出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
戦闘や消防の際に用いられた標識。戦場での集団中に目につきやすい標具として,16世紀になって盛んに用いられた纏は幟(のぼり)の大型なもので,《大坂軍記》にも〈大纏は朱の大四半,大幅掛に白き葵(あおい)の丸なり〉とか〈井桁(いげた)の紋の茜(あかね)の四半のまとひ〉と見えている。しかし他と紛れぬように,幟のほかにも作り物を用い,ときには当世具足の背に着けた指物(さしもの)を纏としたので,《甲陽軍鑑》には〈北条家の大道寺九ッ挑灯(ちようちん)のさし物をそえにしてもたする,是によってまとひは北条家よりはじまる〉と伝えている(旗指物)。また竿の先端に趣向をこらした作り物を施し,さらに馬簾(ばれん)といって輪形に切裂(きつさき)を長くたらしたのを加え,これを馬脇の標識とした馬印を纏と呼ぶようになった。この形式の纏は江戸時代になってから軍事組織に準じる消防にあたる者の標具としても用いられ,かくて纏は,必ず馬簾をつけ,上端に〈出し〉という飾物を配し,柄の下部の石突(いしづき)を股(また)として手にかけて持ち,振るのに便利とした(〈火消〉の項を参照)。
纏は旗本以上の武士の非常用の調度で,馬簾は猩々緋(しようじようひ)を普通とし,〈出し〉は軽い紙製または籠製で,3方面に定紋をつけたものが多い。また唐人笠や留め玉に白熊(はぐま)(白い飾毛)をつけたもの,宝珠や苗字中の1字を表現したものなどが見られ,消防方は馬簾を銀箔置(ぎんぱくおき)とした。1720年(享保5)から町火消も方域を記した吹流しを纏としたが,30年には47組を10に分けて,吹流しを廃して馬簾を用いることとし,〈出し〉に組別の標識を示し,総体に武家方消防の様式にならった。しかし寛政(1789-1801)ころから町方の馬簾は銀箔置を改めて白粉塗とするようになり,そのおもかげを今に伝えている。
執筆者:鈴木 敬三
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戦国時代には、敵味方の目印にするために用いた幟(のぼり)や馬印(うまじるし)のことであったが、江戸時代になると、もっぱら火消組の目印をさすようになった。前者の纏は、永禄(えいろく)・元亀(げんき)(1558~73)のころ北条氏康(うじやす)の家臣が初めて用いたと伝えられる。有名なものとして、豊臣(とよとみ)秀吉の金の千成瓢箪(せんなりびょうたん)や徳川家康の金の扇などがある。
江戸時代、大名火消や旗本の定火消(じょうびけし)ができると、家紋や先祖の由緒にちなんだ陀志(だし)飾りのついた纏が考案され、加賀百万石の加賀鳶(とび)の銀塗り太鼓や、本多能登守(のとのかみ)の本文字に日月の纏など、それぞれに華美を競った。1718年(享保3)江戸に町火消の制が定まり、しだいに整備されて、10組の大(おお)組の下にいろは四十八組(ただし、「へ」「ら」「ひ」「ん」のかわりに「百」「千」「万」「本」)の小(こ)組が置かれると、各小組ごとに目印として纏を持つことを許される。時代により形が多少変わったが、江戸時代の末ごろには、陀志飾りの長さ2尺(約60センチメートル)、白漆塗りで馬簾(ばれん)(円形の枠に、細い紙や革の条を長く垂らしたもの)のついた、一般によく知られる纏らしい形となった。なお、纏持ちのことを単に纏ともよび、組のシンボルとして、火消しや行事で競い合った。
[片岸博子]
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…本所,深川は16の小組に分けた。このとき大名火消,定火消にならって各組ごとに纏(まとい)と幟(のぼり)を定め,その目印とさせた。さらに30年,47組を一番組から十番組の大組に分けた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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