平安末期の武将。清盛の子。清盛の寵愛深く,順調に累進して従二位権中納言にいたる。武勇にすぐれ,1180年(治承4)源頼政を宇治で破り,翌年源行家を尾張,美濃に連破して功をあげた。しかし83年(寿永2)源義仲と粟津で戦って敗れ西走。翌84年の一ノ谷の戦でも勇戦したが,85年壇ノ浦の戦では,奮戦のすえ,平家一門の最後を見とどけたうえで海に身を投じた。
執筆者:田中 文英
《平家物語》の中では,知盛は戦場においては果敢な武将としてふるまい,生死の場に臨んでは人間の心の動きを鋭く洞察し,また背後で人間を操り,支配する運命の不可思議な力を自覚していた人物としてえがかれる。そのような知盛が,〈見るべき程の事は見つ,今は自害せん〉と鎧二領を身につけて乳母子(めのとご)家長とともに壇ノ浦に沈んだのは覚悟の行為でもあった。能の《船弁慶》では怨霊化した知盛が〈潮を蹴立て,悪風を吹き掛け〉て,海路九州へ逃走する義経主従を海に沈めんと迫るが,沈着な義経と弁慶の調伏の祈りに退散する。碇(いかり)知盛で名高い浄瑠璃《義経千本桜》では,壇ノ浦で入水したと見せかけた知盛は,渡海屋銀平と名を変えてひそかに義経の命をねらう。時節到来し,知盛は亡霊の装いで大物の浦から船出する義経の後を追うが敗れて,碇綱をからだに巻きつけ,碇を海に投げ入れて海底に沈む。これは,《平家物語》で鎧二領をつけて沈んだ知盛の再現である。しかしそれは怨霊としての発動を禁止された知盛が,永久に海底に封じ込まれた形でもある。
執筆者:岩崎 武夫
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平安後期の武将。清盛(きよもり)の四男、母は平時子。平治(へいじ)の乱(1159)ののち平氏の台頭は著しく、父清盛の官位昇進に伴い、知盛も左中将、左兵衛督(さひょうえのかみ)と累進し、従(じゅ)二位権中納言(ごんのちゅうなごん)となる。全盛を謳歌(おうか)する平氏政権に対して、後白河(ごしらかわ)院をはじめとしてしだいに対立勢力が表面化してきた。1180年(治承4)に源頼政(よりまさ)が後白河院の皇子以仁王(もちひとおう)を奉じて挙兵、平家追討の令旨(りょうじ)が諸国に伝えられた。知盛は以仁王・頼政追討のため王の隠れる園城(おんじょう)寺に向かい、奈良へ向かって脱出した王の軍を宇治(うじ)平等院に破った。以後源行家(ゆきいえ)、木曽義仲(きそよしなか)らとの戦いが続き、一時讃岐屋島(さぬきやしま)(香川県高松市)に退いた。84年(元暦1)一ノ谷の戦いに奮戦したが敗れ、海上を西へ逃れた。翌年2月屋島の戦いにも利なく、3月24日壇(だん)ノ浦(うら)の戦いに敗れ、安徳(あんとく)天皇はじめ一門の女性の入水(じゅすい)を見届けて、自らも海に沈んだ。1747年(延享4)初演の並木宗輔(そうすけ)らの作になる人形浄瑠璃(じょうるり)『義経(よしつね)千本桜』二段目の「碇(いかり)知盛」に、知盛の豪快にして悲壮な最期が語られている。
[田辺久子]
(五味文彦)
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