桝屋町
ますやちよう
霊山道南側に位置。天保二年(一八三一)刊「京都巡覧記」に「高台寺南之町東へ行 升屋町 真すく霊山道」と位置関係を示す。北は高台寺境内、東は清閑寺霊山町(もと清閑寺村)、南は轟川の流路を挟んで清水三丁目、西は八坂上町。
「京都府地誌」は「元八坂社領ノ畑地、宝暦十年、桝屋喜兵衛ト云ヘル民、家敷地トス、故ニ称」と記し、「坊目誌」は「宝暦八年、桝屋喜兵衛なる者、官の許可を得て之を開拓し屋地と為す」とし、時期に小異がみえる。
桝屋町
ますやちよう
南北に通る富小路通の両側町で、北は丸太町通(旧春日小路)、南は竹屋町通(旧大炊御門大路)。
平安京の条坊では左京二条四坊四保一三町東側、平安中期以降は春日富小路の南西にあたる。
鎌倉時代には、「此日依御方違幸左大臣大炊御門富小路亭、余摂政之後、依為初度行幸、騎馬供奉、(中略)其路自洞院西大路北行、自二条大路東行、自洞院東大路北行、自大炊御門大路東行、富小路ヲ北ニ折テ、至左大臣亭東面四足門」(「玉葉」文治二年四月七日条)とあり、富小路に東面して正門を開く藤原経宗の大炊御門富小路亭があった。
桝屋町
ますやちよう
東西に通る三条通(旧三条大路)を挟む両側町。中央を堺町通が、東側を柳馬場通(旧万里小路)、西側を高倉通(旧高倉小路)が南北に通る。
平安京の条坊では、左京三条四坊二保五町南及び同四条四坊一保八町北。平安中期以降は三条万里小路西。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「舛や丁」とあり、以後変化はない。宝暦(一七五一―六四)頃北側・南側二町に分れていたもののようであるが(京町鑑)、明治には合一した。
この町は、「京雀跡追」に「むしりわた 三条たかくら東西」とあって、江戸時代初期以来、綿仲買、綿商人が盛況であった。
桝屋町
ますやちよう
堀川通西側の町。現在は道の拡幅で町の東部は堀川通(旧堀川小路)に含まれた。北側は下長者町通(旧鷹司小路)、南は出水通(旧近衛大路)。平安京の条坊では左京一条二坊一保七町東の地で、官衙町の一つ「使庁」の東の跡地(拾芥抄)。平安中期以降は鷹司小路堀川小路南の地。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「舛屋町」と書かれ、寛永一八年以前平安城町並図には「なら物や丁」、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」で「升屋町」と出る。
桝屋町
ますやちよう
[現在地名]伏見区西桝屋町
山村町の南、鑓屋町の北。「豊公伏見城ノ図」には、南北路の東西両側に町家地が並び、その東側町家裏には、北から酒井五郎兵衛屋敷と威徳院という寺、西側町家裏には野村三十郎屋敷が記される。
直違橋三丁目と同様、京都・伏見間の交通要衝地にあたり、墨染横町か山村町のいずれかを通るにしても、必ず桝屋町を経過する。
桝屋町
ますやちよう
上京区河原町通丸太町上ル
南北に通る河原町通の両側町で、南は丸太町通。
「小右記」寛仁二年(一〇一八)にみえる「陰陽頭文高宿禰ノ寺中御門末」は、この町の辺りにあたるといい、また寛永版平安城東西南北町並之図に「舛や丁」とみえる。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「升屋町北組、南組」、天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成には「升ヤ丁北、南」と現れるが、文政三年(一八二〇)の上京軒役付帳では「升屋町」と一町で記されている。
桝屋町
ますやちよう
南北に通る麩屋町通を挟む両側町。町の北側は錦小路通に面する。
平安京の条坊では、町の西側は左京四条四坊三保一二町の東側、同東側は同保一三町。
町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「むさし町」、寛永一八年以前平安城町並図でも変わらず、寛文後期洛中洛外之絵図で「舛屋町」となり、以後「ますや町」(京すゞめ案内者)、「桝屋町」(宝暦一二年刊「京町鑑」)となる。
桝屋町
ますやちよう
南北に通る御幸町通を挟む両側町。
平安京の条坊では左京五条四坊三保一三町、平安時代中期以降は高辻京極大路西の地。当町を中心とする辺りには、歌人藤原俊成の邸宅があった。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「五条舛屋町」、寛永以後万治以前京都全図には「舛や町」とみえる。
桝屋町
ますやちよう
中京区釜座通丸太町下ル
南北に通る釜座通を挟む両側町。
平安京の条坊では左京二条三坊一保二町の地。平安京の官衙町「神祇官町」の地にあたる(拾芥抄)。
町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「舛屋町」とあり、以降筆描図系では変化はない。木版図系では寛永一八年以前平安城町並図は「かこや丁」とあり、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「舛屋町」と記す。
桝屋町
ますやちよう
東西に通る笹屋町通の両側町。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「舛屋丁」と出、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には「升屋町」と記される。京都御役所向大概覚書によれば、当町に町絵師がいた。また、近江屋喜兵衛の弟子で当町にいた近江屋とくが年季があけて慶応二年(一八六六)「縮ミ縮緬仲間」に入った時の文書「株加入一札之事」(「諸証文之扣」西陣織物館蔵)によれば、仲間への加入料は銀三枚、酒二升二樽であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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