為永春水(読み)タメナガシュンスイ

デジタル大辞泉 「為永春水」の意味・読み・例文・類語

ためなが‐しゅんすい【為永春水】

[1790~1844]江戸後期の人情本作者。江戸の人。本名、鷦鷯貞高ささきさだたか。号、2世南仙笑楚満人・狂訓亭主人など。式亭三馬の弟子となり、江戸の町人生活や男女の情痴世界を描いて人情本の形式を確立。天保の改革で風紀を乱したとして手鎖の刑を受け、憂悶ゆうもんのうちに病没。著「春色梅児誉美しゅんしょくうめごよみ」「春色辰巳園」「春告鳥」など。

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精選版 日本国語大辞典 「為永春水」の意味・読み・例文・類語

ためなが‐しゅんすい【為永春水】

  1. 江戸後期の戯作者。江戸の人。通称越前屋長次郎。青林堂という本屋を業とするかたわら戯作にも筆を染め、二世南仙笑楚満人の筆名で「明烏後正夢」を滝亭鯉丈(りゅうていりじょう)と合作刊行。以後次々と作品を書き人情本の第一人者として活躍した。天保の改革の際、風俗壊乱の理由で処罰され、憂悶のうちに病没。著に「春色梅児誉美」「春告鳥」など。寛政二~天保一四年(一七九〇‐一八四三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「為永春水」の意味・わかりやすい解説

為永春水
ためながしゅんすい
(1790―1843)

江戸後期の人情本作家。本名鷦鷯(ささき)(佐々木)貞高(さだたか)。通称越前屋長次郎(えちぜんやちょうじろう)。2代目振鷺亭主人(しんろていしゅじん)、三鷺(さんろ)、2世南仙笑楚満人(なんせんしょうそまひと)、狂訓亭(きょうくんてい)主人、金竜(きんりゅう)山人などとも号し、講釈師として為永正輔(しょうすけ)、為永金竜という。江戸の町家の出身らしいが、前半生の経歴は不明。

 文化(ぶんか)(1804~18)末年ごろから書肆(しょし)青林堂を経営し、かたわら戯作者(げさくしゃ)を望んで振鷺亭、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)、式亭三馬(しきていさんば)に次々と入門し、1819年(文政2)処女作『明烏後正夢(あけがらすのちのまさゆめ)』を出版した(文政4年の説あり。この年2世南仙笑楚満人を号す)。以後、書肆経営上次々と人情本を発表して戯作者の位置を固めるが、この時期の作品はすべて友人・門人たちとの合作であり、多くは戯作者志望の文学青年らの草稿を、書肆の立場で利用したものが多い。29年為永春水を名のるが、同年3月火災で青林堂を失い、門人らが多く離反、独立した戯作者としてたつために、苦心のすえ、32年(天保3)『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』初・2編を発表した(翌年全4編完結)。人情本の代表作とされるもので、読者の熱狂的歓迎を受け、春水は「江戸人情本の元祖」を誇称し、一躍文壇の第一線にたった。

 以後、春水は書肆の要請にこたえて、『春色辰巳園(しゅんしょくたつみのその)』以下の『春色梅児誉美』の続編をはじめ、『春告鳥(はるつげどり)』など多数の作品を発表するが、人情本が青年男女、とりわけて婦女子を読者とする小説であったために、人情を描くと称してひたすら愛欲を追求し、ふたたび新しい門人たちとの合作という形をとった。ただ、合作という形をとったことが、場面を積み重ねてゆく春水人情本独特の主情的リアリズム、いわゆる「為永流」の作風を生み、彼の人情本を独特の風俗小説たらしめている。天保(てんぽう)の改革に際し、その作品が風俗に害があるとの理由で手鎖50日の刑を受けるが、彼の作品の風俗描写明治の硯友社(けんゆうしゃ)の文学に大きい影響を与えている。読本(よみほん)・合巻の作もあるが、これはいうに足りない。天保14年12月22日没。墓は妙善寺(東京都世田谷(せたがや)区北烏山(からすやま))にある。

[神保五彌]

『「人情本について」「為永春水研究」(『山口剛著作集 4』所収・1972・中央公論社)』『「為永春水小論」「為永春水の手法」(『中村幸彦著述集 6』所収・1982・中央公論社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「為永春水」の意味・わかりやすい解説

為永春水 (ためながしゅんすい)
生没年:1790-1843(寛政2-天保14)

江戸後期の人情本作者。本名は鷦鷯(ささき)(佐々木)貞高,通称は越前屋長次郎。2代目振鷺亭(しんろてい)主人,三鷺(さんろ),2世南仙笑楚満人(なんせんしようそまひと),狂訓亭主人,金竜山人とも号し,講釈師として為永正輔(助),為永金竜を名のった。江戸の町家の出身らしいが前半生の経歴は明らかでない。文化(1804-18)末年ごろから書肆青林堂を経営するかたわら,振鷺亭,柳亭種彦,式亭三馬に入門,1819年(文政2)に処女作の人情本《明烏後正夢(あけがらすのちのまさゆめ)》初編を発表,次々に作品を世に送り,27年ごろには人情本作者としての地位を確立した。この時期の作品のほとんどは友人,門人たちとの合作であり,戯作者志望の文学青年や狂言作者の草稿を,書肆の立場を利用して出版したものである。29年,それまでの2世南仙笑楚満人の号を捨てて為永春水を名のるが,同年3月火災で青林堂を失い,門人,友人たちの多くが離反し,苦心のすえ32年(天保3)情痴的恋愛小説《春色梅児誉美(しゆんしよくうめごよみ)》初・後編を発表した(全4編,1833刊,完結)。この作品は若い婦女子の読者から熱狂的歓迎を受け,春水は一躍文壇の第一線に登場し,自ら〈江戸人情本の元祖〉を名のった。読者の好評もあって,書肆の依頼で次々にこの作品の続編を執筆することになり,ほかにも《春告鳥(はるつげどり)》(全4編,1836-37)以下の多数の作品を発表する。当然全作品を独力で完成することは難しく,36年以後の作品の大部分は,〈為永連〉と称する春水と新しい門人たちの制作であった。構想を重視せず,場面描写を積み重ねて一編の作品を作りあげる春水独特の作風--為永流--は,合作という創作手法からもたらされたものであり,春水の人情本を独特の風俗小説として完成させた。文字どおり人情本の第一人者として,短い期間ながら流行作家の位置についたが,天保改革に際し,その作品が風俗に害があるとの理由で処罰され,憂悶のうちに死亡した。

 春水の人情本は思想性に乏しい風俗小説であり,人間はもとより構想も類型的であるが,講釈師の体験をいかしたその洗練された現実的な会話は,頽廃的な当時の江戸町人社会の情痴の相を的確に写し,背景となる江戸下町の庶民の生活,なかでも特に下町情調の描写は,明治の硯友社文学に大きい影響を与えている。作品はほかに《春色辰巳園》《花名所懐中暦》《処女七種(むすめななくさ)》などがある。
人情本
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朝日日本歴史人物事典 「為永春水」の解説

為永春水

没年:天保14.12.22(1844.2.10)
生年:寛政2(1790)
江戸時代の人情本・読本・合巻作者。本名は鷦鷯(佐々木のあて字か)貞高,通称は越前屋長次郎,号は2代目振鷺亭主人,三鷺,2世南仙笑楚満人,狂訓亭主人,金竜山人など。また講釈師として為永正輔,為永金竜ともいった。江戸の町家の出身らしいが,前半生の経歴は不明。幼少より,かな物語を耽読し,そのためにひどい近眼であったといわれる。文化末年(1818年ごろ)から本屋青林堂を経営する一方,戯作者を志し,柳亭種彦,式亭三馬,振鷺亭などに入門した。文政2(1819)年,2代目松島半二の草稿を利用して,2世南仙笑楚満人の名で『明烏後正夢』初編を刊行。以後,つぎつぎと人情本を出版し,同10年ごろには一応戯作者としての地位を確立するが,このころまでの彼の作品はすべて戯作者志望の文学青年の草稿や三流狂言作者の草稿を利用した,いわゆる「青林堂工房」の合作であった。 文政12年に為永春水を名乗るが,同年3月,火災で青林堂を失う。門人,友人らも離れて行き,戯作者として独立する必要に迫られた春水は,天保3(1832)年『 春色梅児誉美』初・2編を刊行した。江戸市井の男女の恋を情緒たっぷりの文章で連綿とつづったこの作品は,草双紙の伝奇的要素と洒落本の写実的要素が,渾然と一体化した新しい風俗小説として読者に歓迎され,春水は「江戸人情本の元祖」(4編序文)として一躍文壇の寵児となる。書肆は春水に『春色梅児誉美』の続編や『春告鳥』(全4編,1836,37年)などの多数の作品を執筆させ,春水人情本は天保の文壇を席巻した。人情本の読者は若い婦女子であり,春水の描く情痴的恋愛描写の場面が彼女たちの嗜好に合い,春水を流行作家にした。その結果,全作品をひとりで書くことは不可能となり,再び「為永連」と呼ばれる知人,門人たちと合作することになるがそのことがかえって一編の構想を重視せず,情緒的な恋愛場面のみを重層的に描写していく主情的リアリズム=「為永一流」の作風を生み出すこととなり,春水を人情本の第一人者とした。しかし天保の改革に際し,天保13年6月,その作風が風俗に害をおよぼすとして手鎖50日の刑をまねく。まじめで小心者の春水にはこれがこたえたらしく,翌年病没している。<参考文献>神保五弥『為永春水の研究』

(園田豊)

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百科事典マイペディア 「為永春水」の意味・わかりやすい解説

為永春水【ためながしゅんすい】

江戸後期の人情本作者。本名鷦鷯(ささき)貞高。書肆青林堂越前屋を経営,通称長次郎。別号は三鷺,2世南仙笑楚満人(なんせんしょうそまひと),狂訓亭,金竜山人。初めは講釈師で為永正輔と称した。式亭三馬に入門,黄表紙を書き,人情本に進んで,町人の恋愛を平易に描いて斯界の第一人者となった。晩年天保改革に際し筆禍を受けた。滝亭鯉丈の弟分。代表作は《春色梅児誉美(うめごよみ)》《春色辰巳園》《春告鳥》など。
→関連項目曲山人滑稽和合人文化文政時代

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「為永春水」の意味・わかりやすい解説

為永春水
ためながしゅんすい

[生]寛政2(1790).江戸
[没]天保14(1843).12.22. 江戸
江戸時代後期の人情本作者。本名,鷦鷯 (ささき。佐々木) 貞高。別号,狂訓亭,金竜山人。初め小書肆を経営,青林堂越前屋長次郎と称した。また講釈師為永正輔と名のって高座にのぼった。戯作にも志し,式亭三馬に入門,三鷺あるいは2代目振鷺亭主人と称し,滑稽本,読本を書いた。文政4 (1821) 年処女作『明烏後正夢 (あけがらすのちのまさゆめ) 』初編を出版。同 12年から為永春水と改号。『春色梅児誉美 (しゅんしょくうめごよみ) 』が大いに当り,みずからの中本を人情本と称し,「東都人情本の元祖」と自称。天保の人情本界第一人者となり,多数の門人を集めたが,天保改革による取締りで天保 13 (42) 年手鎖刑に処せられた。ほかに『春色辰巳園 (たつみのその) 』 (33~35) ,『花名所懐中暦』 (36) ,『風月花情春告鳥』 (36) など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「為永春水」の解説

為永春水
ためながしゅんすい

1790~1843.12.22

江戸後期の戯作者。本名は鷦鷯(ささき)貞高。江戸の町人出身で書肆青林堂を営む一方,寄席や演劇界に出入り。2世南仙笑楚満人(なんせんしょうそまひと)の名で滝亭鯉丈(りゅうていりじょう)と「明烏後正夢(あけがらすのちのまさゆめ)」(1819)を発表。合巻「総角結紫総糸(あげまきむすびゆかりのふさいと)」,読本「阿古義物語」,滑稽本「玉櫛笥(たまくしげ)」などもあるが,主力は人情本にあり,春水の名で出した「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」(1832)が好評で,人情本の元祖として人気を博す。門人たちと為永連を組織して合作方式を確立。数多くの注文をこなして人情本の第一人者となるが,天保の改革で筆禍をうけ,翌年病没。ほかに「春告鳥(はるつげどり)」「春色辰巳園(たつみのその)」「花名所懐中暦(かいちゅうごよみ)」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「為永春水」の解説

為永春水(初代) ためなが-しゅんすい

1790-1844* 江戸時代後期の戯作(げさく)者。
寛政2年生まれ。本屋,講釈師などを業とし,式亭三馬,初代柳亭種彦らに師事する。天保(てんぽう)3年「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」で人気作家となり,みずから江戸人情本の元祖と称したが,13年天保の改革で,作品が風俗をみだすとして罰せられた。天保14年12月22日死去。54歳。江戸出身。本姓は鷦鷯(ささき)(佐々木)。名は貞高。通称は越前屋長次郎。別号に振鷺亭(2代),南仙笑楚満人(2代)など。
【格言など】敵にして強(こわ)くなければ,味方にして頼母(たのも)しからず(「春色辰巳園」)

為永春水(2代) ためなが-しゅんすい

染崎延房(そめざき-のぶふさ)

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旺文社日本史事典 三訂版 「為永春水」の解説

為永春水
ためながしゅんすい

1790〜1843
江戸後期の人情本作者
本名鷦鷯 (ささき) (または佐々木)貞高,通称越前屋長次郎,号は金竜山人・狂訓亭主人など多数。江戸の人。式亭三馬に入門,『春色梅児誉美 (しゆんしよくうめごよみ) 』を書いて好評を博し,人情本の先駆となった。そのほか多くの著書がある。天保の改革で風俗を乱した罪により処罰された。

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世界大百科事典(旧版)内の為永春水の言及

【春色梅児誉美】より

…人情本。為永春水作,柳川重信画。外題〈梅児誉美〉,内題〈春色梅児誉美〉。…

【春色辰巳園】より

…人情本。為永春水作,歌川国直画。初編1833年(天保4),2編34年,3・4編35年刊。…

【振鷺亭】より

…1807年(文化4)に,家主の職を親族らから追われたらしく,浅草寺内に移り,晩年は落魄して川崎に移り,手習師匠を業としたという。為永春水が一時期2世振鷺亭を名のっている。【神保 五弥】。…

【人情本】より

…人情本の源流の一つは,式亭三馬,梅暮里谷峨(うめぼりこくが)らが,寛政の改革以降に著した物語性に富む連作洒落本(しやれぼん)に求められるが,それとともに読本(よみほん)を通俗化し,講釈などの話芸をとりいれた中型読本と呼ばれる大衆読み物からの転化が考えられる。前者の系譜を引くのは《娼妓美談(けいせいびだん) 籬の花(まがきのはな)》(1817)など,末期洒落本作者として出発した鼻山人であり,後者の中型読本から市井の男女の情話を描く人情本様式への転回を告げたのは,新内の名作《明烏(あけがらす)》の後日談として書かれた,2世南仙笑楚満人(なんせんしようそまひと)(為永春水)・滝亭鯉丈(りゆうていりじよう)合作《明烏後正夢(のちのまさゆめ)》(1819‐24)と素人作者の写本《江戸紫》を粉本とした十返舎一九の《清談峯初花(せいだんみねのはつはな)》(1819‐21)であった。 《明烏後正夢》で戯作(げさく)文壇に登場した2世楚満人は,その後,狂言作者2世瀬川如皐(じよこう)や筆耕松亭金水(しようていきんすい)らの助力を得て,二十数部の人情本を出版するが,いずれも未熟な習作で世評もかんばしくなかった。…

【真夢】より

…〈正夢〉とも書く。新内節の《明烏(あけがらす)》が有名だったので,その後日談として滝亭鯉丈(りゆうていりじよう)と2世南仙笑楚満人(後の為永春水)の合作による,人情本《明烏後正夢》が出版され(1819‐24),ベストセラーになった。その題名をかりて富士松魯中が1857年(安政4)5月に作詞作曲したもの。…

※「為永春水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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