永興寺(読み)ようこうじ

日本歴史地名大系 「永興寺」の解説

永興寺
ようこうじ

[現在地名]岩国市横山一丁目

横山の寺谷よこやまのてらだに、いま紅葉谷もみじだにと称する地にある。これは城下町完成後、再建時の寺地で、中世には横山の中央部にあったと思われる。臨済宗天龍寺派であったが現在は単立。

元禄八年(一六九五)の「寺社記」に「当山開基、花園院御宇延慶年中、大内弘幸開建之、請仏国々師開山住持、弘幸法名永興寺殿前本州別駕寒岩妙厳大居士、依之為当山寺号」とあり、大内氏の始祖とされる琳聖太子が百済国より持来の不動明王を本尊とし、不動山と号したという。


永興寺
ようこうじ

[現在地名]大田原市福原

福原ふくわら集落南方丘陵上にある。福久山栄隆庵と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。建久元年(一一九〇)創建と伝え、開基は那須久隆という。久隆は福原氏を名乗り当地に菩提所を建立し、福原山栄隆庵とした。同庵の開山は天台僧為蔵であったことから、創建当初は天台宗寺院であったと考えられる。永禄六年(一五六三)福原資孝が佐久山義隆を滅ぼして居をその旧領佐久山さくやまに移すにあたり、当寺にあった福原氏祖久隆より一三代資郡までの墓所を佐久山実相じつそう院に移し、同院を福原氏の菩提所とした。資孝は天正一二年(一五八四)大田原光真こうしん寺より花岳正を当寺に招き、福久山永興寺と改め、曹洞宗寺院として再興したという。


永興寺
ようこうじ

[現在地名]日田市城町二丁目

花月かげつ川左岸にある。慈眼山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。延久三年(一〇七一)郡司大蔵永季が父永興の菩提を弔うために創建、さらに永福田寺も建立、新羅の僧智元を開基としたという(豊後国志)。平安時代後期とされる木造兜跋毘沙門天立像・木造毘沙門天立像、文治三年(一一八七)銘の木造毘沙門天立像、鎌倉期の木造十一面観音立像、元亨元―二年(一三二一―二二)に奈良興福こうふく寺の仏師康俊作と刻む胎内銘のある木造四天王立像が伝えられており、いずれも国指定重要文化財。明徳二年(一三九一)九月二八日の西大寺末寺帳(極楽寺文書)に日田永興寺とみえ、当時は真言律宗系寺院であった。


永興寺
えいこうじ

[現在地名]瀬高町大草

瀬高町東端に近い古僧都こそうづ北西方にある。巨泉山仏頂ぶつちよう院と号し、天台宗。本尊は千手観音。寺号は叡興寺とも記された。開山は貞観二年(八六〇)比叡山の僧某といわれるが不詳で、中世についてもつまびらかではない。慶長六年(一六〇一)尊隆により中興され、田中吉政から寺領六〇石を寄進され、次いで元和七年(一六二一)に立花宗茂からも寺領を寄進されたという。延宝九年(一六八一)の知行取無足扶持方共(隈部家文書)の寺社領并諸御合力米の項に巨泉山は高六〇石とみえ、ほかに巨泉山正光坊に合力米として二石二斗が与えられていた。


永興寺
ようこうじ

[現在地名]成田市寺台

保目山と号し、曹洞宗。本尊は延命地蔵。応永五年(一三九八)寺台てらだい城主馬場氏の室藤松女が開基、同二三年丹波国から陳庭顕琳を招き開山したと伝える。寛永一〇年(一六三三)の龍穏寺本末帳に「下総国養興寺」と誤写されてはいるが寺名がみえる。享保八年(一七二三)の寺院書上帳(小倉家文書)によると、三三年に一回の開帳を行う十一面観音堂境内にあり、また当寺が管理する天神宮の鳥居は寛永元年に領主の旗本小野次郎右衛門忠明が建立したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「永興寺」の解説

永興寺

福岡県みやま市、古僧都山の北西に位置する天台宗の寺院。山号は巨泉山、院号は仏頂院。本尊は千手観世音菩薩。

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