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鎌倉時代の真言宗の僧で,宗内で邪説とされている立川流(たちかわりゆう)の大成者。名を弘真といい小野僧正ともいわれる。播磨国法華山一乗寺で天台を,奈良で法相,三論を学び,また算道,呪術にも通じていた。さらに醍醐寺報恩院道順より灌頂(かんぢよう)を受け真言を修める。特に伊豆の仁寛を始祖とした男女二根交会による即身成仏を唱える立川流を主唱した。後醍醐天皇の帰依を受け,醍醐寺座主,天王寺別当に補任された。1327年(嘉暦2)中宮懐妊の祈禱の折,関東調伏(ちようぶく)の秘法を修したといわれ,31年(元弘1)の元弘の変では関東調伏の祈禱のとがで日野俊基(ひのとしもと)らとともに鎌倉へ送られ,硫黄島へ流された。33年鎌倉幕府滅亡により許され,再び天王寺別当となる。以後,後醍醐天皇の信任厚く,東寺長者・法務を歴任し大僧正となり,《太平記》巻十二によれば数百騎の兵を従えて参内するほど豪勢を極めた。南北朝分裂以後,後醍醐天皇とともに吉野へ下り,42年(興国3・康永1)逆徒退治の護摩を修している。51年(正平6・観応2)足利氏の内訌から足利尊氏が一時南朝に降服したため,11月後村上天皇の命で東寺一長者に還補されたが,翌年職を辞して再び吉野に下り,南朝興隆のための運動を行う。57年10月9日河内国金剛寺大門往生院にて入滅。
執筆者:大石 雅章
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…この平家落人伝説は1773年(安永2)薩摩藩へ提出された《平家没落由来記》以後知られることとなった。1331年(元弘1)北条氏調伏の罪で文観が本島へ配流され,4年後赦免された(《太平記》)。【三木 靖】。…
…また天皇による祈願寺の設定も討幕計画の成就を祈念したものとされる。しかし31年4月この企ても天皇の身の安泰を憂慮した重臣吉田定房の通報するところとなり,幕府の使者長崎高貞,南条高直は六波羅探題を指揮して直ちに首謀者の逮捕を開始して,日野俊基・文観・円観・仲円・智教・遊雅を検挙した。このとき幕府の追及は直接天皇におよばなかったが,同年8月天皇と数人の公卿が突如宮廷を脱出,山城の笠置城にたてこもった。…
…仁寛は女犯によって伊豆に流されたが,同じころ,真言勧修寺流を受けた四天王寺の別当真慶(しんぎよう)も盛んに女犯の是認を説いた。鎌倉末期,後醍醐天皇の護持僧文観(もんかん)は真慶の印信書籍を筆写し,仁寛秘法の印契を会得して立川流を大成,秘法を天皇に伝えて寵を得たというが,その真否は定かでない。だが,中世の天台・真言両宗では清僧は少なく,女犯や男色が僧侶のなかで盛んだった。…
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