江戸後期の人情本作家。本名鷦鷯(ささき)(佐々木)貞高(さだたか)。通称越前屋長次郎(えちぜんやちょうじろう)。2代目振鷺亭主人(しんろていしゅじん)、三鷺(さんろ)、2世南仙笑楚満人(なんせんしょうそまひと)、狂訓亭(きょうくんてい)主人、金竜(きんりゅう)山人などとも号し、講釈師として為永正輔(しょうすけ)、為永金竜という。江戸の町家の出身らしいが、前半生の経歴は不明。
文化(ぶんか)(1804~18)末年ごろから書肆(しょし)青林堂を経営し、かたわら戯作者(げさくしゃ)を望んで振鷺亭、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)、式亭三馬(しきていさんば)に次々と入門し、1819年(文政2)処女作『明烏後正夢(あけがらすのちのまさゆめ)』を出版した(文政4年の説あり。この年2世南仙笑楚満人を号す)。以後、書肆経営上次々と人情本を発表して戯作者の位置を固めるが、この時期の作品はすべて友人・門人たちとの合作であり、多くは戯作者志望の文学青年らの草稿を、書肆の立場で利用したものが多い。29年為永春水を名のるが、同年3月火災で青林堂を失い、門人らが多く離反、独立した戯作者としてたつために、苦心のすえ、32年(天保3)『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』初・2編を発表した(翌年全4編完結)。人情本の代表作とされるもので、読者の熱狂的歓迎を受け、春水は「江戸人情本の元祖」を誇称し、一躍文壇の第一線にたった。
以後、春水は書肆の要請にこたえて、『春色辰巳園(しゅんしょくたつみのその)』以下の『春色梅児誉美』の続編をはじめ、『春告鳥(はるつげどり)』など多数の作品を発表するが、人情本が青年男女、とりわけて婦女子を読者とする小説であったために、人情を描くと称してひたすら愛欲を追求し、ふたたび新しい門人たちとの合作という形をとった。ただ、合作という形をとったことが、場面を積み重ねてゆく春水人情本独特の主情的リアリズム、いわゆる「為永流」の作風を生み、彼の人情本を独特の風俗小説たらしめている。天保(てんぽう)の改革に際し、その作品が風俗に害があるとの理由で手鎖50日の刑を受けるが、彼の作品の風俗描写は明治の硯友社(けんゆうしゃ)の文学に大きい影響を与えている。読本(よみほん)・合巻の作もあるが、これはいうに足りない。天保14年12月22日没。墓は妙善寺(東京都世田谷(せたがや)区北烏山(からすやま))にある。
[神保五彌]
『「人情本について」「為永春水研究」(『山口剛著作集 4』所収・1972・中央公論社)』▽『「為永春水小論」「為永春水の手法」(『中村幸彦著述集 6』所収・1982・中央公論社)』
江戸後期の人情本作者。本名は鷦鷯(ささき)(佐々木)貞高,通称は越前屋長次郎。2代目振鷺亭(しんろてい)主人,三鷺(さんろ),2世南仙笑楚満人(なんせんしようそまひと),狂訓亭主人,金竜山人とも号し,講釈師として為永正輔(助),為永金竜を名のった。江戸の町家の出身らしいが前半生の経歴は明らかでない。文化(1804-18)末年ごろから書肆青林堂を経営するかたわら,振鷺亭,柳亭種彦,式亭三馬に入門,1819年(文政2)に処女作の人情本《明烏後正夢(あけがらすのちのまさゆめ)》初編を発表,次々に作品を世に送り,27年ごろには人情本作者としての地位を確立した。この時期の作品のほとんどは友人,門人たちとの合作であり,戯作者志望の文学青年や狂言作者の草稿を,書肆の立場を利用して出版したものである。29年,それまでの2世南仙笑楚満人の号を捨てて為永春水を名のるが,同年3月火災で青林堂を失い,門人,友人たちの多くが離反し,苦心のすえ32年(天保3)情痴的恋愛小説《春色梅児誉美(しゆんしよくうめごよみ)》初・後編を発表した(全4編,1833刊,完結)。この作品は若い婦女子の読者から熱狂的歓迎を受け,春水は一躍文壇の第一線に登場し,自ら〈江戸人情本の元祖〉を名のった。読者の好評もあって,書肆の依頼で次々にこの作品の続編を執筆することになり,ほかにも《春告鳥(はるつげどり)》(全4編,1836-37)以下の多数の作品を発表する。当然全作品を独力で完成することは難しく,36年以後の作品の大部分は,〈為永連〉と称する春水と新しい門人たちの制作であった。構想を重視せず,場面描写を積み重ねて一編の作品を作りあげる春水独特の作風--為永流--は,合作という創作手法からもたらされたものであり,春水の人情本を独特の風俗小説として完成させた。文字どおり人情本の第一人者として,短い期間ながら流行作家の位置についたが,天保改革に際し,その作品が風俗に害があるとの理由で処罰され,憂悶のうちに死亡した。
春水の人情本は思想性に乏しい風俗小説であり,人間はもとより構想も類型的であるが,講釈師の体験をいかしたその洗練された現実的な会話は,頽廃的な当時の江戸町人社会の情痴の相を的確に写し,背景となる江戸下町の庶民の生活,なかでも特に下町情調の描写は,明治の硯友社文学に大きい影響を与えている。作品はほかに《春色辰巳園》《花名所懐中暦》《処女七種(むすめななくさ)》などがある。
→人情本
執筆者:神保 五弥
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(園田豊)
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1790~1843.12.22
江戸後期の戯作者。本名は鷦鷯(ささき)貞高。江戸の町人出身で書肆青林堂を営む一方,寄席や演劇界に出入り。2世南仙笑楚満人(なんせんしょうそまひと)の名で滝亭鯉丈(りゅうていりじょう)と「明烏後正夢(あけがらすのちのまさゆめ)」(1819)を発表。合巻「総角結紫総糸(あげまきむすびゆかりのふさいと)」,読本「阿古義物語」,滑稽本「玉櫛笥(たまくしげ)」などもあるが,主力は人情本にあり,春水の名で出した「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」(1832)が好評で,人情本の元祖として人気を博す。門人たちと為永連を組織して合作方式を確立。数多くの注文をこなして人情本の第一人者となるが,天保の改革で筆禍をうけ,翌年病没。ほかに「春告鳥(はるつげどり)」「春色辰巳園(たつみのその)」「花名所懐中暦(かいちゅうごよみ)」。
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…人情本。為永春水作,歌川国直画。初編1833年(天保4),2編34年,3・4編35年刊。…
…1807年(文化4)に,家主の職を親族らから追われたらしく,浅草寺内に移り,晩年は落魄して川崎に移り,手習師匠を業としたという。為永春水が一時期2世振鷺亭を名のっている。【神保 五弥】。…
…人情本の源流の一つは,式亭三馬,梅暮里谷峨(うめぼりこくが)らが,寛政の改革以降に著した物語性に富む連作洒落本(しやれぼん)に求められるが,それとともに読本(よみほん)を通俗化し,講釈などの話芸をとりいれた中型読本と呼ばれる大衆読み物からの転化が考えられる。前者の系譜を引くのは《娼妓美談(けいせいびだん) 籬の花(まがきのはな)》(1817)など,末期洒落本作者として出発した鼻山人であり,後者の中型読本から市井の男女の情話を描く人情本様式への転回を告げたのは,新内の名作《明烏(あけがらす)》の後日談として書かれた,2世南仙笑楚満人(なんせんしようそまひと)(為永春水)・滝亭鯉丈(りゆうていりじよう)合作《明烏後正夢(のちのまさゆめ)》(1819‐24)と素人作者の写本《江戸紫》を粉本とした十返舎一九の《清談峯初花(せいだんみねのはつはな)》(1819‐21)であった。 《明烏後正夢》で戯作(げさく)文壇に登場した2世楚満人は,その後,狂言作者2世瀬川如皐(じよこう)や筆耕松亭金水(しようていきんすい)らの助力を得て,二十数部の人情本を出版するが,いずれも未熟な習作で世評もかんばしくなかった。…
…〈正夢〉とも書く。新内節の《明烏(あけがらす)》が有名だったので,その後日談として滝亭鯉丈(りゆうていりじよう)と2世南仙笑楚満人(後の為永春水)の合作による,人情本《明烏後正夢》が出版され(1819‐24),ベストセラーになった。その題名をかりて富士松魯中が1857年(安政4)5月に作詞作曲したもの。…
※「為永春水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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