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平知盛 たいらのとももり

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

平知盛
たいらのとももり

[生]仁平2(1152)
[没]文治1(1185).3.24. 長門,壇ノ浦
平安時代末期の武将。清盛の子。母は時子。平治1 (1159) 年8歳で従五位下となる。治承1 (77) 年従三位。同4年挙兵した源頼政を宇治川の戦いで破った。寿永1 (82) 年従二位権中納言。翌年源義仲に追われて,一門とともに西走,解官された。同3年一ノ谷の戦い奮戦したが,敗れて屋島に逃れた。翌文治1 (85) 年屋島で源義経に敗れ (→屋島の戦い ) ,次いで長門壇ノ浦の合戦にも敗れ,安徳天皇はじめ一門の女性とともに入水した。謡曲『舟弁慶』や浄瑠璃義経千本桜』 (大物浦の場) などの主役で知られる。

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百科事典マイペディアの解説

平知盛【たいらのとももり】

平安末期の武将。清盛の四男。権中納言(ごんのちゅうなごん)。源平の戦に奮戦,一ノ谷の戦敗北ののち,壇ノ浦の戦でも勇戦の末,安徳天皇らを追って自らも入水(じゅすい)。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

平知盛 たいらの-とももり

1152-1185 平安時代後期の武将。
仁平(にんぴょう)2年生まれ。平清盛の4男。従二位,権(ごんの)中納言。治承(じしょう)4年以仁(もちひと)王と源頼政の挙兵を鎮圧。父清盛の死後兄宗盛とともに平家総帥の役割をになったが,源義仲に追われて都落ちし各地を転戦。元暦(げんりゃく)2年3月24日壇ノ浦の戦いに敗れ入水した。34歳。
【格言など】見るべき程の事は見つ。いまは自害せん(「平家物語」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

平知盛

没年:文治1.3.24(1185.4.25)
生年:仁平2(1152)
平安末期の武将。清盛の4男で,母は平時子。宗盛の同母弟で,武勇に優れ,源平の争乱での平氏を代表する人物。永暦1(1160)年以来,武蔵国を知行して東国にも勢力を伸ばしてゆき,安元1(1175)年に山門の強訴にあって内裏を守る。清盛の「最愛の息子」として2年には蔵人頭の噂もあったが,院近臣の藤原光能が任じられ,このころから平氏と後白河法皇との間の対立が表面化してくる。翌年に従三位になり,やがて中納言にまで至るが,政治の面ではめぼしい活動はみられない。その分,治承4(1180)年に起きた以仁王の乱や近江・美濃源氏の反乱などの追討活動に戦績を残し,寿永2(1183)年の都落ちののちは長門(山口県)の彦島に水軍の根拠地を置いて平氏最後の砦とした。元暦1(1184)年2月の一の谷の戦では源範頼の不意の攻撃により子の知章を失い,やがて文治1(1185)年3月の壇の浦の戦に臨む。唐船に雑兵を,和船によき人を乗せるなど源氏の目をあざむく策を用いたが,ついに敗北。「世の中はいまはかうと見えて候」と述べ,「見るべきほどのものは見つ,いまは自害せん」といい放ち入水したという。その武勇から多くの文芸が素材としている。

(五味文彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

たいらのとももり【平知盛】

1152‐85(仁平2‐文治1)
平安末期の武将。清盛の子。清盛の寵愛深く,順調に累進して従二位権中納言にいたる。武勇にすぐれ,1180年(治承4)源頼政を宇治で破り,翌年源行家を尾張,美濃に連破して功をあげた。しかし83年(寿永2)源義仲と粟津で戦って敗れ西走。翌84年の一ノ谷の戦でも勇戦したが,85年壇ノ浦の戦では,奮戦のすえ,平家一門の最後を見とどけたうえで海に身を投じた。【田中 文英】
[人物像と作品化]
 《平家物語》の中では,知盛は戦場においては果敢な武将としてふるまい,生死の場に臨んでは人間の心の動きを鋭く洞察し,また背後で人間を操り,支配する運命の不可思議な力を自覚していた人物としてえがかれる。

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大辞林 第三版の解説

たいらのとももり【平知盛】

1152~1185) 平安末期の武将。清盛の子。以仁王もちひとおう・源頼政の挙兵を宇治で鎮圧、源行家を尾張・美濃で破った。壇浦で「見るべき程の事は見つ」と鎧二領をつけて入水。平家屈指の勇将とされ、謡曲や浄瑠璃に戯曲化される。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

平知盛
たいらのとももり
(1152―1185)

平安後期の武将。清盛(きよもり)の四男、母は平時子。平治(へいじ)の乱(1159)ののち平氏の台頭は著しく、父清盛の官位昇進に伴い、知盛も左中将、左兵衛督(さひょうえのかみ)と累進し、従(じゅ)二位権中納言(ごんのちゅうなごん)となる。全盛を謳歌(おうか)する平氏政権に対して、後白河(ごしらかわ)院をはじめとしてしだいに対立勢力が表面化してきた。1180年(治承4)に源頼政(よりまさ)が後白河院の皇子以仁王(もちひとおう)を奉じて挙兵、平家追討の令旨(りょうじ)が諸国に伝えられた。知盛は以仁王・頼政追討のため王の隠れる園城(おんじょう)寺に向かい、奈良へ向かって脱出した王の軍を宇治(うじ)平等院に破った。以後源行家(ゆきいえ)、木曽義仲(きそよしなか)らとの戦いが続き、一時讃岐屋島(さぬきやしま)(香川県高松市)に退いた。84年(元暦1)一ノ谷の戦いに奮戦したが敗れ、海上を西へ逃れた。翌年2月屋島の戦いにも利なく、3月24日壇(だん)ノ浦(うら)の戦いに敗れ、安徳(あんとく)天皇はじめ一門の女性の入水(じゅすい)を見届けて、自らも海に沈んだ。1747年(延享4)初演の並木宗輔(そうすけ)らの作になる人形浄瑠璃(じょうるり)『義経(よしつね)千本桜』二段目の「碇(いかり)知盛」に、知盛の豪快にして悲壮な最期が語られている。[田辺久子]

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世界大百科事典内の平知盛の言及

【船弁慶】より

…前ジテは静御前。後ジテは平知盛の怨霊。源義経(子方)は,兄頼朝との不和から都落ちをするはめになり,武蔵坊弁慶(ワキ)ら小人数を連れて西国に向かう。…

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