払川村(読み)はらいがわむら

日本歴史地名大系 「払川村」の解説

払川村
はらいがわむら

[現在地名]若松区払川

竹並たけなみ村の南に位置し、南辺を川が流れる。東は頓田とんだ村、西から北西蜑住あまずみ村、江川を隔てて南は本城ほんじよう御開おひらき(現八幡西区)塩屋しおや村。集落は本村と枕崎まくらざきの二ヵ所で(続風土記拾遺)、枕崎を唐津街道が通る。祓川とも記した。貞享―元禄年中(一六八四―一七〇四)竹並村蜑住村地先にあたる洞海どうかい湾の最奥部、江川の洞海湾への開口部付近を埋立てて成立した新田村で、蜑住村の枝郷として扱われた。本城村・塩屋村境の枕崎の土石を用い、十数町にわたって堤を築き、その北側を新田としたといい(続風土記)、開発の年次は貞享四年ともいう(「元禄絵改正帳」森家文書)。元禄国絵図に「蜑住村枝郷払川村」とみえ、田圃志では蜑住村のうちの新開分(田高四五石余)が当村に相当すると思われる。安永年中(一七七二―八一)には「水引」のため西は穴倉から、東は二島ふたじま村鷲田尻まで、長さ七六一間の新溝が開削され、二ヵ所に閘を設置している(続風土記拾遺)


払川村
はらいがわむら

[現在地名]上川村払川、津川つがわ雲和田くもわだ

阿賀野川の支流姥堂うばどう川を挟む集落。「新編会津風土記」に家数一〇、西の端村西山にしやまは四、北西の同雲前うんぜん(現雲和田)は一三とある。雲前はもと雲前寺うんぜんじ村であったが、寛文年中(一六六一―七三)に寺の一字を省き、のちまた旧名に復する。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「西山 八十石六斗八升」とあり、元禄郷帳では払川村とある。元和六年(一六二〇)の漆木役は二四本(津川旧記)


払川村
はらいがわむら

[現在地名]大内町三川さんかわ

いも川の下流右岸にあり、東は徳沢とくさわ村、西は岩谷町いわやまち村に接する。

慶長一七年(一六一二)の進藤但馬守某日野備中守某連署状に村名がある。寛永二年(一六二五)の油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写には高一二七石二斗一升六合、納米七二石五斗一升三合、免五ツ七分とある。正保三年(一六四六)の出羽国油利郡内高目録(秋田県庁蔵)に一四六石六斗七升八合とあり、そのうち畑は一石七斗で、「旱損所」とあり、水利に恵まれず干害を受けやすかった。明治二年(一八六九)の郷村高戸数人口租税書(岩谷村史資料篇)には高一二七石五斗九升四合とある。


払川村
はらいかわむら

[現在地名]中央町払川

山々で四方を囲まれ、中心部を釈迦院しやかいん川が流れる。払川の地名は釈迦院川にちなむ「祓川」とする考説もある(国誌・町誌中央)。東は川に沿ってのぼれば坂本さかもと村、西は山を境に八代郡下岳しもだけ(現泉村)、南は管の谷くだのたにを経て同郡柿迫かきざこ(現泉村)に至り、北は木早河内きそがわち村・椿つばき村と接する。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高一五三石一斗余、うち田方一〇一石五斗余・畠方五一石六斗余。中山手永に属し、「国誌」に「菅谷村ヲシ村下谷村桑鶴村等ノ小村アリ」とある。


払川村
はらいかわむら

[現在地名]南淡町灘払川なだはらいかわ

円実えんじつ村の北にある。北から西にかけての諭鶴羽ゆづるは山系稜線部を境に新田北しんでんきた村・上本庄かみほんじよう村と接し、南東は油谷ゆだに村に隣接した山地にある。天正一四年(一五八六)一一月三日の淡路国御蔵入目録にみえる「なだ」一〇三石六斗のうちに含まれ、正保国絵図下灘しもなだ一二ヵ村の一として村名がみえる。同絵図には油谷村から山間を抜けて本庄村へ向かう牛馬が通れる二里の間道が描かれる。


払川村
はらいかわむら

[現在地名]杵築市船部ふなべ

杵築城下より島原藩領高田たかだ(現豊後高田市)への波多方はだかた往還に沿った小村で、波多方峠の南麓に点在し、傾斜地にわずかの段々畑を耕す。小倉藩慶長人畜改帳では木付上きつきかみ庄に属し、はらい川村とみえ、家数二・人数四(うち本百姓一)、牛一とある。小倉藩元和人畜改帳では高三六石余、家数一・人数四(うち本百姓一)、牛一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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