石清水祭(読み)いわしみずさい

改訂新版 世界大百科事典 「石清水祭」の意味・わかりやすい解説

石清水祭 (いわしみずさい)

京都府八幡市の石清水八幡宮で毎年9月15日に行われる例大祭。賀茂祭(葵(あおい)祭),春日祭とともに三大勅祭の一つ。古くは旧暦8月15日に行われ,明治まで石清水放生会(ほうじようえ)と称した。放生会起源は《政事要略》によると,720年(養老4),隼人征討のとき隼人を殺した報いとして放生会を奉仕するようにとの宇佐八幡神の託宣により始められたと伝えられる。石清水における放生会は,863年(貞観5)僧安宗により初めて行われ,948年(天暦2)勅祭となる。974年(天延2)朝廷節会に準じて楽を奏すようになり,1070年(延久2)には神幸を行幸の儀に準じて行うようになり,盛大となった。石清水放生会は8月の月初めから捕らえておいた生魚,生鳥を山や川に放ち,天皇,将軍はじめ万民の泰平を祈願する祭りで,人々の厚い崇敬をうけた。しかし,応仁の乱以降しばしば延引,中絶した。1679年(延宝7)再興されたが,明治維新後,ふたたび中絶,1884年勅祭として仏教色を排して再興された。現行の祭儀では,9月15日午前2時に八幡三座の神霊鳳輦(ほうれん)3基に移して山を下り,二の鳥居に設けられた絹屋殿に着く。ここで里神楽と奏楽があり,勅使以下の奉迎をうける。これより行幸に準じた行列を組んで山麓頓宮(とんぐう)に着く。頓宮では神職が神饌・花を供え,次に宮司祝詞を読む。ついで勅使が幣物を供え祭文を読み,宮司が返(かえし)祝詞をいう。このあと神前神馬を引き回し,雅楽奉奏があって,幣物・神饌・供花を撤し,一同退下する。鳳輦3基は夕刻まで頓宮にとどまったのち,遷幸の儀があり,その後放生池において魚鳥を放つ行事が行われる。山上の本社に遷御し,宮司が祝詞を読み扉を閉じて,祭儀を終了する。

 また,同宮の二大祭の一つである石清水臨時祭は,942年(天慶5)に平将門・藤原純友の乱平定の報賽(ほうさい)のため臨時に行われたのが始まりで,971年(天禄2)からは名称は臨時祭のままで恒例となり,毎年旧3月に行われた。古くは賀茂祭を北祭というのに対して南祭ともいわれ,京の二大祭の一つとも称されたが,1870年(明治3)に廃止された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石清水祭」の意味・わかりやすい解説

石清水祭
いわしみずさい

京都府八幡市の男山山頂に鎮座する石清水八幡宮で,毎年 9月15日に行なわれている例祭。本来は石清水放生会といい,大分県宇佐市の宇佐神宮で行なわれる放生会にならって,貞観5(863)年に始められたとされる旧暦 8月15日の祭りで,天暦2(948)年に勅使が奉幣する勅祭(→勅祭社)となり,賀茂祭(葵祭),春日祭とともに三大勅祭と並び称された。文明年間(1469~87)から約 200年の中絶ののちに再興され,その後幾度かの変化を経て,1884年今日の祭日になり,1918年石清水祭が正式名称になった。放生会は,本来捕えた魚や鳥などを放つことで日頃の罪穢れをはらい功徳を積む仏教行事で,僧侶も深く関与する神仏一体の祭りであったが,明治以降は仏教的要素を排除して行なわれている。祭りは 9月15日の午前3時に 3基の鳳輦(ほうれん)が山頂の本殿から出御して,山麓に臨時に設けられた絹屋殿で勅使らの出迎えを受け,そこから御旅所である頓宮(とんぐう)に渡御する。頓宮では,午前5時30分頃から勅使による奉幣や祭文奏上などの神事が行なわれる。この時,古式の神饌として,御飯(おんいい),焼鳥,兎餅(ぶと)などの熟饌(じゅくせん)と呼ばれる調理した神饌と,サケ,ブドウ,ナスなどの生饌(せいせん)と呼ばれる未調理の神饌,それに本来は皇室からのお供えであった供花(きょうか)と呼ばれる四季折々の花と景物のつくりもの 12台が出される。午前8時から境内の放生川で大祓詞(→大祓)を奏上しながら魚や鳥を放つ放生行事と安居橋(あんごばし)での胡蝶の舞があり,舞楽の奉納なども行なわれ,午後8時頃鳳輦が山頂の本殿に戻る。

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