信の政庁として公的に使用された。

明治年間までは、御館跡の周囲に土塁と幅一八―二〇メートルの堀があった。しかし北陸本線敷設工事の際、館跡の南東部分が線路敷と線路盛土用に削られ、それと前後して土塁が崩され、堀が埋められて水田と化した。第二次世界大戦後、御館跡が宅地造成のため埋立てられることになり、昭和三九年(一九六四)より三ヵ年間にわたって発掘調査が実施された。その結果、全国でも屈指の館城跡であることがわかった。発掘調査当時、内郭は畑で周囲の水田より約八〇センチ高かった。郭周囲の土塁は跡形もなくなっていたが、南東隅を除く他の三隅にはわずかではあったが土塁の痕跡が確認できた。

内郭は東西一三五メートル・南北一五〇メートルの四角形で、南北の中軸線は約七度東偏していた。多くの遺物が出土したが、そのうち陶磁器類が圧倒的に多く、金属製品・木器類・石製品なども一部出土した。陶磁器では外来の青磁・染付・白磁・天目・高麗三島や日本製の須恵質陶器・かわらけ・常滑質陶器・黄瀬戸・瀬戸天目・灰釉瀬戸・三島手・唐津・古備前などが出土した。これらは甕・壺・鉢・碗・皿・炉・香炉・硯・水滴・擂鉢・茶碗・灯明皿として使用された。とくに越前焼と珠洲焼の大甕の破片が多かった。船で運ばれたもので、日本海の交易が盛んであったことを物語る。


御館跡
おたてあと

[現在地名]徳山市大字徳山

徳山藩主であった徳山毛利家の居館。ひがし川の西、金剛こんごう(岐山とも雅称する)南麓にあり、跡地は現在徳山公園となっている。

元和三年(一六一七)毛利輝元の次男就隆は都濃つの郡内に三万石の知行地を分知されたが、その居館は初め西豊井にしとよい村の下松くだまつ(現下松市)に定められた。しかし領地の東に偏っていたため慶安元年(一六四八)には野上のがみに移転することを幕府に出願し、認可を受けて建築に着手した。


御館跡
おやかたあと

[現在地名]神岡町殿

高原諏訪たかはらすわ城跡北端遺構の山麓しも館跡の北西一キロに位置する。「飛州志」には「江馬之御館」とみえ、永禄七年(一五六四)武田信玄の武将山県三郎兵衛昌景が越中侵攻の足場とするため、江馬氏に縄張りさせ築いたと伝える。また殿との村の野尻のじり東町ひがしまち村境にあることから野尻城・東町城ともよばれる。江馬氏滅亡後、天正一六年(一五八八)金森氏が高山城の支城として御館跡を改築整備した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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