百科事典マイペディア 「神野真国荘」の意味・わかりやすい解説
神野真国荘【こうのまくにのしょう】
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紀伊(きい)国那賀(なか)郡南部山間にあった荘園。中世には「かんの~」とよばれたらしい。現在の和歌山県海草(かいそう)郡紀美野(きみの)町の一部にあたる。貴志(きし)川沿いの神野荘と真国川沿いの真国荘とに分かれ、神野荘東方の猿川(さるかわ)荘とともに三箇荘とも称された。1142年(康治1)開発領主長依友(ちょうよりとも)が藤原成通(しげみち)に寄進、成通は鳥羽院(とばいん)に本家職(しき)を寄進して翌年荘園として立券された。鳥羽院の熊野詣(もうで)の際には雑事(ぞうじ)を負担。1182年(寿永1)成通の子泰通(やすみち)は荘を高雄神護寺(たかおじんごじ)に寄進、文覚(もんがく)の流罪後には藤原光親(みつちか)領となった。一方高野山(こうやさん)は、長氏の寄進以来毎年10石の上分米(じょうぶんまい)を受け、また一時期真国荘は地主神丹生都比売(にうつひめ)神社の宮地であったことなどから、以前より領有権を主張していた。承久(じょうきゅう)の乱(1221)後、後高倉院(ごたかくらいん)の寄進により、以後中世を通じて高野山一円知行(いちえんちぎょう)の荘園となった。1271年(文永8)から1315年(正和4)の間に計13通の荘官起請文(きしょうもん)が作成され、また鎌倉中期には神野市場が成立、付近一帯の交易の中心地となった。1143年の立荘の際に作成された神野真国荘絵図が神護寺に残る。
[権平慶子]
『西岡虎之助著『荘園史の研究 下巻』(1933・岩波書店)』▽『江頭恒治著『高野山領荘園の研究』(1938・有斐閣)』▽『竹内理三著『荘園制と中世社会 竹内理三先生喜寿記念論文集下巻』(1984・東京堂出版)』
紀伊国那賀郡(現,和歌山県海草郡紀美野町の中東部)の荘園。〈かみのまくにのしょう〉ともよむ。貴志川上流の神野川と真国川にそれぞれ沿った神野荘・真国荘の2荘からなる。両荘は成立当初は一体的なものとして扱われているが,鎌倉中期以降それぞれ独立した荘園とみなされるようになる。ただし,神野荘から分離した猿川荘とあわせて三ヶ荘と呼ばれることもある。神野真国荘は1142年(康治1)鳥羽院を本家とし,藤原成通を領家とする荘園として成立したが,立券は翌年で,神護寺蔵の神野真国荘絵図によって知られる。開発領主は長依友で,これ以前に高野山に寄進されたことがあり,鳥羽院領となって以後も地利米10石の貢進が義務づけられている。このため領有関係はかなり複雑であるが,おおざっぱにいえば本家職は鳥羽院から八条女院,順徳天皇と伝領され,領家職は成通から養子泰通,神護寺,藤原光親と伝領されたらしい。ただし75年(安元1)には吉野の金峰山の領主権も生じている。ところが承久の乱後当荘の領有関係は一変する。すなわち,本家職・領家職ともにいったん幕府に没収され,ついで返付をうけた後高倉院が1221年(承久3)高野山に寄進した。この際,幕府は北条時氏を地頭職に補したが,高野山の抵抗にあって27年(安貞1)停廃され,これを契機に高野山の一円直務支配が確立した。山間荘園の性格が強いが,荘内には高野参詣道も通っており,神野荘には市場の成立もみられた。
執筆者:小山 靖憲
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…ただし,神野荘から分離した猿川荘とあわせて三ヶ荘と呼ばれることもある。神野真国荘は1142年(康治1)鳥羽院を本家とし,藤原成通を領家とする荘園として成立したが,立券は翌年で,神護寺蔵の神野真国荘絵図によって知られる。開発領主は長依友で,これ以前に高野山に寄進されたことがあり,鳥羽院領となって以後も地利米10石の貢進が義務づけられている。…
※「神野真国荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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