上原村(読み)ういばるむら

日本歴史地名大系 「上原村」の解説

上原村
ういばるむら

[現在地名]竹富町上原うえはら

西表いりおもて島北西部に位置し、北は海に面し、中央部に船浦ふなうら湾がある。西から南は浦内うらうち川を境に西表いりむてい村・南風見ぱいみ村、東はヨシケラ川付近で高那たかな村と接する。上原村・浦内うらうち村・多柄たから村の三小村からなり、村番所は上原村にあった。道徳的規範を内容とした節歌「でんさ節」で有名。

近世初頭、船浦湾から東には鬚川ぴない村があったとみられる。鬚川村は両島絵図帳に「ひけ川村」とみえ、高三五石余で古見くん間切に属していた。正保国絵図はユツン川の東に「ひけ川村」、鳩間はとま島からユツン潟までの航路に「ひけ川村より鳩間島迄海上三里半」と記す。また両島絵図帳に鳩離ぱとうぱなりの瀬は「ひけ川おかミ崎より六町」とあり、おかミ崎は現船浦ふなうら港の北にある岬の称で(正保国絵図)、同所に「ひない御嶽」がある。船浦湾に注ぐヒナイ川下流には八重山層群の砂岩から流れ落ちるピナイサーラ(ヒナイ滝)がある。滝の落差は四五メートルで県下最大。ピナイは西表島の方言でヒゲを意味し、滝がヒゲのように白く垂れ下がってみえるためこの名があり、鬚川の村名もこの滝に由来するかもしれない。鬚川村役人は一時期鳩間ぱとうま村を管掌していたが、一七世紀末までには人口減少で廃村同然となっていたらしく、康熙四二年(一七〇三)の鳩間村立村願(参遣状)には「鬚川古村」と記される。船浦中学校北側付近が鬚川村集落跡とされ、外来陶磁器や土器などが出土する。

元来上原は船浦湾の北西にある上原ういばる(一五九・五メートル)東麓の小村で、西表村の一部であった。


上原村
うえはらむら

[現在地名]茅野市ちの 上原

永明寺えいめいじ山の南西麓から西方の平坦地域に広がり、甲州道中に沿う。北は神戸ごうど(現諏訪市)、東南は塚原つかはら村・横内よこうち村に接し、南はかみ川を境とする。

村名としての初見は文禄四年(一五九五)四月のあきうみのおさめ覚(「海年貢秋納書上案」花岡文書)に「仁斗 上原村」とある。上原は中世初期以来、諏訪社上社大祝の支族上原氏の支配下にあり、建武二年(一三三五)二月の大祝職位事書に「上原神主 白米三升 二百文」とあり、上原神主こうぬしは上原の祝で、大祝職位神事の費用を分担している。「諏訪旧蹟誌」には「上原は往昔諏訪家の居館の在りし地なり、当時諏訪の五山とて極楽・永明・金剛・光明・法光の五院あり、其極楽寺は鎌倉殿に仕へし盛重入道蓮仏の創建」とあり、文正元年(一四六六)頃には上原城に拠った諏訪社上社惣領家諏訪信満の支配下にあることより、寺院創建が鎌倉時代に始められ、室町時代の中頃には上原城とその館を中心に町造りが行われていたことが推測される。


上原村
うえばらむら

[現在地名]鳥取市上原

尾崎おさき村の南、野坂のさか川右岸に位置する。上段かみだん村の一町ほど西で、松上まつがみ谷口にあたり、千畳新田があった(因幡志)。野坂川と支流細見ほそみ川の合流点が当村の奥にある。建武五年(一三三八)四月一日の松上神社鐘銘(因幡民談記)に「勧進十善大工沙弥十阿弥陀仏」「赤目大工治部左衛門尉国政」とみえ、十善・赤目は当地の小字十膳上分じゆうぜんかみぶん十膳下分じゆうぜんしもぶん上十禅かみじゆうぜん赤目あかめなどに比定され、鋳物師大工が居住していた。また永正二年(一五〇五)八月一八日銘の銅製鰐口(大塚薬師堂蔵)に「上原大工藤原信重」とみえ、この人物は明応六年(一四九七)四月二九日付の隠岐国源福げんぷく寺の銅鐘(現島根県温泉津町の愛宕神社蔵)や、同年五月三日付の布施仙林ふせせんりん寺の鐘を造った(「鐘銘」因幡民談記)


上原村
かみのはるむら

[現在地名]西区今宿上いまじゆくかみはる

怡土いと郡の北東端に位置し、南西に高祖たかす山、南東にかのう岳を控えた谷筋にある。集川(現鯰川)が北へ流れる。北は志摩しま青木あおき村、東は早良さわら野方のかた村・拾六町じゆうろくちよう村に接し、山を越えて野方村に通じる道(藤坂越)があった。小早川時代の指出前之帳では上原村は田一九町余(分米二二二石余)・畠八反余(分大豆七斗余)。慶長七年(一六〇二)の検地高は五一九石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高五四四石余、家数三二・社一・寺一、人数二一九(田圃志)


上原村
かみはらむら

[現在地名]庄原市上原町

恵蘇えそ郡の南部、西城さいじよう川南方に位置し、南西は下原しもはら村、北東は三日市みつかいち村、東は戸郷とごう村に接する。文応二年(一二六一)二月二八日の千光寺領備後地庄本郷内領家職田数目録案(山内首藤家文書)に「上原」がみえる。村域には古墳多数が分布し、確認されたもの二〇基以上。円墳が多いが国兼くにかね池畔の甲山こうやま古墳は全長四八メートルの前方後円墳。また奈良時代には豪族の氏寺がこの地にあったという伝承があり、その瓦を焼いたと思われる白鳳期の平窯跡が残る。

中世にはじび庄の南部に位置した。


上原村
かんばらむら

[現在地名]綾部市上原町・下替地したのかち

山家やまが村の枝村で、由良川の左岸段丘上に位置する。村域の東部を下替地(下構内・下皆地)とよぶ。東は船井郡立木たちき(現和知町)、西は下原しもばら村。村内を京街道が通る。横畑よこはたの北に通称船場ふなば(小字名舟戸)があり、北岸の広瀬ひろせ村と渡船で連絡した。この渡船は京街道の要で、江戸後期の御蔭参の際には大繁盛したことが珍事箒集記(加藤家蔵)にみえ、諸般雑事(「菅沼謙蔵手控」木下家蔵)には次のような記事がある。


上原村
いーばるむら

[現在地名]与那城町上原うえはら桃原とうばる

宮城みやぎ島のほぼ中央に位置し、北は池味いけみ村、東は宮城なーぐしく村。地名は集落が緩やかな丘陵地帯の上方斜面に立地していることに由来するという。絵図郷村帳などにはみえず、康熙一五年(一六七六)勝連かつちん間切から西原にしはら間切(のち与那城間切)が分離・独立した際に、上原・名安呉なーぐの二村を新たに立てたと推定される(南島風土記)。「琉球国由来記」「琉球国旧記」に村名がみえる。脇地頭は順治三年(一六四六)に久米村系の鄭氏(池宮城家初代)一〇世鄭士廉が名島として拝領し(鄭姓池宮城家家譜)、同一六年に薛氏(屋嘉部家初代)一世利元の任職を確認できる(薛姓屋嘉部家家譜)


上原村
うわはらむら

[現在地名]河内長野市上原町・千代田台ちよだだい町・西之山にしのやま町・昭栄しようえい町・寿ことぶき

石川左岸の河岸段丘上にあり、川を挟んで東は喜多きた村。標高は一四〇―一五〇メートル。天野あまの街道と滝畑たきのはた村への道が北東より南西に通じ、集落は滝畑村への道に沿う。延久四年(一〇七二)九月五日の太政官牒(石清水文書)甲斐かい庄がみえ、同庄のうちに「上原山地弐段」がある。正応三年(一二九〇)正月二五日の文宗利田地売券写(金剛寺文書)には「錦部郡長野御庄内散在領字上原」とある。


上原村
うわばらむら

[現在地名]山中町上原町

塚谷つかたに村の北西に位置し、南北に細長い村域をなす。集落は南から延びる丘陵の末端と大聖寺だいしようじ川の間の緩傾斜地に形成されるが、大聖寺川沿いには出村であった土谷つちたに村があった。土谷村のほうが低地であるため、当村をかみ村、土谷村をしも村と俗称したが、土谷村は文政四年(一八二一)頃までには消滅して当村のなかに含まれたとみられる(加能郷土辞彙)。「天文日記」天文一五年(一五四六)八月五日条に「うへ原」とみえ、当番に当たっている加州直参衆の上原浄専が到着、同二二年五月一六日にも、「ウワはら」浄専が来ているが、これは当地のことか。


上原村
うえはらむら

[現在地名]安佐北区可部かべ町上原

東・南・北の三方を山で囲まれる村で、西方は根谷ねのたに川を挟んで下町屋しもまちや村・可部町・中島なかしま村に接する。上原貝塚・だい古墳・上原古墳などがあり、かなり早くから開けた地であったことがわかる。中世には三入みいり庄に含まれていた可能性が大きい。嘉禎元年(一二三五)一一月一二日付の安芸三入庄地頭得分田畠等配分注文(熊谷家文書)にみえる「長尾里」は、村内字長尾ながおに比定でき、また村内寺山てらやま八幡宮(現上原八幡宮)は、近世下町屋村社人末田加賀守の抱えになっており、三入庄鎮守八幡宮の注連下(配下)の地域であったことをうかがわせる。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では、高一一八石八斗八升三合を記すが、山麓の開拓が進み、寛永一五年(一六三八)の地詰で一六一石一斗(郡中国郡志)、正徳四年(一七一四)の地詰で一六九石三斗二升五合になり(同書)、「芸藩通志」もこの高を踏襲している。


上原村
かんばらむら

[現在地名]総社市上原・富原とんばら

下原しもばら村の北、高梁たかはし川右岸に沿い新本しんぽん川との合流点の北部に位置する。中世には一帯に京都東福寺領の上原郷が成立していた。慶長五年(一六〇〇)備中国奉行小堀正次は手代の柳井やない(現高梁市)新左衛門に上原村高四六九石余などの年貢取立を命じている(「小堀正次書状」柳井文書)。寛永備中国絵図に上原上村とみえ、岡山藩領四六九石余、宝福ほうふく寺領四四石とある。岡山藩領分は宝永五年(一七〇八)より同藩生坂領となり(撮要録)、幕末まで宝福寺領との二給が続く。


上原村
かみはらむら

[現在地名]妙高高原町関川せきがわ

北国街道に沿い、北は毛祝坂けわいざか新田、南の関川村とは家並が接続している。東の関川対岸は信濃国熊坂くまさか(現長野県上水内郡信濃町)。永正一六年(一五一九)と推定される四月二日の長尾為景書状(上杉家文書)によれば、「島津方一和義、去冬以来相談上、去々月廿六、於上郷上原、長寿院、島津方弟治部少輔遂会面、互祝義等候、定可為御悦喜候哉」とあり、信濃国島津貞忠が為景に和を請い、為景は部将山吉妙寿をして、貞忠の弟元忠と上原の地で講和を結ばせている。


上原村
かんばらむら

[現在地名]磐田市藤上原ふじかんばら

藤野ふじの村の西、磐田原台地北部にある。豊田とよだ郡に属する。村名は神原とも書いた(掛川誌稿)。「掛川誌稿東原ひがしばら村の項に寛文一三年(一六七三)の検地帳には向笠原むかさはら新畑とあり、東原・中原・上原三村が並んでいたとあることから、向笠原新畑として開発され、のちに分立したと考えられる。さらに藤野村の牛頭天王を祀り、見取みどり(現袋井市)竜光りゆうこう院を旦那寺とするともあり、藤野村からの開発を推測させる。元禄郷帳では九石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。享保郷村高帳では掛川藩預所。


上原村
うえはらむら

[現在地名]大多喜町上原

大多喜城下柳原やなばら町の東、夷隅川右岸に位置する。大多喜往還が南北に通る。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高四七二石。慶長五年(一六〇〇)の大多喜藩領分高付帳(大木家文書)では高四七七石余。寛文四年(一六六四)当時は武蔵国岩槻藩領(寛文朱印留)。同一一年阿部正春の移封に伴い大多喜藩領となり(貞享元年「阿部正春領知目録」阿部家文書)、幕末に至る。元禄郷帳では高四九八石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高五〇八石余、家数八八。以降幕末まで同高。安政四年(一八五七)の根古屋高覚帳(渡辺家文書)によれば田一六町七反余・畑二四町三反余。


上原村
かみはらむら

[現在地名]六日町上原

南は新堀にいぼり村・法音寺ほうおんじ村、東は下薬師堂しもやくしどう村、北は宇田沢うださわ川を挟んで長森ながもり村、西は下原村。枝村上原新田との耕地境はない。西方魚野うおの川右岸のいずみ新田より城内じようない谷奥地へ通じる道が通る。当村庄屋を代々勤めた種村家の由緒(種村仁之氏蔵)によると、文中四年(一三七五)に種村兵部之佐の開村。寛政一二年(一八〇〇)の覚書(同氏蔵)には「本家種村氏ハ上原村根本之者ニテ高田春日山城主 種村曾右衛門従テ 七拾五歳 松平中将様御代以来百姓也」と記す。ちなみに「上田士籍」(米沢市立図書館蔵)には「条」すなわち城内谷出身の上田衆に種村三右衛門の名がみえる。


上原村
かんばらむら

[現在地名]気高町上原

山宮やまのみや村の南、逢坂おうさか谷中央部西方の山麓に位置する。南は飯里いいざと村。古くは原井手上はらいでのかみ村と称していたが、文政一一年(一八二八)上原への改称を願出て、領内限りで認められた(在方諸事控)。拝領高は四九五石余、本免は五ツ二分。藪役銀三匁九分五厘が課せられ(藩史)、羽田氏・西村氏・伊吹氏・井上氏・武田氏・木村氏・野口氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によると家数三八。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高五四四石余、竈数四〇。


上原村
うえのはらむら

[現在地名]津奈木町岩城いわき

北はなか村、西は桜戸さくらど村、東は山口やまぐち村・松岡まつおか村に接する。「うえんはる」とも発音する。寛永一八年(一六四一)の津奈木村小村切高物成人畜御帳(徳富文書)に「津奈木村内上原村」とあり、高八〇石二斗余、田数二町九反六畝余・畠数三町三反八畝余、真綿七匁五分・茶一六五匁、女一五・男二八、うち地侍二・郡筒二、馬二が記される。正保三年(一六四六)の津奈木内小村切人畜改御帳(同文書)には女二五・男三二、うち郡筒四・細工人一、馬四がみえる。津奈木手永に属し、「国誌」は小村として東部の大見堂おおみどう村、西部の久子ひさご川流域の久子村、はら村を記し、阿蘇宮について「祭八月十五日 社人緒方右衛門」とするが、現在阿蘇神社として津奈木川対岸の天満宮の隣に移されている。


上原村
うわはらむら

[現在地名]清水市上原・上原一―二丁目・有度本町うどほんちよう

馬走まばせ村の北、有度山うどさん丘陵の北麓にあり、東は有東坂うとうざか村。東海道が通る。元禄郷帳には「古は地蔵原村」とみえる。天文二〇年(一五五一)一一月二七日の今川義元判物(臨済寺文書)に「上原新村」とみえ、同村在家が臨済りんざい(現静岡市)に安堵されている。同新在家は同五年に同寺領として寄進された志多良方しだらかた内にあり、以後一〇年間棟別・諸役・押立使等が免除されている。永禄二年(一五五九)九月二六日同新在家が再び同寺に安堵され(「今川家朱印状」同文書)、翌三年一二月二四日新在家への棟別・四分一人足・押立・宿送等の諸役が、同五年から一〇年間免除されている(「今川氏真判物」同文書)


上原村
うわはらむら

[現在地名]上石津町上原

牧田まきだ川右岸にあり、北は東山ひがしやま村。牧田川を挟んで西はみや村。文禄五年(一五九六)の多良山年貢割帳(西脇文書)に上原・上原村とみえ、「大ほら」「ひらいし」「かうのす」「しをの谷」分として合せて四石余の年貢が割当てられている。元和四年(一六一八)の時・多良村川成内検目録(東高木文書)に田畑一町二反余の米高一二石余・定米五石余とある。同九年の時・多良郷家付帳(同文書)には上原村と上原上うわはらかみ村がみえ、家数二四・同四となっている。上原上村は枝郷か。寛永六年(一六二九)の徳川家光朱印状写(江口文書)では当村のうち一八石余が高木貞俊(北高木家)に宛行われている。


上原村
かんばらむら

[現在地名]猪名川町はら松尾台まつおだい伏見台ふしみだい

下原しもばら村の北東に位置し、南西部を原川が南流する。中世には多田ただ庄に属し、下原村とともに原郷とよばれる郷村であった。慶長国絵図に上原村とみえ、高は下原村と一括で二九五石余。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では「上下原村」と記される。正保郷帳では上原村として高一〇六石余。領主の変遷は柏梨田かしうだ村と同様と考えられる。北東の内馬場うちばば村と再三村境争論を繰返し、万治三年(一六六〇)ほそくろみ山の山境をめぐる争論では籤で榜示を定め、伊勢御師に証文を宛てている(「銅山出来につき山境改証文」福武家文書)


上原村
かんばらむら

[現在地名]光町上原

目篠めじの村の北東に位置する。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳に村名がみえ、高一五〇石、宮川組に属し、旗本曾雌領。曾雌氏の支配は寛永一八年(一六四一)からで、元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分には独立した村名はなく、当村は原方はらかた村に含まれていた。曾雌領は享保一〇年(一七二五)に収公され、幕府領になったとみられる(寛政重修諸家譜)。文化九年(一八一二)旗本黒田領となり、このときに分村独立したようで(鈴木家文書)、天保郷帳に村名がみえ、「原方村之内」と注記される。


上原村
かみはらむら

[現在地名]瑞穂町上原

三日市みつかいち村の北、出羽いずわ川左岸の傾斜地に立地。栃谷とちたに山にあか城跡、原との境に白鹿しらが城跡、三日市との境近くに城跡がある。これらの城は宇山うやま城を構成する支城で、戦国期出羽氏の拠点とした城であった。赤城山麓には出羽氏五代の墓がある。北部山地には宇山窯跡があり、宇山遺跡散布地からは須恵器片・石斧・土師器が出土している。もと浜田藩領原村のうちであったが、貞享二年(一六八五)村の一部が幕府領(石見銀山領)となり,同領分が上原村となる。


上原村
うわばらむら

[現在地名]飯豊町上原

数馬かずま村の南にある。天文二二年(一五五三)晴宗公采地下賜録中津川なかつがわのうちとして「うハはら屋敷同てさく」とみえ、中津川伯耆守に与えられ、諸役免除であった。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高一八〇石余、免四ツ九分、家数一八(うち役家二・肝煎一)・人数七一。役木として桑をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は上。寛永八年分限帳によると当村に給地のある家臣二。寛永一五年(一六三八)の検地帳(三浦文庫)によると高三八一石余、田方二四町六反余・畑方四町一反余、名請人数二五、うち屋敷持八。


上原村
うえのはるむら

[現在地名]清和村米生よねお

東は名荷園みようがぞの村、西は馬場野ばばの村に接し、北は大矢おおや川を隔てて大河おおかわ村と対する。近世は阿蘇郡菅尾手永に属し、「国誌」に高四四石余とある。


上原村
かんばらむら

[現在地名]金沢市上原町

白見しろみ村の南、白見谷の谷間に位置する。正保郷帳では南の畠尾はたけお村と併記され二村合せて高一〇一石余、田方一町五反・畑方五町二反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高四〇石・免五ツ、ほかに山役七七匁・炭役一二匁の小物成があった(三箇国高物成帳)


上原村
かんばるむら

[現在地名]豊津町上原

綾野あやの村の南、上坂かみさか村の東に位置し、はらい川東岸の舌状に張出した段丘上に集落が形成されている。元和八年人畜改帳では御蔵納分の高三九〇石余、家数二五・人数四六(うち庄屋一・百姓七・名子三)、牛七・馬二。


上原村
うわばるむら

[現在地名]芦北町上原

球磨川支流の平谷ひらたに川を約一キロさかのぼると権現ごんげん滝があり、落人の存在を隠すため泣叫ぶ赤子を捨てたという伝説のある嬰児あかご淵を過ぎ、さらに急な渓谷を登り詰めた所にある。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に村名がある。


上原村
うえはらむら

[現在地名]市原市上原

馬立うまたて村の南東に位置し、養老ようろう川が流れる。対岸の妙香みようこう村と結ぶ上原岸渡がある。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一〇八石で、幕末までほぼ同様。


上原村
かみはらむら

[現在地名]柏崎市上原・橋場はしば

鯖石さばいし川の蛇行が北北西からほぼ西に方向を変える屈折点に位置する。下原村とともに中世は牧原まきはら、近世初期は原村と称した。近世の支配は春日かすが村と同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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