出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
愛知県西部、海部郡(あまぐん)にあった旧町名(甚目寺町(ちょう))。現在はあま市の北東部を占める地域。1932年(昭和7)町制施行。2010年(平成22)、七宝(しっぽう)町、美和(みわ)町と合併、市制施行してあま市となる。名古屋鉄道津島線、国道302号が通じ、名古屋第二環状自動車道甚目寺北および同南の二つのインターチェンジがある。住宅化、工業化が激しい。地区内には福田川を中心に東に五条川、西に大江用水が流れ、農業用水に使われている。特産の農作物は方領(ほうりょう)ダイコン、コマツナ、萱津(かやつ)の温室カーネーションなど。伝統工業の刷毛(はけ)は全国生産のなかば以上、全国第1位で、西今宿、栄が中心。萱津は美濃(みの)路と伊勢(いせ)路の交差点で庄内(しょうない)川の渡し場。甚目寺は推古(すいこ)天皇5年(597)建立されたといわれる古寺で、尾張(おわり)四観音(かんのん)の一つ。南大門、三重塔、東門、絹本着色不動尊像、絹本着色仏涅槃(ねはん)図などは国指定重要文化財。節分、縁日には参詣(さんけい)者でにぎわう。そのほか、香の物祭(漬物祭)で知られる萱津神社、県指定天然記念物の下萱津のフジなどがある。
[伊藤郷平]
『『甚目寺町史』(1975・甚目寺町)』
愛知県あま市甚目寺にあり、真言(しんごん)宗智山(ちさん)派。鳳凰(ほうおう)山と号する。本尊は聖観音(しょうかんのん)像。縁起によると、伊勢(いせ)の甚目龍麿(はだめたつまろ)が漁労中に入り江の中から紫金の聖観音像を得て597年(推古天皇5)に草堂を建てたのに始まるという。その姓にちなんで甚目寺と称された。天智(てんじ)天皇は当寺の霊験により病気平癒したため、八葉(はちよう)の宝鏡を下賜され勅願寺となった。また、678年(天武天皇7)鳳凰山の額を勅賜された。以後、隆替あり、1103年(康和5)七堂伽藍(がらん)を再興、東海の古刹(こさつ)として盛観を極めた。1873年(明治6)本堂を焼失、2年後に仮堂が再建された。仁王門(南大門)、三重塔、東門のほか、寺宝の絹本着色不動尊像(青不動)、仏涅槃(ぶつねはん)図、聖観音像(平安後期)が国の重要文化財である。
[野村全宏]
愛知県あま市の旧甚目寺町にある真言宗の寺。山号は鳳凰山。甚目寺観音とも呼ばれる。当寺に伝わる1264年(文永1)の縁起によると,597年(推古5)に,甚目竜麿(はだめのたつまろ)が海中から網に引かれて出現した観音像を本尊として開創したといわれる。天智,天武両天皇の信仰を得,平安時代の後期には七堂伽藍を備えた大寺として栄えたと伝える。江戸時代には,塔頭(たつちゆう)寺院10ヵ寺を有し,笠覆(りゆうふく)寺,竜泉寺,観音寺の諸寺(ともに名古屋市)とともに,尾張四観音の一つとして信仰を集めた。《尾張志》によると,甚目竜麿の子孫という円成,秀円,長海の3家が,妻帯寺として代々甚目寺を相承し,〈網の衆〉と称していた。本堂は1873年に焼失したが,貴重な文化財を数多く伝えている。源頼朝の命によって梶原景時が再建した南大門をはじめとし,室町期の東門,寛永年間(1624-44)の三重塔,成就院にある観音立像は,いずれも重要文化財に指定されている。
執筆者:中尾 尭
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