町田村(読み)まちだむら

日本歴史地名大系 「町田村」の解説

町田村
まちだむら

[現在地名]九重町町田

湯坪ゆつぼ村の北方にあり、東を玖珠川、西を町田川が北流する。地内の産土神小倉おぐら神社蔵の応永一六年(一四〇九)二月一三日の棟札銘に「玖珠郡山田郷畑村小倉宮」とあり、当時神社周辺をはた村と称していた。神社西側前方に小字畑台はただいがあり、祭礼時などに旗を立てるための旗台からきたものと考えられ、畑村もこれに関連するか。「筑前判物高控」によれば、慶長八年(一六〇三)山田やまだ菅原すがわら町田村のうち三三四石余が福岡藩主黒田長政室化粧料となっている。正保郷帳に村名がみえ、田高七〇三石余・畑高三八九石余で山田郷に属し、茅山有、日損所とある。元禄郷帳では高一千一五〇石余。


町田村
まちだむら

[現在地名]南河内町町田

川右岸の低地に位置し、北は成田なりた村。近世初めは幕府領、慶長一〇年(一六〇五)以後は出羽秋田藩領。寛永五年(一六二八)の万相定覚(国立公文書館蔵)によれば、高五二〇石余、納米一四〇石余・免率二ツ七分、肝煎手作三〇石・肝煎免米一石・関免米二石。同年に田中たなか村・東根ひがしね村とともに畑方年貢米納の代りに免率二歩の引下げを要求し、一歩の引下げを許されている(梅津政景日記)。慶安郷帳では田高三四九石余・畑高一七六石余。


町田村
まちだむら

[現在地名]吉川町町田・十町歩じつちようぶ

北は六万部ろくまんぶ村、西は手島てしま(現頸城村)、南は矢住やずみ(現同上)に接し、東は町田山御林である。多川たがわ古城跡がある。天文九年(一五四〇)六月一八日の長尾景重宛行状(歴代古案)に「くひきの郡ひた森の郷手島・町田」とみえ、両地から一二〇貫文の地を板屋藤九郎に給与している。天文一八年から永禄三年(一五六〇)の間に発行された一二月一六日の長尾景虎証状(顕法寺文書)によれば、景虎は当地へ度々使を派遣している。


町田村
まちだむら

[現在地名]大内町町田

大谷おおたに村の南にあり、みなみ川・北川が村内を貫流する。寛永国絵図では入野にゆうのや郷に含まれる。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳の町田村の高四八一石余。寛文七年(一六六七)の田方検地帳(坂東文書)によると田方の畝数二九町二反余・高三六七石余で、このうち上々田九町七反余、上田九町四反余。また田数四三九筆・所有者数七七人で、一人当り平均畝数三反七畝余。同検地帳の張紙によると土地所有の移動は激しく、幕末では田方の四分の一強にあたる一一三筆が木村庄次兵衛の所有であり、三殿みどの村の木村才助も三七筆を所有している。


町田村
まちだむら

[現在地名]沼田市町田町

石墨いしずみ新田の南、西流する薄根うすね川の右岸にあり、南は同川を挟み沼田城下、東は岡谷おかのや村、西は下沼田しもぬまた村・善桂寺ぜんけいじ村、南西は白岩しらいわ村、北は戸神とかみ村。集落は東西二つの組に分れる。字東原ひがしはらに天台宗寺門派、幕岩山町田坊観音寺があるが、「加沢記」「薄根村誌」などによれば、往古町田万福なる山伏が当地の原野を開き、町田坊を建立したのが当村落の基となったという。同坊の開基は平安末期とも室町中期ともいわれるが、当初は本山修験系で、同系の有力な坊として近世まで利根・勢多せた両郡に勢力を張った(天文二〇年六月二一日「秀栄・長隆連署注進状」内山文書など)


町田村
まちだむら

[現在地名]茂木町町田

所草ところくさ村の西に位置し、集落は低位な山間地帯に本郷ほんごう淵田ふぢた石末いしずえ尾軽おがるい立石たていし栗生くりゆう大沢おおさわ菖蒲田しようぶたの八地区に分れて形成される。慶安郷帳では芳賀郡に記され、旗本千本領。明暦元年(一六五五)から一時幕府領となったが、その後再び旗本千本領となり、元禄郷帳には同領とあって幕末まで続く。慶安郷帳では田方一五〇石・畑方一五二石余。元禄郷帳では三二二石余。旧高旧領取調帳では一千一八八石余・長安ちようあん寺領四三石余。文政一二年(一八二九)他の二ヵ村とともに領主のたび重なる御用金上納令に反対し、直訴を計画。小前百姓の代表六一名が江戸へ向かったが、途中、宇都宮宿で宇都宮藩の家来に慰留された(「御用金減免願」森島吉蔵文書)


町田村
まちだむら

[現在地名]東村町田

北は大沼おおぬま村、南は新利根川流域の水田地帯を経て平川ひらかわ(現河内村)に続く。中世は東条とうじよう庄に属し、江戸時代は天領で、元禄郷帳の村高は三六六石余。のち村の南の沼沢地帯の開田が進んだためか天保郷帳では五二八石余に増加する。

元文三年(一七三八)の石造の道標が正光しようこう寺墓地を囲む現村道交差点に残り、左右に「上布川道」「下阿波道」とある。当村の旧往還で、西は龍ヶ崎村(現龍ケ崎市)を経て利根川沿岸の布川ふかわ(現北相馬郡利根町)に至り、東は阿波大杉あばおおすぎ神社(現桜川村)を経て鹿島に通じた。町田の東の台地上に熊野神社(祭神熊野神王櫛御気野命など七柱)がある。


町田村
まちだむら

[現在地名]土佐山田町町田

加茂かも村の南西、物部ものべ川南東岸に沿う細長い村で、川を隔てて下村しものむらと相対し、南はからすもりを隔てて西佐古にしさこ(現野市町)片地かたじ(村)一三ヵ村の一で、明治初年片地村となる。

天正一六年(一五八八)の山田郷地検帳には町田村として三八筆が記され、大部分が矢野甚兵衛の給地。屋敷は七筆ですべて居屋敷とある。元禄地払帳によると本田高四八・七三九石、うち蔵入地は一石余で残りは二名の知行。新田高は五八・八四七石で貢物地四石余以外は三人の領知。寛保郷帳では家数一二、人数五六、牛四、馬六。物部川につくられた町田堰(野市上井堰)は、町田井口より対岸の下村五番割ごばんわりに至る長さ一六〇間、高さ五尺のもので、松材三万六千余本、大石一千八五坪を用いて、野中兼山によって正保元年(一六四四)に完成された。


町田村
まちだむら

[現在地名]水府村町田

山田川の中流部に位置し、川は西隣の西染にしぞめ境より大きく西に蛇行し、村はその東側にある。佐竹知行目録(彰考館蔵)の応永三一年(一四二四)の項に「同国町田郷佐竹刑部少輔跡 小峰三河守」とみえ、佐竹氏一族山入氏は上杉禅秀の乱後この地を追われ、小峰氏の領地となった。永正二年(一五〇五)以後は南酒出義藤の支配下となる(水府村史)。文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「町田」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「町田村」とある。

江戸時代には和紙(大判紙・中尺半切)の産地として知られ、また江戸末期には杉平すぎだいらの地より出る白土で町田焼を作ったが、「加藤寛斎随筆」には「色変じて鼠に成る、此土小砂の土を和合して白物は出来るといへども、世人不弄越後産に劣る様に見ゆ」とあり、製品の評判は悪かった。


町田村
まちだむら

[現在地名]小田原市寿ことぶき町一―四丁目・なか町一―二丁目・ひがし町一丁目

西南境を久野くの川が流れ、東は山王原さんのうはら村、西は井細田いさいだ村、南は中島なかじま村、北は今井いまい村と接する。大永三年(一五二三)四月の願成寺再興勧進状写(県史三)に「相州西郡早河庄町田村」とあり、曹洞宗願成がんじよう寺は「相州西郡鞠子河・足子河之中間有寺」で、応永三年(一三九六)足利氏満が祈願所として建立したものという。


町田村
まちだむら

[現在地名]弘前市町田

弘前城下の西北にあり、北は中崎なかざき村、南は船水ふなみず村、西は藤内とうない村、東は岩木川に接する。

天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「町田」とある。慶長一四年(一六〇九)の町田勝右衛門宛の津軽信枚黒印知行宛行状(八木橋文庫蔵)に村名がある。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和はなわ郡に村名があり、村高四〇八・三四石、うち田方は三七五・五四石とある。寛文四年(一六六四)の高辻帳でも村高に変化はない。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、村高六二八・九三二石、うち田方五二九・〇四一石、畑方九九・八九一石。田位は上田から下々田まであり、斗代は上田が一・三石と高い。


町田村
まちだむら

[現在地名]市原市町田

廿五里ついへいじ村の南東、養老ようろう川左岸に位置する。永禄三年(一五六〇)一〇月一四日の北条家朱印状写(下総旧事)に町田郷とみえ、村上民部大輔の所望により守護不入とされている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一四七石。元禄郷帳では高一八六石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高二八二石余で家数三二、幕府領と旗本杉浦領。天保一〇年(一八三九)より二一九石余が請西藩領(「林忠英領地調」林家文書)。旧高旧領取調帳では幕府領七八石余・杉浦領六三石余のほか、上野前橋藩領。


町田村
まちだむら

[現在地名]深谷市町田

利根川右岸の自然堤防上に位置し、南は矢島やじま村、西は滝瀬たきせ(現本庄市)岡部おかべ領に所属(風土記稿)。村名は古代条里制に由来するといわれ、小字の小町こまち西にし・東・南・北・六反ろくたんなども条里にちなむとされる。天正一八年(一五九〇)の徳川家康関東入国後、旗本安部信勝領(のちの岡部藩領)となり幕末に至る(天明七年「岡部藩領郷村高帳」安倍家文書、改革組合取調書など)


町田村
まちだむら

[現在地名]男鹿市男鹿中山町おがなかやままち 町田

男鹿半島の北部、たき川・小増こます川に挟まれた丘陵上に位置する。北に浜間口はままぐち村、南に山田やまだ村がある。

享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)に当高五一石五斗三升九合とある。同一五年の「六郡郡邑記」によれば家数一一軒。


町田村
まちだむら

[現在地名]津和野町町田

もり村の南、津和野川右岸の平地と段丘に立地。津和野城下五ヵ村の一。もと中座なかざ村のうち町田分とよばれた湿地帯が開発されて成立。寛永一四年(一六三七)の田方検地帳(津和野町郷土館蔵)によれば田高八〇石余・反別七町余、名請人一二六、うち百姓入作六九・町人二六・職人九・百姓下人一四ほか。翌一五年森村から当村北端に至り津和野川に連絡された水濠(外濠)が作られた。


町田村
ちようだむら

[現在地名]姫路市町田

飾西しきさい郡に所属。菅生すごう川の流域に位置し、北は実法寺じほうじ村。慶長国絵図に「ちやう」とみえる。領主の変遷は則直のりなお村と同じ。正保郷帳では町田村とみえ、田方一二九石余・畠方一二石余。元禄郷帳では高一一六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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