福原村(読み)ふくはらむら

日本歴史地名大系 「福原村」の解説

福原村
ふくはらむら

[現在地名]郡山市富久山町福原ふくやままちふくはら

久保田くぼた村の北、阿武隈川西岸平地に立地。奥州道中の宿駅。永享一一年(一四三九)頃のものと推定される安積三郷田地注文(相殿八幡文書)に、中郷のうちとして「福原 十丁」とみえる。天文一五年(一五四六)六月、伊達稙宗方の畠山義氏が、伊達晴宗方の本宮宗頼を攻め「福原要害」を陥落させた(「伊達正統世次考」同月一一日条)。同二一年一月一六日、京都聖護しようご院門跡が田村六六郷・小野おの六郷と「福原村」の年行事職を、蒲倉かばのくら(村)にあった大祥だいしよう院に安堵している(「聖護院役者連署奉書」青山文書)。福原城は大鏑おおかぶら館・水神すいじん館ともいい、阿武隈川沿いにあり付近に大鏑・弦巻つるまき陣場じんばなどの地名が残る。天正四年(一五七六)の郡山合戦の際、福原内蔵介が田村清顕方に属して戦った(奥羽永慶軍記)


福原村
ふくはらむら

[現在地名]上勝町福原

現町域の南東部に位置し、勝浦川の本流に落合おちあいあさひ川が合流する。中山なかやま杉地すぎじ平間ひらま日浦ひうらなどがあり、南部にかにヶ峠がある。北の傍示ほうじ村、西の八重地やえじ村と結ぶ道は木頭きとう往還とよばれ、東の棚野たなの(現勝浦町)境の馬継うまつぎに抜ける枝道がある。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に「福原村」と記される。正保国絵図では勝浦山坂本さかもと村のうちと考えられ、「勝浦山の内 福原村」とみえる。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では勝浦山坂本村の枝村として記載される。


福原村
ふくはらむら

[現在地名]岬町東中滝ひがしなかだき 大福原おおぶくはら

中滝郷の一村で同郷の東部を占め、夷隅川に並行して伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。臼井うすい郷の福原村を小福原こぶくはら村というのに対し、大福原村とも称した。馬継ぎ場が置かれ、津(渡場)が設けられていた(上総国誌)。寛政二年(一七九〇)高山彦九郎は川幅四、五〇間を綱を引いて渡っている(北行日記)くまやまの中滝城跡は三郭からなり、城主は中滝左近将監とされる。出土遺物の中国製の磁器などより一六世紀に用いられたと考えられる。万喜まんぎ(現夷隅町)と夷隅川諸城を見渡す位置にあり、土岐氏により整備されたと思われる。


福原村
ふくはらむら

[現在地名]松江市福原町

澄水しんじ(五〇七・三メートル)の南東麓に位置し、東は本庄ほんじよう村。朝酌あさくみ川の源流域にあたる。「出雲国風土記」にみえる島根郡の蝨野むしのは当地に比定され、中世には持田もちだ虫原むしはらと称したが、明暦年中(一六五五―五八)松江藩主松平直政がこの地で鷹狩をした際、虫原の名を嫌って福原と改めたという(「雲陽誌」など)。しかし風土記の蝨野は島根郡家の南西三里一〇〇歩にあると記され、郡家推定地とされる下東川津しもひがしかわつ(当地南西方に所在)との方角・里程は合致しない。戦国期には持田庄に含まれていた。永禄一三年(一五七〇)九月三日の吉川元春等四名連署感状(閥閲録)によると、清泰院(赤川土佐入道)富田とだ(現広瀬町)での籠城の功績により、「虫原」の内で扶持が得られるよう取計らうとの約束を得ており、翌元亀二年(一五七一)五月二七日に実現された(「毛利輝元書状」同書)


福原村
ふくわらむら

[現在地名]大田原市福原

東へ流れるほうき川右岸の河岸段丘上に位置し、対岸は新宿あらじゆく村・上蛭田かみひるた村・下蛭田村(現那須郡湯津上村)、西・南は大神おおがみ村。水田は箒川の沖積地に多く、集落は段丘上と南部の塩那えんな丘陵上にある。関街道が南から北東へ通る。古くは北岡きたおかとよばれたという。文治三年(一一八七)那須資隆が所領を一〇人の子に分封した折、四郎久隆が福原を分知され、以後久隆の系統は福原氏を名乗ったと伝えられる(那須記)。正和五年(一三一六)九月日の常行堂三昧田注文案(輪王寺文書)に「福原」とみえ、日光堂行堂の堂僧分の田一町が記される。


福原村
ふくばらむら

[現在地名]吉田町福原

可愛えの川東南の村で、北東は竹原たけはら村、南西は下入江しもいりえ村に接する。「芸藩通志」に「広十五町余、袤三町」とあるように細長い村で、下入江村境にすず山の尾が延びて先端に鈴尾すずのお城跡がある。この城は福原城とも称し、毛利氏の重臣福原氏の居城であった。

文永四年(一二六七)五月二九日付の源頼智譲状写(毛利家文書)に「内部庄内福原分国弘名田事」とあり、建武五年(一三三八)三月二五日付の三戸頼覚軍忠状(同文書)に「内部庄内福原村地頭三戸三郎入道頼覚」とあり、また正平七年(一三五二)二月六日付の常陸親王令旨(同文書)でも、内部うちべ庄福原村地頭職を三戸孫三郎頼顕に沙汰している。


福原村
ふくわらむら

[現在地名]余目町福原

柴野しばの村のうちしも村の北西にある。東を最上川が北流する。福原新田ともいわれた。承応二年(一六五三)の開村が伝えられるが(「開発之起覚書」福原区有文書)、ほかにも正保(一六四四―四八)頃最上鮭延さけのぶ庄の阿部一族によるとする説(「恵日山略縁起」同文書)や、尾花沢おばなざわ福原ふくはら(現尾花沢市)阿部某による開村の伝えもある。さらに「筆濃余理」には、慶長一三年(一六〇八)春、最上川大洪水により当村の大日如来堂が流失したという記述もある。寛文九年(一六六九)の永引証文帳(福原区有文書)に村名がみえる。文化元年(一八〇四)の検地帳(同文書)によると田高一五石余・畑高三〇石余、反別八町二反余、免二ツ。弍郡詳記では家数二〇。


福原村
ふくはらむら

[現在地名]大田市水上町福原みなかみちようふくはら

荻原おぎはら村の西に位置し、北は佐摩さま村。応徳元年(一〇八四)九月一〇日の清原正宗譲状(久利文書)久利くり郷の南の境界として「津々部野加立尾福原河」とみえ、福原川は静間しずま川の支流忍原おしはら川と推定される。貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文に大家おおえ庄の一部として「ふくハら 壱丁五反」とみえる。正保国絵図に村名がみえ、高三七七石余。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によると田方三一一石余・畑方六六石余、年貢高は米一九一石余・銀五三七匁余。家数は本家四三・門屋二二、人数二九四。文政二年(一八一九)の家数人別牛馬調(野沢家文書)では家数七六・人数二九四、牛三〇。


福原村
ふくわらむら

[現在地名]益城町福原

西は赤井あかい村・木山町きやままち村、南は北田代きたたしろ(現御船町)と接する。慶長国絵図に村名がみえ、近世は沼山津手永に属した。正保郷帳では田一千一五〇石二斗余・畑四四七石二斗余。「国誌」には「上福原村下福原村アリ、此内ニ南福原村河内田村袴野村鳥越村田中村松窪村柳下村内寺村谷口村柿迫村安養寺村福田村等ノ小村アリ」とある。文化八年(一八一一)の沼山津手永略手鑑では、福原村が高四九一石六斗余、田一七町一反八畝余・畑一五町二反四畝余、北福原村が高五九五石六斗余、田二〇町三反四畝余・畑一七町三反九畝余、中福原村が高四〇五石五斗余、田一三町四反五畝余・畑一一町五反七畝余、下福原村が高六一六石八斗余、田二〇町八反二畝余・畑一五町八反四畝余で、鉄砲札は北福原村三、商札は下福原村三・中福原村一・福原村一、藍瓶本手は下福原村二、鍛冶職札は中福原村一・福原村一、桶屋は下福原村一・中福原村一、石工札は中福原村二・下福原村一がある。


福原村
ふくわらむら

[現在地名]智頭町福原

中原なかばら村の東、千代川沿いに位置し、智頭街道が通る。枝村に垂水たるみ(樽見)がある(因幡志)。古名を入道原にゆうどうばら村といったが、文化一五年(一八一八)改称願が認められ、領内限りで福原村を名乗ることが許された(在方諸事控)。天保郷帳作成に当たって幕府へも届けられ、同郷帳には福原村とある。天文一四年(一五四五)二月吉日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚家の檀那村付帳の「いなはのくにノ内こまふ」のなかに「入道か原四郎兵衛方」「たるミ六郎衛門方 此衆やと」と記されている。藩政期の拝領高は五九石余。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高六五石余、毛付高八〇石余、本免六ツ、同年の物成高四六石余、ほかに山役銀六匁・藪役銀七匁二分が課されていた。


福原村
ふくはらむら

[現在地名]中富町福原

中山なかやま中一二ヵ村の一つで、江尻窪えじりくぼ村の西、古長谷ふるはせ村の南四―五町の所に位置する(甲斐国志)。享保九年(一七二四)の村明細帳(江尻窪区有文書)によれば東西二一町・南北三町であった。「甲斐国志」の梨子なしご村の項には「慶長郷村帳ニ十九石九斗四升梨子福原村、拾六石三斗福原村トアリ」と記されており、もとは梨子村と一体であった可能性がある。だが慶長古高帳では梨子村と分割記載され、高一六石余、幕府領。寛文一一年(一六七一)の検地帳(県立図書館蔵)によれば高二八石余、反別田二反余・畑一三町二反余・屋敷七畝余、屋敷数一〇。家数・人数は享保九年八軒・三四人(村明細帳)、文化七年(一八一〇)一六軒・六九人、天保一三年(一八四二)一六軒・七六人、嘉永二年(一八四九)一六軒・八一人(中富町誌)


福原村
ふくはらむら

[現在地名]関金町福原

明高みようこう村の南に位置する。集落の西を小鴨おがも川の支流福原川が北東に向かって流れる。享保一九年(一七三四)以前に領内限り一村となっていたと考えられ、同年の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」に村名がみえ、高一〇石余、竈数五とある。享和三年(一八〇三)明高村の地先新田として、天保五年(一八三四)同村の新田村として届出されている(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高六六石余、竈数一七。泰久寺大久たいきゆうじたいきゆう寺の過去帳(同寺蔵)のうち寛延二年(一七四九)の記事に福原木地の名がみえ、宝暦四年(一七五四)の件には福原鉄山の名がみえる。


福原村
ふくばるむら

[現在地名]行橋市福原・泉中央いずみちゆうおう四丁目・同八丁目・西泉にしいずみ四―五丁目・南泉みなみいずみ一―二丁目・同四丁目

福富ふくどみ村の南に位置し、いま川東岸の沖積平野に立地する。東は柳井田やないだ村。元和八年人畜改帳、仲津郡寛永六年七年八年三ヶ年之御免帳(永青文庫)、正保国絵図、天保郷帳などには村名がみえない。正保(一六四四―四八)頃までに元和八年人畜改帳にみえる「福光村」が福原村と福富ふくどみ村に分れたとする説は誤り。


福原村
ふくわらむら

[現在地名]伊奈村福原

上嶋かみじま村の西、中通なかどおり川東の低地に位置。近世に入って新しく開かれた地域で、古くは福原新田と称されていた(新編常陸国誌)。「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には旗本勝田鋼吉の知行地であり、村高二四七・八五三石。


福原村
ふくばるむら

[現在地名]野津町千塚ちづか 福原

桑畑くわばた村の北西にある。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には福原村が桑畑村など九ヵ村分と一括された一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に村名がみえ、高四四石余。下ノ村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高三四石余・出来高九石余、田方三〇石余・畑方一四石余、柴山などありと注記される。


福原村
ふくはらむら

[現在地名]竹田市福原

大野川支流の久住くじゆう川西岸に位置し、南東は深迫ふかさこ村。正保郷帳では家中かちゆう郷に属し、田方四一石余・畑方二四石余。弘化物成帳では北尾鶴組のうち、村位は中、免七ツ、田七〇石余(七町三反余)・畑三五石余(六町二反余)・屋敷一石余(一反余)で、開田一石余(七反余)・開畑二石余(四町余)がある。


福原村
ふくはらむら

[現在地名]中之島村福原

信濃川右岸の沖積地に立地し、南は末宝まつぽう村、東はきつね興野と錯綜する。集落西にかづらとよぶ囲堤をめぐらす。元禄八年(一六九五)の万覚帳(熊倉家文書)に村名がみえ、二四七石六斗余で、新発田藩分家切梅家領であったが、同年幕府領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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