1872年(明治5)の太政官布告によって,記紀説話の神武天皇即位の日を祝日とすることが定められたが,翌73年の二つの太政官布告によって,その日を2月11日とし,紀元節と呼ぶことが決められた。しかし神武天皇即位が架空の事実であるというだけでなく,推古朝以前に関する《日本書紀》の暦法が紀元節設定当時には明らかではなかったので,神武天皇即位日とされた辛酉年正月元日を太陽暦に換算することは不可能であったはずであり,2月11日の日付は当時の学問水準に照らしても無根拠であった。そのころ明治政府は,国内においては世直し一揆に対し,対外的には〈万国対峙〉という状況に直面していたが,この内外の危機を一挙に突破するために,神権的天皇に権力を集中させようと企てていた。紀元節はこうした天皇統治の存在理由である古代の政治神話を宣伝し,外国に対して国威をはるために設定されたものであった。そしてこれ以降も紀元節当日を期して,大日本帝国憲法が発布され(1889),宣戦の詔勅の新聞発表がおこなわれ(日露戦争),御真影の下賜や金鵄勲章の設定がおこなわれるなど,紀元節は天皇制国家主義の宣伝のための国家政策に強く結びつけられていた。太平洋戦争のとき,紀元節がシンガポール陥落の目標日に設定されたことは有名である。こうした紀元節も,当初は宮中,官庁,軍隊などで祝われたに過ぎなかったが,小学校教育の普及と1891年の〈小学校祝日大祭日儀式規程〉の制定を契機に国民の中にも定着していった。1926年からは学生や青年団,在郷軍人会などを主力にした建国祭のパレードや式典が,東京をはじめ各地で催されるようになったが,28-34年の時期には左翼の建国祭反対運動も出現し,紀元節への批判行動が生まれていた。
敗戦後の1948年,その存続を求める議会内の保守派議員の抵抗を押し切って,紀元節を廃止する〈国民の祝日に関する法律〉が制定されたが,66年同法の一部改正により建国記念の日として復活した。
執筆者:赤沢 史朗
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1872年(明治5)12月、明治政府によって定められた神武(じんむ)天皇即位日の祝日。当初は1月29日に指定されたが、翌年3月紀元節と命名、同年10月その日は2月11日に変更された。歴史的根拠があいまいな祝日を制定した意図は、天皇を中心とした国家支配の正当性を内外に誇示することにあり、小学校教育の普及に伴って国民のなかにも祝日として定着していった。紀元節には、大日本帝国憲法の発布(1889)や金鵄(きんし)勲章の制定(1890)が行われ、1926年(大正15)からは在郷軍人会や青年団・学校生徒を中心とする建国祭行事が各地で行われるなど、この日は国家主義や軍国主義の宣伝に大きな役割を果たした。太平洋戦争に際し、この日がシンガポール陥落の目標日として設定されたことも有名である。
1948年(昭和23)7月国民の祝日法制定に際し、日本国憲法の理念にふさわしくないものとして廃止されたが、66年の祝日法改正に基づいて、佐藤栄作内閣では翌67年2月、2月11日を「建国記念の日」とすることを政令公布し、事実上の復活を遂げた。
[赤澤史朗]
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1873年(明治6)3月に定められた国家の祝日。明治政府は国家成立の起源を「日本書紀」に記された神武天皇即位の「辛酉年正月朔」に求め,これを西暦紀元前660年2月11日と定めた。制定当初は国民生活になじみが薄かったが,89年のこの日に大日本帝国憲法が発布されて以降,学校教育を通じて紀元節奉祝が徹底され浸透していった。1948年(昭和23)7月廃止されたが,66年12月「建国記念の日」として制定された。その間歴史学者・宗教学者・ジャーナリズムなどから,その歴史的根拠の非科学性と第2次大戦前の軍国主義の復活に通じるとして強い批判をあび,反対運動が行われた。
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