新宿(読み)シンジュク

デジタル大辞泉 「新宿」の意味・読み・例文・類語

しんじゅく【新宿】

東京都の区名。昭和22年(1947)四谷・牛込・淀橋の3区が合併して発足。江戸時代甲州街道青梅おうめ街道の分岐点の宿駅(内藤新宿)の名をとった。新宿駅を中心に副都心として発展し、駅西側には超高層ビルが林立する。平成3年(1991)新都庁庁舎が完成し移転。人口32.6万(2010)。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「新宿」の意味・読み・例文・類語

しん‐じゅく【新宿】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙 ( 「しんしゅく」とも ) 新たに設けられた宿場。新しい宿場。
    1. [初出の実例]「海道可立新宿事、度々雖其沙汰、未遵行之由」(出典:吾妻鏡‐建暦元年(1211)六月二六日)
  2. [ 2 ]
    1. [ 一 ] 東京都二三区の一つ。昭和二二年(一九四七)四谷・牛込・淀橋の三区が合併して成立。武蔵野台地東端の淀橋台地にある。江戸時代、東半部には武家屋敷が多く、現在は住宅地となる。東京都庁などの高層ビル街や、新宿御苑神宮外苑があり、早稲田大学などの文教施設も多い。
    2. [ 二 ] ( 甲州街道の日本橋と高井戸宿との間に元祿一一年(一六九八)新しく設けられた宿駅であるところから ) 東京都新宿区南西部の地名。一~七丁目に分かれる。江戸時代は甲州街道の宿駅、内藤新宿として知られた。中央本線の開通・私鉄の乗入れにより、大正末期から繁華街として急速に発展した。
    3. [ 三 ] JR・私鉄の一大ターミナル新宿駅を中心とする地域の呼称。新宿駅の乗降客数は日本一。都庁も置かれ、東京都の新都心として発展している。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「新宿」の解説

新宿
しんじゆく

駅ターミナルの繁華街として、この一世紀半近くで、新宿は首都東京のなかでもっとも激しい変化を重ねた盛り場の一つである。江戸以来の盛り場浅草が席を譲った銀座にかわり、新宿が駆抜けた道程は日本の高度経済成長史そのものである。

現在、JR新宿駅を取囲むこの地域の象徴は、駅西口の超高層ビル街、東口の繁華街歌舞伎かぶき町、新宿御苑などであるが、その原点は江戸時代甲州道中沿いの宿場町四谷にかわって新たに開かれた内藤新宿にあった。幕末維新期に武士・旅人・小商人などの往来、駄馬の付通しなどがみられ、武家地や町屋などに旅籠・茶屋なども混じり、賑いをみせてきた江戸近郊の街道筋も、明治四年(一八七一)に宿駅伝馬制度が廃止されると、馬子たちの稼業を除けば衰退する一方であった。広大な面積を占めていた内藤家(信濃高遠藩)の武家屋敷地が明治新政府に収公され、日本最初の官立農業試験場の用地に転用された。同五年の設立当時、内藤新宿試験場とよばれた同勧農施設は内務省の所管のもとに果樹・穀物栽培、製糸・畜産の技術改良を担当、とくに洋種穀菜類の輸入・試植を進めて成果を収めた(その後、同施設は新宿御苑となり、昭和三三年に一般に開放された)。寂れた近郊の場末町新宿回復の契機になったのは、明治一八年、日本鉄道品川線(現JR山手線の一部)の一駅として、新宿駅が開設された頃からである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「新宿」の意味・わかりやすい解説

新宿(区)
しんじゅく

東京都区部のほぼ中央にある区。1947年(昭和22)牛込(うしごめ)、四谷(よつや)、淀橋(よどばし)の3区が合併し、旧淀橋区内の中心地、新宿の名をとって新宿区が成立した。武蔵野(むさしの)台地の一部である淀橋台地上にあるが、四谷、牛込の台地に比べてより古い時代に形成され、標高もすこし高い。南北方向にJR山手(やまのて)線・埼京線、東西方向にJR中央線・総武(そうぶ)線・中央本線が通り、東京地下鉄東西線・丸ノ内線・有楽町線・南北線・副都心線、都営地下鉄新宿線・大江戸線、都電荒川線の各線が通じる。また、小田急電鉄小田原線、京王電鉄京王線、西武鉄道新宿線が走る。新宿はこれら各線の交点としての位置にある。道路では首都高速道路4号新宿線・5号池袋線・中央環状線、国道20号線が区内を通る。

 江戸城外濠(そとぼり)の西側にあり、外濠に近い牛込神楽坂(かぐらざか)や市谷(いちがや)、四谷の地区は、武家屋敷や町屋があり、人口もかなり密集していたが、西方へ行くにつれて郊外の農村で、さびしい雑木林や田畑の地域であった。現在の四谷4丁目あたりに甲州街道筋(すじ)の四谷大木戸があり、夜は門が閉じられて通行が原則的に許されず、当時の江戸の町並みは、この大木戸までであった。新宿が宿場町となったのは名のように遅れて成立、高遠(たかとお)藩主内藤(ないとう)家の屋敷地(現、新宿御苑(ぎょえん))は広大なものであり、屋敷の一部を宿場町とした。明治維新後、一時荒廃するが、四谷や神楽坂は山手随一の繁華街として栄え、関東大震災後は、さらに西方へ住宅地が拡大した。長く水田地帯であった神田川(かんだがわ)右岸の低湿地は、工業地区となり、神田から移転してきた染物工場をはじめ、薬品、包帯などの工場が立地するようになった。さらに印刷・製本業も発達、現在では機械、金属、化学、精密機械、情報関連産業などが加わっている。新宿は中央線沿線の住宅地化に伴い、ターミナルの繁華街として発展を遂げる。第二次世界大戦後、戸山町、百人町などに高層住宅が建ち、人口は増加するが、都心に接して事務管理機能の施設が増えるのに伴い、郊外への住宅移転が目だち、人口が1965年(昭和40)の41万を境に1980年34万、1995年約28万人と減少したが、その後は増加に転じている。なお、新宿駅の東側に比べ西側は、淀橋浄水場があって開発が遅れていたが、1965年(昭和40)の浄水場移転を契機として新宿副都心建設計画が進められ、超高層建築が林立、金融、保険など大企業のオフィスやホテルなどが立地する所となり、1991年(平成3)4月新都庁舎が完成、都庁が千代田区丸の内から移転してきた。新宿駅周辺には百貨店、大型小売店、飲食店、娯楽産業などが集中、都内有数の繁華街となっている。新宿の発展に比べ、神楽坂や四谷は近隣の繁華街に変じ、地位の低下が目だっている。

 新宿御苑は広大な国民公園で、大温室やフランス式庭園で知られる。その南東は明治神宮外苑で、国立競技場、明治神宮聖徳(せいとく)記念絵画館などがある。市谷の尾張(おわり)藩上屋敷跡は、陸軍士官学校、国際軍事裁判所を経て現在は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地となっている。四谷駅北西の三栄町に新宿歴史博物館(区立、1989年開館)がある。戸山の学習院旧正門は国指定重要文化財。北西部の早稲田大学(わせだだいがく)は1882年(明治15)大隈重信(おおくましげのぶ)らが創設、そのほか、東京理科大学東京女子医科大学、慶応義塾大学医学部附属病院などがある。面積18.22平方キロメートル、人口34万9385(2020)。

[沢田 清]

『『新修新宿区史』(1967・新宿区)』『『新宿区史』(1998・新宿区)』



新宿(しんじゅく)
しんじゅく

東京都新宿区の南西部、JR新宿駅を中心とする地域。町名としては新宿1~7丁目、西新宿1~8丁目、北新宿1~4丁目などがある。新宿駅にはJR山手(やまのて)線・中央線・総武(そうぶ)線・埼京線・中央本線・湘南(しょうなん)新宿ライン、京王電鉄京王線、小田急電鉄、西武鉄道新宿線、および東京地下鉄丸ノ内線、都営地下鉄新宿線・大江戸線(12号線)が集中し、JR新宿駅は日本最大の乗降客数(乗車人員1日平均79万人、2007年)の駅となっている。武蔵野(むさしの)台地にあり、西端に神田川(かんだがわ)(旧、神田上水)が流れる。

 1604年(慶長9)五街道の一つの甲州街道が整備されたが、当時は日本橋からの最初の駅は高井戸(杉並区)であった。その間は約16キロメートルもあって不便なので、1698年(元禄11)その中間に新しく宿駅を設けることになり、信州(長野県)高遠(たかとお)藩主内藤(ないとう)氏の下屋敷の一部を宿駅としたので内藤新宿とよばれた。ここは甲州街道と青梅街道(おうめかいどう)が分かれる追分(おいわけ)(現在、その地点に「追分だんご」の店がある)であり、品川、板橋、千住(せんじゅ)とともに江戸四宿の一つとして栄えた。宿場は現在の新宿御苑(ぎょえん)の北側にあたり、成覚(じょうかく)寺は当時の遊女の投げ込み寺で、内藤氏の菩提(ぼだい)寺太宗(たいそう)寺には旅人の無事を祈る六地蔵の一つが残る。

 1885年(明治18)日本鉄道会社線(現、JR山手線)、1889年甲武鉄道(中央本線)が開通した。新宿の発展は関東大震災後からで、現JR中央線、小田急電鉄線(1927年開通)、京王電鉄線(1916年開通)沿線の急激な住宅地化により、そのターミナルとして、麹町(こうじまち)から四谷(よつや)を経て新宿が盛り場となり始めた。デパートは1926年(大正15)布袋(ほてい)屋(1935年伊勢丹(いせたん)に合併)、1929年(昭和4)三越(みつこし)が開業(2012年営業終了)、映画館、劇場も相次いで開かれた。第二次世界大戦後、西郊の都市化はいっそう激しくなり、巨大な人口を擁する後背地をもつ新宿の発展は著しくなった。戦災で焼失した新宿駅北方の地の一角を1948年(昭和23)歌舞伎町(かぶきちょう)と命名して、新宿コマ劇場(2008年末に閉館)をはじめ映画館、劇場、飲食店街など一大アミューズメントの地区とした。この南東端に酉(とり)の市が立つ花園神社(はなぞのじんじゃ)、旧都電の軌道跡に設けられた全長260メートルの遊歩道公園(モール)の「四季の路(みち)」がある。1970年代には銀座を抜いて日本最高の地価が駅東口に出現した。南東の新宿御苑は広大な国民公園である。駅西側の西新宿の十二社熊野神社(じゅうにそうくまのじんじゃ)には弁天池があり、門前には大正時代以降十二社花柳界が栄え、1950年代には天然温泉も掘られた。1904年(明治37)淀橋浄水場(よどばしじょうすいじょう)が設置され、東側に比べ発展が遅れていた。しかし1965年浄水場を東村山市に移転し、その周辺約96万平方メートルを新宿副都心とする都市再開発が計画された。1971年京王プラザホテルが建てられて以来、超高層ビルが林立し、1991年(平成3)には新都庁舎が完成して都庁が移転、一帯は新宿中央公園とともに東京の新名所となっている。

[沢田 清]

『清水馨八郎編『新宿副都心研究』(1964・副都心研究会)』『芳賀善次郎著『新宿の今昔』(1970・紀伊國屋書店)』『『新宿と石造文化』(1970・新宿区)』



新宿(にいじゅく)
にいじゅく

東京都葛飾区(かつしかく)のほぼ中央、中川の左岸にある地区。旧水戸街道と佐倉街道の分岐点で、新しくできた宿場が地名の由来。中川橋は1884年(明治17)旧水戸街道に架けられた橋で当時は有料で町の収入とした。JR常磐(じょうばん)線開設の際、駅をつくることを忌避、また京成電鉄も南方へ避けたため、町は衰退した。北側に製紙、化学の工場があり、南西部には日枝(ひえ)神社など寺社が多く、鍵(かぎ)形をした江戸時代の道が残っている。

[沢田 清]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「新宿」の意味・わかりやすい解説

新宿 (しんじゅく)

東京都新宿区南西部の地名。JR新宿駅の周辺地区で新宿,西新宿,北新宿の町名がある。1698年(元禄11)高遠藩主内藤氏の下屋敷に甲州道中の宿駅として内藤新宿が設けられた。新宿追分(おいわけ)からは甲州道中の脇往還である青梅(おうめ)街道も分岐し,品川,千住,板橋と並ぶ江戸四宿の一つとして栄えた。

 1885年(明治18)赤羽と品川を結ぶ日本鉄道(現,山手線)新宿駅が設けられ,89年には甲武鉄道(現,中央線)が開通した。関東大震災以後,東京西郊の都市化が急速に進んだが,当時中央線は,西郊から都心に乗換えなしに行ける唯一の鉄道であり,さらに昭和に入って小田急,京王(追分発),西武(高田馬場~東村山)などの私鉄が集中したため,新宿は都内有数の繁華街に成長した。特に新宿駅から追分にかけては,三越新宿店,伊勢丹などのデパート,武蔵野館,新歌舞伎座(後に第一劇場)などの映画館,劇場が並び,パリのボードビルを地でいくムーラン・ルージュやバー,カフェに客が群れ,昭和初期の不景気風を吹き飛ばすほどの活気にあふれていた。

 第2次大戦直後,駅周辺には闇市が集まり,東口の中村屋横にできた〈ハモニカ横丁〉ではカストリ焼酎が売られ,〈カストリ文化〉の名も生まれた。闇市時代のおもかげは西口大ガード付近に残っている。戦後の復興も東口が中心であったが,その北側に歓楽街としての歌舞伎町が発達し,多くの人をひきつけるようになった。新宿コマ劇場をはじめとする映画街,ゲーム・センター,キャバレー,飲食店などの各種の娯楽・風俗営業がこの区域に集中している。1952年には西武新宿駅がつくられ,地下鉄では営団(現,東京地下鉄)丸ノ内線,都営新宿線(京王新線)が開通し,75年には巨大な地下街サブナードも誕生した。駅の西口もオフィス街へと変化しはじめ,特に60年に決定した〈新宿副都心建設計画〉により,65年に淀橋浄水場が閉鎖され,翌66年には立体的な新宿駅西口広場が完成した。淀橋浄水場跡には新宿中央公園と,ホテルなど30階をこす超高層ビル群が建ち並び,91年には東京都庁の新庁舎(第1,第2庁舎と議会棟)が完成して大オフィス街となり,現代日本の都市文明を代表する景観となった。さらに西側の京王新線初台駅近くには東京オペラシティビル(54階建)と新国立劇場が開設された。また96年10月には駅の新南口に高島屋新宿店を中心としたタカシマヤタイムズスクエアが開店,駅周辺の伊勢丹,小田急,京王,三越などとの集客競争が始まった。さらに都営地下鉄大江戸線,東京地下鉄副都心線も開通。行政上の新宿区は,1947年3月の区再編成により,淀橋,牛込,四谷の3区が合体して成立した。2010年の区部の人口は32万6309。ほかに区内には,新宿御苑,明治神宮外苑(国立競技場,神宮球場など),陸上自衛隊市谷駐屯地(尾張徳川家上屋敷跡),早稲田大学などがある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「新宿」の意味・わかりやすい解説

新宿[区]【しんじゅく】

東京都の特別区。都庁所在地。1947年牛込四谷淀橋の3区が合併して成立。神田川などに開析された山手の台地上にあり,住宅地,学校が多い。神楽坂高田馬場などの地区も含む。日本橋から高井戸宿までが長かったため,元禄のころ甲州・青梅(おうめ)両街道の追分に新宿を設けたのに始まり,内藤新宿と呼ばれて江戸四宿の一つとして繁栄。1885年日本鉄道会社線(山手線),1889年甲武鉄道線(中央本線)が開通して新宿駅を中心に発展,第2次世界大戦後は池袋,渋谷とともに大型百貨店の集中する大繁華街を形成。小田急電鉄,京王電鉄京王線,西武新宿線,東京メトロ丸ノ内線・副都心線,都営地下鉄新宿線・大江戸線などが通じるターミナルでもある。1960年に出された〈新宿副都心計画〉により,駅西口の淀橋浄水場が1965年に閉鎖され,跡地には30階をこす多くの高層ビルが建設され,新都心として発展し1991年都庁舎,1996年東京オペラシティが完成した。1996年には南口に高島屋百貨店が開店し,大きく変化した。新宿御苑,神宮外苑,防衛省,早稲田・東京理科・東京医科・東京女子医科などの大学,国立国際医療センターなどがある。18.22km2。32万6309人(2010)。
→関連項目青梅街道東京女子医科大学東京理科大学早稲田早稲田大学

新宿[駅]【しんじゅく】

東京都新宿区にある,1日の乗降人員数が日本で最も多い駅。JR各線のほか,東京メトロ,都営地下鉄,小田急電鉄京王電鉄が乗り入れ,東京近郊のみならず日本を代表する巨大ターミナル駅である。1885年開業。東口には歌舞伎町をはじめとした歓楽街や多くの商業施設が集中し,西口には東京都庁を筆頭に超高層ビルの林立するオフィス街が形成され,利用客が集中する要因となっている。南口に面する甲州街道南側に位置していたかつての貨物扱い施設跡地は再開発が進み,新たな商業施設が建設された。また跡地の一部にはホームも増設され,駅施設は区境界を踏み越えて渋谷区にまで拡大している。隣接地には長距離バスターミナルがあり,年々発着路線が増加した結果,東京駅八重洲南口や浜松町,新宿西口などと並んで都心を代表する一大バスターミナルに成長した。将来,甲州街道南側一帯に人工地盤を築造し,これらバスターミナルを移築する計画がある。1日平均乗車人員は74万2833人(2012)。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「新宿」の意味・わかりやすい解説

新宿
しんじゅく

東京都新宿区南西部の地区で,新宿駅を中心とした繁華街。 JRの総武線,中央線,山手線や地下鉄の各線が交わり,京王電鉄,小田急電鉄,西武鉄道の諸私鉄の起点として交通の一大ターミナルをなす。江戸時代,甲州街道と青梅街道の分岐点として,内藤新宿の宿場町が発展。関東大震災後,中央線沿線の西郊住宅地を背景に,東京西部の商業中心地となった。デパートや専門店,劇場,飲食店が集中。駅の西側にあるかつての淀橋浄水場の広い敷地跡には東京都庁をはじめとする,超高層ビルが林立し,道路や公園も整備されている。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の新宿の言及

【新町[町]】より

…【千葉 立也】
[新町宿]
 烏川と神流川の合流点に位置する中山道の宿駅。1651年(慶安4)に落合村(旗本領)と笛木村(天領)が合体して宿が形成され,元禄(1688‐1704)ころまでは新宿(しんしゆく)といわれた。宿高163石余,宿並み11町38間(1267m),定人馬25人・25疋,伝馬屋敷89軒半。…

【内藤新宿】より

…江戸の北西部,武蔵国豊島郡に設置された甲州道中の宿駅で,江戸周辺の品川(東海道),千住(日光道中),板橋(中山道)とともに四宿と呼ばれた。現在の新宿区新宿1~3丁目一帯。江戸浅草阿部川町の名主喜兵衛ほか4人の出願によって1698年(元禄11)に置かれた新しい宿駅である。…

※「新宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

ビャンビャン麺

小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...

ビャンビャン麺の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android