昭和初期に全国労農大衆党と社会民衆党の合同によって結成された無産政党。1931年(昭和6)の満州事変開始直後、国内に侵略主義熱が高まるなかで、無産政党からも国家社会主義に転向する人々が出現したため、孤立を恐れた両党の大同団結が実現した。結党は32年7月24日。委員長安部磯雄(あべいそお)(旧社民系)、書記長麻生久(あそうひさし)(旧日労系)。社会民衆党の三反主義(反資本主義、反共主義、反ファシズム)を継承し、反戦闘争を放棄して、労働者・市民・農民の生活防衛や日ソ中立条約締結などをスローガンに運動を行った。麻生ら一部幹部は、既成政党を打倒して政権を獲得することを目ざし、ファッショ的な軍部幕僚層を「革新勢力」とみて提携しようとした。34年には陸軍パンフレット「国防の本義と其(その)強化の提唱」の説く「広義国防論」を支持し、36年には二・二六事件を賛美した。他方同党は唯一の大衆的無産政党としてファッショ化を阻止する役割を果たすことを願う人々の支持をも集め、36、37年の総選挙で「先(ま)づ国内改革の断行!」を掲げて躍進した(37年選挙では37名が当選)。また左派の労働組合などは、同党が反ファッショ人民戦線の主体となることを期待したが、同党はこれを拒否、37年日中戦争が起こるといち早く戦争協力の姿勢を示した。同年11月の大会で「国体の本義に基づき……」という新綱領を決定して階級闘争を否定、直後の人民戦線事件では関係者を即時除名した。また近衛文麿(このえふみまろ)内閣に迎合して電力国家管理法案や国家総動員法案を積極的に支持した。このため、右翼による安部委員長襲撃事件や、国家総動員法に積極的に賛成し「スターリンのごとく」邁進(まいしん)せよと近衛内閣を激励した西尾末広代議士除名問題にみられるように、伝統的右翼や既成政党の反感を買った。38年の党大会では新建設大綱を決定し、全体主義を原則とする党となることを明確にし、翌年国家社会主義系右翼政党である東方会との合同を策したが失敗した。この間、旧社会民衆党系と旧日本労農党系の対立が激化し、主流派となった旧日労系幹部は、40年斎藤隆夫(たかお)代議士除名問題で除名に反対する安部委員長ら旧社民系代議士7名と水谷長三郎(みずたにちょうざぶろう)を党から除名し、同年7月6日近衛新体制運動に参加するため他の政党に先駆けて解党した。
[吉見義明]
アメリカ軍占領下の1950年(昭和25)10月31日、沖縄群島知事選挙で当選した平良辰雄(たいらたつお)を委員長とし、その支持者らが中心となって結成された政党。民主的な社会政策の実施、国際正義に基づく新琉球(りゅうきゅう)の建設などを掲げた。党は農民、漁民、中小商工業者ならびに一般勤労者の結合体と定められたが、沖縄政財界の有力者らも加わり、傾向としては中道左派に近い。1951年3月、党大会を開いて、いち早く日本復帰運動を進めることを決議。同年4月には人民党などとともに日本復帰促進期成会を結成、沖縄県祖国復帰協議会(1960年4月結成)に参加するなど、沖縄復帰運動に大きな役割を果たした。1972年の復帰実現後、沖縄各政党の本土への系列化が進むなかで同党は唯一、沖縄県の地方政党として存続。参議院沖縄選挙区選挙や沖縄県知事選挙などでは、社共共闘の触媒役を果たした。その後、社共間の離反に伴って日本共産党との関係は薄れたが、1995年(平成7)9月のアメリカ兵による少女暴行事件を契機に沖縄米軍基地縮小・返還要求の気運が高まるなかで、共産党との共闘関係が復活した。沖縄における大衆集会や選挙での共闘関係の核となる革新的政党として、根強い影響力をもっている。
[藤井 正・五十嵐仁]
『比嘉良彦・原田誠司著『地域新時代を拓く――沖縄社会大衆党論』(1992・八朔社)』
1932年7月全国労農大衆党と社会民衆党の合同により結成された社会民主主義政党。満州事変直後,日本国内に侵略主義的熱狂状態が生じ,無産政党の中からも赤松克麿,松谷与二郎など国家社会主義に転向する人々が続出した。このため孤立を恐れた両党は合同することによって危機をのりきろうとした。委員長安部磯雄(旧社民系),書記長麻生久(旧日労系)として結党し,機関紙《社会大衆新聞》を発行。社会民衆党の三反主義(反資本,反共,反ファシズム)を継承して,戦争に反対せず,反共主義の立場をとり,他方で露骨な国家社会主義とも一線を画した。労働者,市民,農民の生活防衛を掲げて運動した。麻生ら一部幹部はファッショ的な軍部幕僚層を〈革新勢力〉とみてこれに接近し,陸軍パンフレット支持(陸軍パンフレット事件),二・二六事件賛美などの言動をくり返した。36,37年の総選挙では,唯一の大衆的無産政党である社会大衆党はファッショ化を阻止する役割を期待する労働者,市民層などの支持をも集めて躍進し,37名の代議士を擁するに至ったが,同党は反ファッショの姿勢をとることを拒否した。37年日中戦争がおこるといちはやく戦争協力を表明し,綱領を改定して階級闘争を否定し〈国体の本義〉に基づいて行動することを明らかにした。人民戦線事件では関係者を即時除名し,電力国家管理法案や国家総動員法案に対しては〈戦時革新政策〉とみて積極的に賛成した。さらに37年秋の党大会で新建設大綱を決定し,全体主義を原則とする国民の党となることを目標に掲げ,39年東方会との合同を策したが,これは失敗した。この間,党の路線をめぐって旧社民系と旧日労系との対立が激化し,主流派となった旧日労系幹部は40年斎藤隆夫代議士除名問題(反軍演説問題)で除名に反対する安部委員長ら旧社民系代議士7名と水谷長三郎を党から除名し,同年7月6日新体制運動に率先参加すべく他政党にさきがけて解党した。
執筆者:吉見 義明
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1932年(昭和7)7月全国労農大衆党と社会民衆党が合同して結成された単一無産政党。委員長安部磯雄,書記長麻生久。主導権を握った旧全国労農大衆党の麻生・田所輝明,旧社会民衆党の亀井貫一郎らは陸軍の一部や革新官僚勢力と接近して方針転換を進めた。当初は不振だったが,36・37年の総選挙で躍進し,最大時37の議席をもった。日中戦争が始まると戦争遂行に協力。第1次近衛文麿内閣に対しては与党のようにふるまって国家総動員法を支持,38年の近衛新党運動には麻生・亀井らが中核として参加した。40年反軍演説を行った斎藤隆夫除名問題を契機に一部が分裂,主流派は同年近衛新体制運動に参画し,7月解党した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…(3)第3次 34年10月には渡辺潜を編集発行人として清談社から再び発行された。この《解放》は第2次の巻号を継承しているが,従来のものとは異なり総合雑誌の形をとらず,社会大衆党系の政論雑誌の性格をもっている。執筆者には,主宰者の麻生久のほか,田所輝明,菊川忠雄ら同党系の論者が多い。…
…1932年2月の総選挙で無産政党は得票26万票,当選5人と不振をきわめた。32年7月,社民党と全国労農大衆党は合同し,社会大衆党(社大党,委員長安部)を結成した。同党は労働組合の右翼的戦線統一とも密接なかかわりをもち,三反主義(反資本主義・反共産主義・反ファシズム)の方針を掲げたもののその〈反ファシズム〉はあいまいであった。…
※「社会大衆党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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